神が上か、仏が上か

神宮寺という名称がある。

神宮とは神様のことで、寺は寺である。

神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂をいう。つまりお寺の中に神様を祀っていたのである。

それを神仏習合(しんぶつしゅうごう)という。

長崎矢上神社 敷地内に仏像が安置されている

神仏習合

これは大昔からあったわけではなく、平安時代から始まった考え方で明治まで続いていた。

八幡大菩薩 本地仏 阿弥陀如来

時代劇に出てくる言葉に「八幡大菩薩」というのがある。

八幡は、一般には「はちまん」と読んでいるが、本当は(やはたのかみ)である。

源氏、平氏など全国の武家から武運の神(武神)として信仰を集めているれっきとした日本の神様である。

「菩薩」とは仏様から数えて上から2番めの呼び名で、衆生を導き、仏道を成就させようとする行者の事である。

神と仏の呼び名が合体して「八幡大菩薩」となっている。

つまり、八幡の神が、菩薩に変身して現れた存在という事である。

こんな風に神と仏は混在していたのだ。しかも、そんな時代は1000年以上続いたのである。

建物も神仏ごちゃ混ぜで、上賀茂神社(京都でもっとも古い神社)のように、神社のもとに小規模な仏堂が少しあり神宮寺という場合や、日光東照宮のように、大社だが寺院・僧侶がその運営を完全に掌握した場合もある。

日光東照宮

神様が主なのか、仏様が主なのかは、その宗教施設によってケースバイケースみたいだ。

そもそも天照大御神と大日如来が混在するなんて不思議な話なのである。

まあ共に偉いから、深く考えないでおこうというのが庶民のレベルなのだ。

しかし理屈っぽい人が宗教者にいて、その仕組を頭の中で考えて、理屈を作り上げている。

それが「本地垂迹(ほんじすいじゃく)説」という。

日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。

権現というのよく聞く言葉で、家康は東照大権現という。そして家康を祀る東照宮は神社である。

なので家康は神様なのである。

「権」というのは「仮」という意味で、仏や菩薩(ぼさつ)が仮(=権)に姿を変えて日本の神として現れることをいう。

そしてその在り方は、日本人にとって違和感はない。

日本人にしてみれば、神も仏も同格で、偉くて尊いものを拝むにあたっては、形式にはこだわらないからだ。

これは、日本で仏教が普及してきた際、仏教側が、今まであった神様の存在を排除せず、うまく混ぜ合わせた結果である。

感覚的にいうと、肌感覚て親しみがあるのは仏様達で、お寺に参れば自然と手を合わせ、頭を垂れる。格式があって畏敬の念があるのが神様で、神社へ行けば直立不動で柏手を打つといった所だ。

神社の中に、阿弥陀如来が祀られていても、御神体のない神様の拝殿の前では柏手を打ち、阿弥陀如来の仏壇の前では、手を合わせてお辞儀をする。

この使い分けを当たり前のようにするのが日本人である。

なのでこの神仏習合を問題視する庶民はいなかったと思う。

しかし、宗教者は、本地垂迹説という理屈で理論武装をした。

この説は仏が主体で、神は従であるという理屈である。

それなら仏教がいい出した説かというと、実は神社側からいい出したのである。

8世紀後半から9世紀前半にかけて「神々が仏に帰依したいと神託を下した」と各神社の神職がアピールしたのである。

何という弱腰であろうか、と現在では思うが、その当時の「神道」というのはそれくらいの勢力だったのではないかと思う。

そして、その言い出した理由はもっと情けなく、律令制の重税から逃れたかったためという税金逃れであったという指摘もある。(ちなみに仏教僧は無税)

