神の名を持つ天皇たちの謎
神功皇后の鎮懐石の話が不思議で、色々調べていると、天皇の名前に神という字がついている天皇は3人しかいないという話に複数出会った。
色々その理由を書いていたが、神の如き働きをしたのでという理由が多かったと思う。
さらに、天皇家は万世一系ではなく、タラシ王朝やイリ王朝などといった、天皇の名前から複数の王朝があったと推理するものもあった。もっと飛躍した発想で、神武天皇と崇神天皇が同一だというのも多かった。
様々な説が百花繚乱といったところか。
実は、この文章を書くにあたって、図書館に行って様々な本を読み漁った。
「盗まれた神話、古田武彦」「神功皇后を読み解く」「幻の四世紀の謎を解く」「神武と応神 祟り神の秘密」「神の時空」・・
もっと様々な本があったが、古代天皇の話が、色んな人達の興味を引くのかが良く分かる量である。
空白の4世紀、邪馬台国と大和朝廷への連続性、古事記と日本書紀の違い、まさに謎の宝庫である。
私も、何かあるなと思う。
そんな中で、一部の天皇の諡に神の名前が付いているという事は、やはり重要なことだと思う。
淡海三船
この諡(おくりな)は、淡海三船(おうみのみふね)という、奈良時代後期の文人がつけている。
辞書には、「神武天皇から光仁天皇までの漢風諡号を選定したともいわれる」広辞苑より
淡海三船さんが優れた学者だという事はわかるが、天皇の諡(おくりな)が奈良時代後期の考えがベースになっている事を考慮に入れたい。
これを命令したのが孝謙天皇だ。
史上6人目の女帝である孝謙天皇の勅命を受けて、天皇の漢風諡号を撰定したのだが色々問題もある。
孝謙天皇は2度天皇になった人物で、その性格を「自らに反抗したものに、卑しい名前を付ける」とウィキペディアでは書いている。
彼女はセックス上手の弓削の道鏡を寵愛しすぎて、政(まつりごと)が迷走したのも有名な話で、道鏡が天皇になろうと企んでいたのを、和気清麻呂が宇佐八幡宮の神託で阻止した。
その事を恨んで和気清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と呼んだというのが有名である。
卑しい名前を付けることで、腹の虫を納めていたのだ。
これは中華思想にも通じる。
中国では四夷(しい)といい、中華に対して四方に居住していた異民族に対して蔑称を付ける。日本を倭と呼んだのがいい例である。
つまり、言霊を強く信じていたのだろう。
この情緒不安定の天皇の命令で、淡海三船は作業をしているのだ。
かなりの忖度があったと推測できる。
天智系と天武系
さらに天智系と天武系という言葉がある。
古代日本最大の内乱である壬申の乱で、勝利した大海皇子が天武天皇として即位して以来、しばらく天武系の天皇がつづいていた。
この672年の壬申の乱とは
天智天皇の太子・大友皇子に対し、皇弟・大海人皇子(天武天皇)が兵を挙げて勃発した。反乱者である大海人皇子が勝利するという、日本では例の少ない内乱であった。ウィキペディア
つまり、この時から天智天皇系と天武天皇系が誕生している。孝謙天皇は天武系の最後の天皇だった。
孝謙天皇が、再度48代の称徳天皇となったのだが、皇太子を決めることが出来なかったので、天武系は彼女で途絶えている。
淡海三船が作った天皇名は、そんな状況証拠を考慮に入れなければならないと推理する。
皇族の諡(おくりな)の決まり
諡(おくりな)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る称号である。
なので文字のよみ通り「贈り名」と言う意味である。
この皇族の諡、特に天皇に関しては、生前の事績への評価に基づく名になる場合がある。
それ以外にも、「追号」がある。「追号」は「元」天皇に送られる名前で、生前の徳業,行状とは関係なしに贈られた号で、住んでいた場所やゆかりのある土地の名前などが多い。
例えば土御門天皇,東山天皇などがそうである。
当然なんだが、天皇の名前は意味があるのである。
