キリスト教徒に毒殺された大村藩主
長崎のキリスト教関連事項に興味があり、いろいろ読み漁っている。
キリシタン棄教の際、幕府が行った拷問だけがクローズアップされていて、他の色んなことが表に出ていない事を憂慮している。
更に16世紀のヨーロッパ事情を知れば知るほど、西洋の身勝手なアジア侵略によってもたらされた悲劇にうつむいてしまう。
もしヨーロッパでキリスト教が、カトリックとプロテスタントに分裂しなければ、スペインもアジアに目を向けなかったかもしれない。
タラレバの話だが、西洋の大航海時代が50年、100年遅れていれば世界の様子はだいぶ変わっていただろう。
だが、もしそうであれば、日本は江戸の太平の時代になり戦国時代ほどの戦闘意欲はなく、ヨーロッパ勢の植民地になっていたかもしれない。
そう思えば、ザビエルが日本にやってきた時期は、日本武力最強の時代なのでベストタイミングだったかもとも思う。
公平な目で歴史の事実を知る事はとても重要である。
長崎は観光地なので、その宣伝も悲劇の長崎として売り出したいのだろうが、事実だけはちゃんと知りたいと思う。
今回の大村の事は私の不勉強のせいである。
長崎にキリスト教をもたらした大村純忠の事は何度か調べていたが、彼の息子や孫のことは知らなかった。
しかしウィキペディアには、はっきりと書かれていた内容なので、知っている人の方が多いと思う。
ただ私が知らなかっただけなのだが、まとめて書いてみる。
大村純忠
大村純忠(すみただ)は長崎にキリスト教を持ち込んだ大名として有名である。
色んな本も出ているし研究者も多い。私も多少知っていたつもりなのだが、大村藩に関しては無知だった。
藩主家である大村家の経歴は明確ではないが、平安時代または鎌倉時代よりこの地の領主であったという。
大村氏の系図や史書では、先祖は藤原純友の孫・藤原直澄(なおずみ)とされている。
直澄が正暦5年(994年)に伊予(愛媛県)から肥前に入部し、肥前大村を本拠として領主化したのが始まりだとされている。
また一説には、平清盛の祖父・平正盛の追討を受けた肥前藤津(佐賀県)領主・平直澄(平清澄の子)が先祖であるとされる。
ともかく、四国か佐賀のいずれかから、この長崎、大村の地にやってきた。
不明確ではっきりしない大村家だが、大村純忠は、そんな大村家の第18代当主である。
時代は戦国時代から安土桃山時代である。戦国を生き抜いてきたわけで、それなりに力のある一族だったとも言える。
純忠の生い立ちも複雑だが、その説明は今回の件に関係ないので省略する。
秀吉とキリシタン
そして時代は秀吉の時代となる。
大村純忠は、天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州平定に長子の喜前(よしあき)を従軍させ、戦後の九州国分では領地を安堵された。
大村純忠はその時すでにキリシタンである。
それなのにどうして秀吉は警戒しなかったかというと、息子喜前(よしあき)は、十分に秀吉のために働いていたからである。
更に秀吉はキリシタンに対して好意さえあった。
この態度が一変するのは、この後である。
フランシスコ・ザビエルが日本にやってきたのは1549年である。大村純忠は1533生まれなので、16歳の時となる。
そして純忠47歳の時つまり1580年、長崎と茂木の地をイエズス会に教会領として寄進する。
ザビエルがやってきて、大村純忠が長崎をイエズス会に差し出すまで31年ある。
その間、大村純忠はキリスト教と深く関わり続けた。
大村藩の誕生
時代は変わり徳川家康の時代となる。
江戸幕府開府後も本領を安堵され、大村純忠の死後、長子の喜前(よしあき)が初代藩主となる。
この時、初めて大村藩というのが公式に誕生したのである。
純忠には4人の息子がいて子供もキリスト教に入信させている。
喜前(サンチョ)、純宣(リノ)、純直(セバスチャン)、純栄(ルイス)という。
資料によると、父親純忠は、ポルトガルに頼って富や武器を手に入れるという打算的な目的でキリスト教に近づき、先祖の墓や社寺も破壊し、改宗を拒否をした仏僧は追放するなど過激な手法を取り続けている。
しかし、キリシタンの洗礼を受けた後、純忠は正室のおゑんと改めてキリスト教に基づく婚姻を行い、この時に側室を退けたという。
何処かで、本当に信仰に芽生えたのだろう。
その後55歳の純忠は咽頭癌並びに肺結核に侵されて重病の床にあり死亡している。
長男喜前(よしあき)が37歳の時である。
喜前は戦の経験が豊富である。秀吉の九州征伐、文禄・慶長の役、関ヶ原の戦いと歴戦の勇者なのだ。
大村藩も自力で勝ち取ったという自負がある。
なので、父とは違う道を歩みだした。これは当然の事だろう。
1587年7月24日豊臣秀吉はバテレン追放令を出す。キリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書である。
バテレンとは宣教師のことで、宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡してキリスト教宣教の制限を表明した。
このバテレン追放令の中身だが、世間で考えているほど一方的ではない。
秀吉の考えはキリスト教徒になるのは自由だが、為政者がキリスト教を強いるのはだめだとしている。
最初に(自らが)キリスト教徒であることは、その者の思い次第であるべきである。(『天正十五年六月十八日付覚』より)
秀吉はキリスト教に寛大だったのだ。
しかし為政者がキリスト教を強いるのはだめだろうと言っている。
そしてそれは、日本国を乱した一向宗のように宗教を中心とした勢力を警戒しているのだ。