だが仏教側も、民衆に根付いている神道側を利用するために、寺院に関係のある神を寺院の守護神、鎮守とした。

国教となった仏教と、民間信仰の中に根強く息づいている神道は共存共栄の道筋を建てた結果であった。

だからこそ1000年続いたのだ。

しかし神道派も本地垂迹説を受け入れる人たちだけではなかった。

鎌倉時代末期から南北朝時代になると、神こそが本地であり仏は仮の姿であるとする神本仏迹説を唱える伊勢神道や唯一神道が現れているのも見逃してはいけない。

混在する宗教

宗教の混合の場合、世界にも存在する。

例えば古代ペルシアの宗教にマニ教というものがある。これはゾロアスター教から派生し,キリスト教 (→グノーシス派 ) と仏教の要素を加えた宗教である。

本格的に融合していなくても、混在している地域は多い。

また、仏教の場合、インドで発生したのだが、広まっていくうちに様々な宗教を取り込んでいる。

例えば仏像の背についている光背だが、ゾロアスター教の影響をモロに受けている。

盧舎那仏像

というわけで、神仏混合というものが日本独特ではない。

そしてさらに、神道が日本の宗教なのかという根源的な理由にぶち当たってしまうのだ。

神道の発生は、日本人の誕生から共に生まれた自然宗教である。だから経典もなく、明確な組織図もない。

なので神教ではなく神道なのである。日本における神は「God」ゴッドではなく、人間を超えた力と解釈される。

例えば、雨が降る、日が照るなどの自然の営みは、人間には出来ない。だから神の行いなのである。

そこには、善悪の観念がない。

なので、すごくあやふやの宗教だったと言える。

いや、宗教という形すらない、信仰というレベルだったのだ。

しかし仏教は新しく変化し続ける宗教だった。

仏教のタイプ

日本に仏教が伝わってきた経緯なのだが、これは定かではない。

ただ、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だと一応決まっている。

この話だが、日本が仏教を教えてもらったというニュアンスが強いが、事実は違うようだ。

仏教といえば蘇我氏である。

蘇我氏だが、帰化人だったという説がこれまで多かったのだが、現在は違うとされている。

渡来系の氏族と深い関係にあったと見られ、王権の職業奴属民としての役割を担っていた渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。

つまり、中国の技術を持っている渡来系技術軍団の頭だったのだ。

教科書には「聖徳太子や蘇我氏は仏教を深く信仰し、世に広めた」と書かれている。

確かに仏教を国策とした隋の文化を直接学ぶために、遣隋使を派遣している。

しかし、この時期の仏教は、豪族らにより、もっぱら現世信仰のための呪術として受容されていたとされている。

つまり、朝鮮仏教の最も大きな特質は,新羅以来,護国仏教の伝統が存在することである。その精神を端的に表すのは新羅の円光の〈世俗五戒〉である。

世俗の五戒とは、「1君に事えるに忠をもってす。2親に事えるに孝をもってす。3友と交わるに信をもってす。4戦いに臨んで退くことなかれ。5殺生に択ぶあり」

1から3は、儒教であり、4.5に関しては、宗教というより戦い方である。

そして高麗時代の朝鮮半島の仏教はシャーマニズムや道教のように変化して、高麗王朝によって鎮護国家の法として重視されていく。

これらの歴史を知れば、大陸からやってきた仏教と私達が思っている仏教には大きな隔たりがあったようだ。

隋朝を建てた文帝は、一転して仏教・道教の部分的な復興という政策を採った。さらには、仏教を主とし、儒教・道教を副として扱う仏教治国策を始めた。

実は中国史上においても、仏教治国策は特異な政策とされている。

中国には、儒教・仏教・道教という3つの教えがあった。仏教を国の教えとしたのは、梁の武帝がいるが、武帝は個人的な信仰に基づく修功徳行為だが、隋の仏教治国策は、公共事業や、農民への宗教政策など、国家全体の政策として取り組まれていた点が大きく異なる。

その後の唐は仏教の地位を道教の下に置いている。

また、隋で扱われている仏教と、朝鮮半島仏教は微妙に違うといえる。

そんな仏教を蘇我氏は日本に積極的に取り込んでくる。

日本における仏教の広がりは蘇我氏などの豪族が中心となっている。すなわち、国家仏教でなくて豪族仏教として成長していったという経緯がある。

結局、日本の初期仏教は飛鳥寺(あすかでら)に象徴されるように、蘇我氏を中心とした豪族の私寺仏教に始まっている。

飛鳥寺

そんな仏教を聖徳太子はどう思ったのか定かではないのだが、彼は「渡来した新しい神(つまり仏)」によって旧弊の朝廷政治の在り方を変えようとしたのであって、仏教教理に感動して「魂の救済」を志したわけでは無いようである。

聖徳太子が行った改革に「冠位十二階の制定」「十七条の憲法」があるが、これらが仏教と結びついていないからである。

冠位十二階は、これまでの世襲制を廃止して、冠位を個人に与えるという政治改革である。

十七条の憲法も、当時の朝廷に仕える諸氏族の人々に対して,守るべき態度・行為の規範を示した官人服務規定ともいうべきものである。

これは明らかに儒教の五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を、官僚に行動規範として示したかったと思われる。

しかし、聖徳太子は法隆寺や四天王寺を建設したことや、「三経義疏」という仏典について解説した書物の著者としても知られている。

個人的には仏教の考え方に帰依していたと思われる。しかし天皇家の人間である。

神道という物があるので、そこはバランスをとったのだろう。

また仏教推進派の蘇我氏のその後の行動を見れば慈悲の仏教に帰依しているとはいい難く、天皇家の外戚となって日本を乗っ取ろうとしていくさまが見える。

それは政治のための仏教を日本に持ち込みたかったのだと言える。そして、それは自分たちの勢力拡大の為だけだったのだろう。

しかし仏教は確実に国教化されていく。

かたや神道だが、神道独立した形で確立する動きがやっと出てくる。

吉田兼倶(よしだかねとも)は教義を、元本宗源神道といい、仏教ありきの両部神道や山王神道にではなく、反本地垂迹説を唱え、本地で唯一なるものが神であるとして森羅万象を体系づけた世界観をあらわすようになる。