とすれば、「神」の文字を贈られた天皇には、なにか特別の共通点があるはずである。
それを探してみたい。
神の名がつく皇族
たしかに神の名がつく天皇は3人だが、神の名がついている皇族もいた。
調査対象は神武天皇、神渟名川耳命(綏靖すいぜい天皇)、神八井命(神武天皇の皇子)、崇神天皇、神功皇后、応神天皇である。
神武天皇
神武天皇は大和王朝の最初の天皇なので、神の文字がつくのは納得である。
しかし、神武天皇の息子にも、神の名がついている。
日本書紀によると、神渟名川耳(かむぬなかわみみ)命(綏靖すいぜい天皇)と神八井命である。
この二人の母は事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(日本書紀)である。実はこの皇后以外にも妻がいた。
一人は九州、日向の最初の奥さんで、神武東征までの間、暮らしていた隼人族の女性で吾平津媛である。
そしてその子供は、手研耳(たぎしみみ)という。
神武天皇は、近畿の大和の地の橿原宮に初代天皇として即位し、正妃として五十鈴媛命(イスズヒメ-姉)を皇后とした。
これは政権を安定させるための政略結婚である。
そして子供が二人生まれる。
つまり神武天皇には合計3人の息子がいて、一人は神武東征に同行した手研耳と、大和を治める為、再婚した皇后の息子の、神渟名川耳命と神八井命である。
どちらも正統な次期天皇後継者である。
年齢的にも手研耳は年上で、神武天皇の第一子なので次期天皇は、黙っていても手研耳になるはずだった。
しかし、手研耳の反逆という事件が起きる。
神武天皇の崩御後、研耳命は二人の弟(神八井耳命・神渟名川耳尊)を殺そうとはかったという。
その結果、二人の弟は協力して、逆に異母兄の研耳命を殺してしまう。
その殺害シーンだが、神八井耳命はビビってしまい弓を引けず、弟の神渟名川耳尊は兄の所持していた弓矢をひき取り、弟が弓矢で射殺したのだ。
そして、兄は恥じ入り、弟の神渟名川耳尊が2代目綏靖天皇になったという話である。
これは明らかにおかしい。どう見ても一番末っ子が、兄二人を退けて、武力で天皇になったという話である。
崇神天皇
崇神天皇は第10代天皇で実在した可能性のある最初の天皇とされている。
また後世崇神天皇は「はつくにしらす」と追称されている。
これは神武天皇の称号『始馭天下之天皇(はつくにしらす)』と読みが同じということから、実質的なヤマト王権を確立した天皇とか、同一人物とかも言われている。
崇神天皇はかなり個性的である。
即位後疫病が流行ったのだが、崇神は事もあろうに天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出し、大物主神を祀ることで治めてしまった。
これは実に不思議な話である。
天皇家の始祖神である天照大神が疫病を流行らしたと考えるあたり、反大和かなともとれるが、『古事記』には天下を統一して平和で人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになったと書かれている。
この天照大神を宮中の外に出した件だが、天照大神は祟り神だったからという説がある。
しかし、なぜ祟り神だと思ったのかの理由が曖昧なので、違う理由だろうと思う。これは後日調べてみたい項目である。
崇神天皇の皇子倭彦命の葬儀では、「近習者を集めて、生きたまま陵のまわりに埋め立てた。何日も死なず、昼も夜も泣き叫んだ。ついに死んで腐った死体は、犬やカラスがついばんだ」と「日本書紀 垂仁28年」に書かれている。
兄弟の垂仁天皇は、この泣き叫ぶ声を聞いて、ついに我慢できなくなり、「殉死禁止令」を出す。これが埴輪の始まりとされている。
つまり、霊的な事にかなり敏感だった天皇のようである。
それ以外にも、神が夢に現れたということで、大和国の東口と西口に盾と矛を祀り、その後、四道将軍を派遣して全国を教化するとして、軍を各地に派遣している。
