武装する吉利支丹伴天連 in 長崎

「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が、紆余曲折を経て、2018年6月30日第42回世界遺産委員会において登録が決定した。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の構成資産

これは、日本におけるキリスト教の形を示した歴史的な事柄であり、長崎市民とすれば、何らかの形で評価される事は、観光面において有利であり喜ばしいと思う。

弾圧を恐れて潜伏する信徒は現代でもイスラム諸国や北朝鮮にいる。しかし、日本のキリシタンは極めて組織化されていた。250年たっても、すべての儀式が残っていたのは驚きだ。
250年経て残る儀式、驚き アニバレ・ザンバルビエリ パビア大教授(宗教史)

また、ローマ法王も声明を出しており、世界的にも珍しい事象として称賛されている。

それでは、なぜ日本人のキリシタンは、250年の間キリスト教の信仰を守り続けたのか。

その疑問に対して、一つの見解を考えた。

そして、たどり着いた答えが、「宣教師がいなくなったから」である。

戦略的な宣教師

日本にキリスト教を持ち込んだのは、フランシスコ・ザビエルである。

フランシスコ・ザビエル

彼はスペイン生まれのカトリック教会の司祭で宣教師だ。

日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。

ザビエルは日本人の印象について、「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう」と褒めている。

幕末に滞日したオランダ人医師ポンペの著書の中で、「彼ら日本人は予の魂の歓びなり」と言ったザビエルの物語は広く西洋で知られており、これがペリー率いるアメリカ艦隊の日本遠征を決心させる原因となったのは明らかであると述べている。

ヨハネス・ポンペ

これが事実かどうかは確認できないが、ザビエルの日本人に対する良評価が、その後の日本を変えていったのは事実である。

その後、日本にやってきた宣教師たちは、日本人と衝突を起こしながらも布教を続け、時の権力者織田信長の庇護を受けることにも成功し、順調に信者を増やした。

ここは重要だと思う。

布教の際、日本人たちと衝突を繰り返したということである。

一般的なイメージでは、キリスト教伝道師は穏やかで、争いごとなど一切しない人たちのように思いがちだが、それだけではなかったのである。

その当時の社会情勢を見れば、西洋は植民地時代であり、アジアはその標的だった。

スペイン、ポルトガルのアジア進出は、その当時のヨーロッパ事情があり、プロテスタント達の増殖により、対立構造の結果、ヨーロッパを飛び出していった事にある。

三十年戦争

アジアでの伝導は、神の愛を説くキリスト教の純粋な伝導だけが目的ではなく、教会派のカトリックと聖書派のプロテスタントの縄張り争いがあるし、それより、世界の発展途上の国からの資産の略奪がメインと言ってもいい。

宗教と略奪という、相反する矛盾を内包しているのが、カトリック伝導なのである。まさに、海上での十字軍の遠征だったのだ。

その尖兵となっている宣教師たちも、その事情は理解している。

ただ、日本の場合は、他の植民地化されたアジア地域と異なり、遠いのでヨーロッパの影響が及ばず、本国の軍事的・経済的な支援が無かった。

そのため、宣教師たちはまずその土地の大名などの有力武将と会見し、南蛮貿易の利益などを訴えながら布教の許可を得る必要があったのだ。

これらの行動を見れば、日本にやってきた宣教師が、かなり戦略的なことがわかる。

そして、イエズス会は日本に対する布教に関しての基本方針を立てている。

南蛮屏風に描かれたイエズス会士とフランシスコ会士

日本の布教長のための規則

これは巡察師ヴァリニャーノが定めた方針である。後に「適応主義」と呼ばれるが、基本的には日本人を尊重した考えであった。

そして布教のために確保した長崎を、キリスト教国にするための方針でもある。

その文章には、長崎を要塞化することを指示している。

鉄砲をもつ兵士たち

キリスト教会と宣教師たちを守るために、長崎を十分堅固にし弾薬武器大砲その他必要な諸物資を供給することが非常に大切。

茂木の要塞も、同地キリスト教徒の主勢力のいる大村と高来の間の通路なので安全を確保する事が大切。

長崎に城壁を有したなら、ポルトガル人をその中に配置する。等

長崎に多数のポルトガル人兵士を遣く

長崎のキリスト教徒入口を増加させ住民に必要な武器を与える

宣教師たちの戦略は、長崎を武装し要塞化することだった。

起源は16世紀後半の城塞、県庁跡地一帯の石垣研究

旧県庁舎のあった長崎市江戸町から官庁街の広がる万才町一帯では、断続的に石垣が現れる。市長崎学研究所の赤瀬浩所長は、それらが一連のつながりを持って周囲を取り囲んでいると指摘。16世紀後半、ポルトガル人が築いた城塞(じょうさい)と関係があるのではないかと考えている。