それを吉田神道といい、この時代から神道は仏教とは違うものになったと言ってもいい。

しかし仏教優位は動かなかった。

神仏判然令

これが逆転したのが、明治時代である。

神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)が明治1 (1868)に布告される。

これにより、神社に勤仕していた僧侶が還俗(げんぞく)して神職となったり,職業を失ったりした。

この政令の目的は、王政復古による天皇家の再認識と日本の神道国教化にある。

決して仏教排斥を意図したものではなかったが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。

首のない地蔵を修理している

この大騒ぎは、少しびっくりする。

なにせ1000年ほど続いていた仏教優位だったのに、政令一つで日本中が仏教関係を排除したわけである。

寺請(檀家)制度のもとで寺院に反感を持った民衆が大勢いたのである。

これは分かるような気がする。

現代でも檀家制度は生きており、相変わらず月命日に坊さんが拝みに来る。

しかし肝心のお寺は、最近建て替えて、要塞のようなビルになり、庭は潰してレンタル駐車場にしている。

これだけでも腹が立つのに、大型スクーターで法衣をなびかせて各家を回る姿は情けなくなってくる。

やはり、檀家制度が坊主をだめにしたと思う。

また、あの高額の葬式の構造も頭にくる。戒名代の高額さは一体なんだろう。それと葬式屋の不透明さ。いやーいくらでも文句は出てくる。

仏教は決して嫌いではない。高野山に行った時、その荘厳さには感動したものだった。

仏教は信仰するけど、坊主やお寺は嫌い。

多分この感情は明治時代の庶民と同じだと思う。

結局、この神道優先制度は長続きせず、神道の脆弱さもあり有耶無耶になってしまった。

そして現在に至っているのだ。

宗教ではなく人の道

今考えることがある。

日本人の源宗教は神道だったという大前提の考えが間違っていたのかもしれない。

仏が上、神が下と考えたのは、その時々の豪族や武士であり、宗教関係者だけだったのかもしれない。

日本には古来より、素朴な自然信仰のみがあり、そして祖先を祀る、極めて素朴の信仰で支配されていたのだ。

それは流動的であり、道教の老師の言葉にある水のような信仰心だったのだ。

現在、各地の小さな神社を回ってみると、皇室神道だけではないことがよく分かる。

神社に祀られているのは、迷信だったり、妖怪だったり、よく知らない神々だったりする。

そんな、雑多なものを拾い上げていったのが、仏教なんだろう。

神棚と仏壇が並べられている祠 岩屋神社

そして、単純な祖先崇拝の神道とうまく補完しながら、日本でうまく機能していたのである。

つまり日本の混沌とした信仰心の受け皿が、仏教であり、神道だった。

そして成立していったの宗教は父母の関係をとる。

存在自体が頼もしい神道は「父」的役目がある。

父は祖先の象徴でもある。そして父は方向性のみを伝える。

仏教は「母」的である。神道が触れない死後の教えを説き、慈悲の心で日々を癒す。

父母は右手左手のように、2つで1つの「親」である。

つまり私達が頭を垂れるのは、親の教え、先人の教えだからだと思う。

明治時代、廃仏毀釈で神道が全面に出てきたのは、日本が欧米に対抗しなくてはならなくなったからである。

明治政府が、外国に対して天皇の存在理由を明確にするために打ち出した姿勢(政策)の一つでしかなかった。

「欧米の皆さんにキリスト教があるように、日本にも古来より神道という神様がいて日本を導いてくれたのだ」と、胸を張って威張ってみせただけのことだと思う。

だから仏教はなくならかった。本当は神仏が日本人に必要だったからである。

日本の宗教を父親的性格の神道と母親的性格の仏教という形に、日本人が作り上げていったのである。

そしてある人はそれを「日本教」と呼んだ。

しかし本当に宗教だろうか。

ご飯を食べる時に「いただきます」を言い、手を合わせておじぎをするのは、仏教という宗教だろうか。

戦争時に、死ぬとわかっていても戦艦に体当たりをする若い飛行機乗りは、神国日本を信じ切っている神道信者なのだろうか。

いずれも違うような気がする。

それは、もっと原始的な感情だというような気がする。

そして、その感情は日本人独特の「道」につながっているような気がするのだ。

なので、日本教というより「大和(やまと)道」と呼んでもいいものである。

そしてそれは「人の道」でもある。

私達は「人の道」を外さないように、神道、仏教の神に頭を垂れているだけなのである。

いま、キリスト教も日本の風俗の中に取り込まれている。それは、日本の西洋化の影響が強いせいである。

また、これから移民の人達が増えてくると、イスラム教も一般化してくるだろう。

たぶん日本人はイスラム教の何かを取り込んでいるような気がする。

そういえば、四国のお遍路さんも、伊勢参りも、イスラム教のメッカ巡礼と通じるものがあることに気がついた。

メッカ

高野山 巡礼

こうなると、日本の宗教は、地球上のすべての宗教の何かしらを、用途別に取り込んでいくのかもしれない。

この用途別というのが日本らしいのである。

やはり日本人は面白いと思う。

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