そして、北陸へ出発した大彦命が不思議な童女から不吉な歌を聴き、その事で倭迹迹日百襲姫命がさらに詳細な予言を行い、武埴安彦の反乱を見つけたという事になっている。
武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の反乱とは、天皇家のクーデターである。
皇族の武埴安彦は、妻の吾田媛(あたひめ)とともに挙兵して政権奪回を試みたのだが、鎮圧されてしまったのだ。
やはり何かある天皇である。
神功皇后、応神天皇
この二人は親子だ。
神功皇后の家族だが、父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は渡来人の新羅王子天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高額媛。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫がいる。
母親は葛城(かつらぎ)とある。葛城は、奈良盆地の南西部を指す場所で、葛城氏はこの地を治める豪族だった。
父が天皇なので、正統的血統と言えるが、この血統には、同母兄弟には大彦命・少彦男心命・倭迹迹姫命、異母兄弟には彦太忍信命・武埴安彦命がいる。
お母さんは渡来人の新羅王子天日矛の子孫で、大和に対抗できる豪族葛城(かつらぎ)一族で、三輪信仰の象徴でもあり、大和朝廷に影響力を持つ家系である。
つまり、神功皇后は大和成立に関わった主要な家柄といえる。
それならば、夫の仲哀天皇はどうだろうか。
仲哀天皇の父は、あのヤマトタケルだ。
しかしヤマトタケルは天皇ではない。更にヤマトタケルの名前は、九州熊襲のクマソタケルから貰ったものである。
このあたりが少し怪しい。
神功皇后の物語と言えば、三韓征伐である。
仲哀天皇が熊襲が再び反乱を起こしたとの報を聞き熊襲へ行く準備をする。
しかし、神功皇后は筑紫橿日宮で神託を行い、神懸った(トランス状態に入る)。
お告げの内容は「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡り金銀財宝のある新羅を攻めるべし」というものだった。
仲哀天皇は、この神を信じず熊襲を攻めたが空しく敗走してしまう。そして翌年2月に天皇が橿日宮(現・香椎宮)にて急死してしまう。
その1ヶ月後、武内宿禰を審神者として再び神託を行っている。
その結果、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めたのだ。
その時に、お腹の子供が出てこないように鎮懐石を使っている。
鎮懐石
この鎮懐石とはなんだろうか。
誰からもらったとかも書いていない。
しかしこの鎮懐石がなければ、朝鮮半島へ行けないので、重要アイテムだと思うのだが、なぜ記述が少ないのだろうか。
神功皇后は筑紫橿日宮(つくしのかしひのみや)の天照大神荒魂、事代主神、住吉三神の神託を信じ行動している。
筑紫橿日宮は香椎宮(かしいぐう)として造営されたお宮で、主祭神は、仲哀天皇、神功皇后で、配祀神は応神天皇と住吉大神(すみよしのおおかみ)となっている。
香椎宮の記録では
三韓征伐を完遂し給ひ、此の時の舞楽が志賀島に伝はりて香椎廟の大祭には志賀の白水郎男十人女十人風俗舞を奏し其の衣冠は太政官が奉献していたことが正史並びに香椎宮の社記に記されています。
つまり、戦勝の祝を志賀の白水郎がしたとある。
白水郎という言葉は、長崎県の五島列島にも残されていて、魚を潜って採ることが巧みな中国の海人たちを指す。
その事実を見れば、神功皇后は海人族から崇拝されていたのだと言える。
香椎宮の祭神を見れば住吉大神の名前がある。
祀られている神は底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)だ。
神功皇后は、この神の神託を聞き実行に移したのである。逆に仲哀天皇はこの神の主張に反抗したのである。