その後吉利支丹伴天連追放令が出る。
その内容は、
キリスト教宣教師はその知恵によって、人々の自由意志に任せて信者にしていると思っていたのに、前に書いたとおり日本の仏法を破っている。日本にキリスト教宣教師を置いておくことはできないので、今日から20日間で支度してキリスト教の国に帰りなさい。キリスト教宣教師であるのに自分は違うと言い張る者がいれば、けしからんことだ。
実にまともである。
貿易船は商売をしにきているのだから、これとは別のことなので、今後も商売を続けること。
いまから後は、仏法を妨げるのでなければ、商人でなくとも、いつでもキリスト教徒の国から往復するのは問題ないので、それは許可する。
ただ、この機に乗じて宣教師に危害を加えたものは処罰すると言い渡している。
これもまた公平な態度である。
そして秀吉は長崎をイエズス会から奪還し、天領とした。
この秀吉の言い分はまともであり良くわかる。
逆に言えば、キリシタン勢力が、ことさら目立つ方法で布教をし、勢力を強めていったのがわかる。
秀吉はコエリョに「なぜ神仏の寺院を破壊し、その像を焼くのか」と質問しているが、コエリョは「キリシタンたちは、我らの教えを聞き、真理を知り、新たに信ずるキリシタンの教え以外には救いがないことを悟った。彼らは、(中略)神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅したのである。」(ルイス・フロイス「日本史 4」)と回答している。
これでは取り付く島がない。
日本でのキリスト教の悲劇は此処にある。
日本に来た宣教師たちは、日本以外でも伝導している。
そしてそのやり方はいつだって、高圧的で残酷でもある。すべての宣教師がそんな態度ではないかもしれないが、ほとんどそうだと推測しても間違いではない。
喜前はキリスト教を棄教した。朝鮮出兵の時に知り合った、肥後の加藤清正が日蓮宗徒なので、それに傾倒したのだろう。自分も日蓮宗になる。
日蓮宗の特徴は、他の宗教を公然と攻撃し、かなり攻撃的である。
喜前が、反キリスト教となり、邪教と名指しされるキリスト教を領内から駆逐すべくキリシタンの厳しい弾圧を始めたのだ。
その行為に対して妹・松東院や子供・純頼は反対している。
しかし、体制側に回った大村藩の運命は、反キリストという立場を取らざるを得なかった。
というより、喜前が自分の道を歩み始めたと思う。
父と反対の道を歩み始めたのだ。
大村喜前 毒殺される
元和二年(1616)八月八日、47歳の大村喜前は玖島城で毒殺された。
ウィキペディアには「迫害を恨んだキリスト教徒によって毒殺された」とはっきり書いている。
ウィキペディアには珍しく、「要出典」という注もない。
もっと詳しく調べようとググっても、ウィキペディア以上の説明はなかった。
喜前は玖島(くしま)城に住んでいる。
喜前は朝鮮出兵に参陣して日本軍の五大名は3倍以上の兵力を有する明・朝鮮軍を撃退しているつわ者である。
そう簡単に毒殺されるとは思われない。
城内に手引きする人間がいたのだろう。そうすると組織的犯行が考えられ、犯行には指導者がいた確率が高い。
これは想像だが、キリシタン組織が関与していたと思われる。
しかし話はここで終わらない。
息子大村純頼の暗殺
父の死の後、大村純頼(おおむら すみより)が家督を継いだ。彼もまたキリシタンを排除し続けている。
そして、28才の時、彼は急死した。原因は不明である。
その突然の死は、父と同じようにキリシタン弾圧を恨んだ宣教師によって毒殺されたともいわれる。ウィキペディア
スペインの宣教師ナバレテ
これもまた推理だが、関係者が一人浮かび上がった。
ナバレテというスペインの宣教師で、ドミニコ会司祭で日本管区長という立場である。
ドミニコ会は清貧を特に重んじ、真面目一筋の会派である。
そのナバレテは慶長16年(1611)に来日し、肥前大村藩(長崎県)領内に殉教覚悟ではいり布教している。
棄教していた藩主大村純頼(すみより)にも立ちかえりをすすめる。
結局アウグスチノ会のエルナンドとともに捕らえられ,元和3年4月28日首をきられた。
キリスト教を排除した大村藩だが、根絶やしには出来なかったのだろう。
地下組織のキリスト教徒らによって、宣教師たちのかたきを討ったのかもしれない。
ただし確証はない。
悲劇
キリスト教を持ち込んだ大村純忠。
その子は、棄教してキリシタン排除に尽力を尽くしがキリシタンに毒殺され、その子もまたキリシタン排除をして急死している。
悲劇である。
宗教が政治に絡むと、必ず悲劇が起きる。
それを、日本の為政者たちは強く知っていたと思う。更に、長い歴史を持つ絶対不可侵の天皇家の存在がある。
なので、日本でのキリスト教布教は無理筋だったと思う。
宗教が自由化された後の日本だが、世界の先進国の中では唯一と言っていいほど、キリスト教徒が少ない国になっている。そしてそれが、すべてを表している。
日本は悪者か?
西洋はキリスト教一色である。なのでキリスト教以外は悪魔の国なのだ。
なので、わざわざ西洋からやってきてキリスト教を広めようとしたのに、日本人は拒否し、宣教師たちやキリシタン教徒になった者たちを惨殺したという事になっている。
しかしこれは間違いである。
アジアに鉄砲を担いで土足で入ってきたほうが、悪いに決まっている。
大村の父純忠とその息子、更に孫は、父が広めたキリスト教徒の手によって殺されてしまった。
今更、日本にやって来たキリスト教の功罪を語っても仕方がないが、歴史の事実として知っておくべきだと思う。
ただイエス・キリストが、この事を知れば眉をひそめるだろうと思う。