終戦翌年に作られた「長崎市街案内図」(長崎歴史文化博物館蔵、一部加工)の一部。描かれた石垣が、旧6町などを取り囲むように連なっているのが分かる 抜粋

長崎新聞https://this.kiji.is/469696646570296417?c=174761113988793844

どうだろうか。

これらの事実を知れば、長崎のキリスト教布教のイメージが変わるはずである。

まあ考えてみれば、戦争に明け暮れているヨーロッパ人にしてみれば、当たり前だったのだろう。

現在の長崎で知られているのは、キリスト教弾圧と棄教の際の残酷な拷問の事がほとんどである。

しかし現実は、戦う切支丹伴天連(宣教師)の存在が際立っている。

この結果、長崎は幾重かの木柵で守られ、砦が築かれ、何門かの大砲が長崎港の入り口を守るようになった。

余談だが、大村純忠と長崎純景が純粋な宗教的行為として、イエズス会に長崎を寄進したことになっているが、これは両名がイエズス会から多額の借金をしており、長崎港の「寄進」を要求されたとする説がある。

こんな宣教師たちの指導もあり、長崎のキリシタンたちは先鋭化していく。

神社仏閣を放火したり、神主や僧侶たちを追い回したのも、宣教師たちの影響が強かったんだと思う。

1587年、秀吉のキリシタン禁令(伴天連追放令)発布に対し武力により抵抗することが計画された。

この時はすでに、住民は武装し、長崎は要塞化されていた。

さらに軍艦も長崎港に配備されていたのである。

また日本国内のキリシタン大名と結託して行動を起こすことを計画していたのだが、有馬晴信・小西行長等がこれに応じなかったため、フィリピンの各方面に援軍派遣の書簡を送っている。

また、政府の迫害に対するキリシタン行進が行なわれてもいる。

これら一連の行動は、どう見ても反乱であり、テロ行為と言ってもいいだろう。

現実に、宣教師たちは日本の武力制圧を思い描いている。

長崎で殉教した26聖人の一人であるマルティン・デ・ラ・アセンシオンも、武力行使を論じている。

日本二十六聖人記念碑

いくつかの港を取得して要塞化し、艦隊を配備する必要がある。そして、日本において暴君たちの支配下にある多くの国々を武力によって奪い、最後には日本全土を我がものにすべきである。 マルティン・デ・ラ・アセンシオン

これらの国家転覆戦略計画を知った、秀吉、家康がキリシタンを徹底的に弾圧したのは理解できるのだ。

日本の戦国時代を終わらせ、国家平定に邁進している二人である。

ここで、ヨーロッパの軍隊が日本に攻めてくるなど、とんでもない事だったからだ。

キリスト教禁教の厳しさは、この武装した宣教師たちの策略が発端だったのである。

島原の乱も、この空気の中で起こった反乱だったと言えるだろう。

純粋な日本人の宗教心

もちろん、宣教師たちにもいろいろいる。

日本びいきの純粋な宣教師達も存在している。彼らは貧しい農民の人たちと暮らし、農民たちを助けている。

フランス人宣教師マルコ・マリー・ド・ロ神父は、村民のあまりに貧しい生活に驚き素麺の技術を伝えた

その宗教的純粋さがあったがゆえに、長崎にもキリスト教徒が増えていったのである。

しかし、現実は戦う宣教師たちが大半であった。

その結果、宣教師たちは日本からすべて追放され、後にキリシタンを信仰する者たちだけが残ったのである。

本来宗教は戦うために存在するものではない。

結局、残された人々は隠れて信仰を心に秘めて行くことになった。

日本人を褒め上げるわけではないが、やはり純粋な人が多かったのだ。

なので、戦う宣教師たちがいなくなった事で、純粋な宗教心に立ち返ったのだ。

そして、250年もの間、肩を寄せ合い信仰を守り通したとも言える。

この推論に対し、全世界のキリスト教徒の人たちは異論を唱えるだろう。

しかし、現在日本のキリスト教徒の人たちは数パーセントという数の少なさで、これもまた世界でも珍しい国である。

そんな国で、キリスト教を信仰し、250年もの間潜伏出来たのは、日本人の健気さと純粋さによってだと思うのだ。

キリスト教を非難するのではない。

日本にキリスト教を持ち込んだ西洋人たちが、日本人というものをやはり理解していなかったと思う。

これは、大きな悲劇としか言いようがない事だったのである。

天草ロザリオ館の隠し部屋 http://yanasegawa.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-f441.html

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