こうなると神託を述べた神が気になる。
住吉三神は海の神様である。
さらに住吉神社の境内摂社の大海神社があり、現在の祭神は次の2柱で豊玉彦命(とよたまひこのみこと)、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)がある。
この事でピンとくることがある。
豊玉姫命と言えば、大和の始祖に当たる山幸彦に、不思議な玉を2つ渡している。
海幸彦、山幸彦の話に出てくる「潮盈珠(しおみつたま)」と「潮乾珠(しおふるたま)」である。
この玉は潮の満ち欠けを操れる玉だった。
神功皇后が持っていた鎮懐石とは、妊娠を伸ばしたり、止めたりする事ができる霊石である。
女性の妊娠は、月の満ち欠けに支配されていると言われ、海の潮と同一視されている。
つまり、豊玉姫が山幸彦を助けた、霊力のある玉が鎮懐石なのだ。
そしてこの石のおかげで、三韓征伐を成し遂げることが出来、生まれたのが応神天皇である。
皇祖神応神天皇
神功皇后はこの子を天皇にしようとしたが、仲哀天皇の前妻の子が叛乱を起こした。
しかし神功皇后によって鎮圧された。
応神天皇は池溝開発,内政整備の作業を進めたが、特に渡来人の登用が顕著で、この時代における大和国家の勃興と,大陸や半島の先進文化の取り入れに尽力した天皇として書かれている。
応神天皇は、後に男系断絶した仁徳天皇皇統と現在まで続く継体天皇皇統の共通の男系祖先とされている。
つまり、応神天皇は、仁徳天皇と継体天皇のご先祖様なので、後世に皇祖神として奉られることになった。
共通点は反乱
さてこれらの神の名がつく天皇の共通点を単純化してみる。
まず共通する事は、神武天皇を除いて、その時代に天皇の地位を奪い取る反乱があったという事だ。
神渟名川耳(かむぬなかわみみ)命と神八井命の場合
神武天皇の子どもたちは、手研耳(たぎしみみ)という神武天皇の日向時代の先妻の子を謀反という理由で殺害をした。
崇神天皇の場合
武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の反乱が起きた。
神功皇后、応神天皇の場合
仲哀天皇の子供たちの反乱が起き、これを鎮めている。
そしてさらに興味深いのが、その反乱を起こしたのが天皇家の正当な血筋を持つ人間ばかりである。
つまり内紛ということなのだ。
例えば神武天皇の場合、母親が隼人出身といえども、研耳命は正当な天皇後継者としての長男である。
崇神天皇も反乱を起こしたのは、孝元天皇の皇子。
神功皇后、応神天皇の場合も、仲哀天皇の皇子たちが反乱を起こしている。
天皇存在の現実性
しかし応神天皇以降の天皇家にも、内紛や後継者争いはかなりある。
どこが違うのかと言えば、天皇存在の現実性だろう。
古事記や日本書紀の研究は進んでいて、ある程度、存在が確認されるのは、仁徳天皇以降だろう。
仲哀天皇の次が応神天皇、そしてその次が仁徳天皇である。
つまり、神の名を持つ天皇の実在は不明なのだ。
最後に神の名を持つ天皇は応神天皇で、西暦で推測すれば300年ほどで、4世紀くらいである。
仁徳天皇は4世紀末から5世紀前半に実在したとされている。
という事は応神天皇までは神話の世界だったのである。
日本書紀は720年に出来ている。
なので、当然昔の天皇の話は、伝聞だったのだ。
だが、万世一系を証明するためには、初代から書かなければならない。
となれば、民衆の記憶に残っている仁徳天皇以前は不明で、いろんな推理を働かして、つじつま合わせを作ったのだろう。
そこがポイントなのだ。
神という文字の意味
漢字を正式な日本の文字として採用されたのは4世紀後半とされている。
そして神という文字のもつ意味は多彩だったと思われる。
しかし神という字が、中国で初めて現れたのは紀元前の事である。
孔子の編纂と伝えられている歴史書『春秋』の代表的な注釈書の1つの春秋左氏伝‐荘公三十二年の記載が、漢字の「神」の初出とされる。
「神」は、国の興亡の分かれ目に、君主の善悪を見極め禍福を下す、聡明正直で純一な者として記されている。ウィキペディア
ここに書かれている神の定義を見れば、国の興亡の分かれ目という文がある。
つまり、日本で言えば、万世一系の分かれ目になったと想像できる天皇に「神」の文字を贈ったのだ。
多分記紀編さんの方法は、近年から進められたと思う。そして、仁徳天皇までたどり着いた。
だがそれより昔は、手探り状態だったのだろう。
しかし仁徳天皇以降の血筋と継体天皇以降の血筋の流れがあることはわかっている。
継体天皇-『記紀』によれば、15代応神天皇の5世孫であり越前国を治めていた。本来は皇位を継ぐ立場ではなかったが、四従兄弟にあたる第25代武烈天皇が後嗣を残さずして崩御したため、中央の有力豪族の推戴(すいたい)を受けて即位したとされる。ウィキペディア
つまり、継体天皇が万世一系の血脈であるという事を証明できるのが応神天皇だったのである。
万世一系の血脈の分岐点
神の名を持つ天皇に、身内争いが全てにあったということは、神の名を持つ天皇が、正統派天皇だということになる。
神武天皇は九州の日向出身とされている。
その時代日本は倭国と呼ばれていた。
その倭国と大和国の分岐点が神武天皇なのである。
神武天皇の子供だが、この子供から近畿大和の血がスタートしている。
なぜなら、神武天皇は近畿大和族ではなく、九州の大和族だからである。
なので、近畿大和族の血を持つ最初の子を、神八井耳命・神渟名川耳尊という神の名を付けたのだろう。
結局、反乱を起こし、弟の神渟名川耳命(綏靖天皇)が天皇になった。
綏靖天皇という諡があるが、日本書紀には神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)という記述がある。
崇神天皇の場合も反乱があった。
武埴安彦の反乱が起こっているが、武埴安彦は孝元天皇の皇子であり、どっちが勝っても天皇家の血筋は守られる。
そして、勝った方に神のつく諡を与えたのだ。
神功皇后の場合は、神武天皇と同じように再婚である。
仲哀天皇の前妻は大中姫命という。二人はいとこ同士で、子供も出来ている。
それなのに、気長足姫(おきながたらしひめ・神功皇后)と再婚している。
なぜ気長足姫と結婚したのかは記述がない。
推測だが、これもまた血統の分かれ目だと思う。
気長足姫は海人族に繋がり、仲哀天皇は、伝説の大和系である。
ともに天皇家と関わっているので、問題はないと思うのだが、天皇の背景にある支持団体が違う。
ここでも地政学でいうシーパワーとランドパワーの入れ替えが起こったのだろう。
なので皇后なのに神の名がつけられたと推測する。
そしてその子の応神天皇も、正統派同士の闘いで勝ち残っている。
謀反の種
正統派同士の闘いの場合、後年に謀反の種を残すことになる。
そこで、神という文字の定義に従い、国の興亡の分かれ目に、君主の善悪を見極め禍福を下す、聡明正直で純一な者として、天皇の諡に神の文字を付けて記録したのである。
そうしないと南北朝のように、天皇家が2つ起つ恐れがある。
これを避けたと思われるのだ。
正確な記録が残っていないので、後からどうとでも解釈ができる。。
なので、天皇家の分岐点となった天皇に神の名をつけ、後世の争いを避けた知恵だったのである。
神の文字は絶対であり、正しい流れを示す「マーク」として、諡に神の文字を付けたのだ。
神の名を持つ天皇は、たしかに激動の時代を経てきた物語を持っている。
だが、それは血統争いをも含んでいる。
天皇家の存続の理由は、神からの血脈のみである。
血統こそが「神」なのだ。
大和の人々はその事を深く理解していたのだ。
能力で決めれば、日本は中国のように乱れる。
その事を十二分に理解していたので、天皇家は血統のみを天皇の証としたのである。
神とは勝ち残った王者のY遺伝子の血統だったのである。
正しさや強さは、天皇には必要ないのである。
天皇とはY遺伝子の血脈だけであり、その単純さのみが、万世一系を支える理論なのである。
すばらしい。