金比羅山 謎の天孫降臨伝説を追え(2) 天孫降臨作戦
長崎に天孫降臨伝説があるなんていう話は、当の長崎人でもびっくりするのである。
天孫降臨なんていう古事記や日本書紀の時代の伝説があるというと、書いている私の良識を疑われてしまう。
天孫降臨(てんそんこうりん)とは、高天原のアマテラスの孫のニニギノミコトが、地上に降りてきて日本を治めるという話である。
これは古事記と日本書紀に書かれている話である。
ご存知の通り古事記は、712年に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上された。日本最古の歴史書である。
となれば、長崎にも古代の文化がなくてはいけない。
しかし、長崎の観光案内等には「1500年代以前の長崎は寒村であった」とかいてある。
確かに現在の長崎の発展の礎になった長崎港は、1500年代にキリシタンの船の港として埋め立てられたものである。
それ以降、長崎はキリシタンの街となり、日本史の中で目立つ存在となった。
しかし観光案内の文のように、1500年代以前の長崎にナニもなかったわけではない。
古代の文化は存在しているのである。
たとえば、野母崎の観音寺というお寺がある。
和銅2年(709年)、僧行基により開かれたという。和銅2年は平城京の時代である。
更に平安時代には、岩屋神社が和銅年間(708~715年)行基によって建立されている。
後年、弘法大師がここで護摩の法を修してより寺門大いに栄え、支院三十六。その盛名は崇嶽の神宮寺と並び称され、表裏をなして共に西国有数の巨刹(大きい寺)であったという。
まだある。
長崎市深堀の菩提寺の木造薬師如来坐像は平安時代の制作であり、 藤原様式の優れた作品である。県指定有形文化財
長崎県庁の前に有る絵。埋め立てが進んだ江戸時代初期の長崎港の姿である。
長崎に人がいなかったのは、県庁付近の長崎岬だけで、それ以外の場所は栄えていたというのが正解である。
ただ、長崎の町古いお寺が、キリシタンの焼き討ちにあい、ほとんどなくなっているので開港以前の古いお寺が存在しないだけである。
これは実に残念なことである。
今回の金比羅山は1705年、金比羅大権現を勧請してからは“金比羅山”と呼ばれたとある。
それまでは無凡山(むぼんざん)の名で呼ばれていた。
そして今回の天孫降臨の重要人物、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の名前にちなんでいる「にぎ山」とも呼ばれて いたのだ。
この「にぎ山」という山の名前が、天孫降臨伝説の手がかりになると思われる。
天孫降臨とは
古事記には高天原から、神様が地上に降りてくるという話だが、当然内容をそのまま受け取る訳にはいかない。
まず考えられるのは、大和系民族の移住という事だろう。
記紀の話から推理すれば、「高天原」という場所から「葦原の中つ国」という場所に、その国を治めるために、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)がやってきた、そう解釈出来る。
記紀に書かれている事を簡単に書けば
この「葦原の中つ国」を治めていたのは出雲の大国主(オオクニヌシ)の命だった。
アマテラスは「葦原の中つ国」を治めるのは、アマテラスの子孫であるとし、地上に神様を遣わして交渉する。
出雲の大国主(オオクニヌシ)は、出雲大社を建てることを条件に、アマテラスの子孫に国を渡すことを決めた、という話である。
一般には「国譲り」という話である。
その後、アマテラスの孫である瓊瓊杵尊が地上に降りてくる。
これが天孫降臨だ。
まあ、出雲の大国主(オオクニヌシ)から、「葦原の中つ国」を譲り受けたのだから、出雲の何処かに降臨すればいいと思うのだが、その降りた場所が日向国の高千穂峰という場所である。
となれば、長崎市の金比羅山に天孫降臨の伝説などある理由がないのだが・・。
いや、もしかして、日向国の高千穂峰に降りる間に、長崎に立ち寄ったということも考えられる。
もう少し、記紀の話を調べることにする。
まず、天孫降臨は瓊瓊杵尊一人ではなかった。5人のお供をつけている。
更にアマテラスは瓊瓊杵尊に三種の神器を渡し、3人の神様も一緒に降りることになる。
そして瓊瓊杵尊は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。
到着すると「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。
古事記の話なのだが、寄り道はしていない。
これは困った。話が先に進まない。
それでは違う方向性で調べてみたい。
日本の中で天孫降臨伝説がある他の場所を調べてみるとあった。
岐阜県高山市の位山、三重県鈴鹿市 入道ヶ岳、岡山県の蒜山(ひるぜん)がそうである。
そして長崎県島原市の雲仙にもあったのだ。
長崎の金比羅山と島原市の雲仙は連動しているかも知れない。
これだけ古事記にハッキリ地名が書かれているのに、他の地域にも天孫降臨伝説があるという事は、もっと他の意味かもしれないと思う。
例えば古事記では、瓊瓊杵尊たちが降臨しているのだが、いろんな地域に他の神様が降りたのかも知れないという事だ。
天孫族が高天原から「葦原の中つ国」を平定にやってきたのである。
これは戦国武将に例えると、大将は全軍を指揮するために、一番見晴らしのいい場所に陣取る。
そして、他の武将は違う山に陣取る、そんな事ではなかったのではないだろうか。
現在、天孫降臨の地は、ともに、高千穂という名前が残っている宮崎と霧島が有名である。
どちらが正しいかという論争なのだが、どちらとも正しかったのではないだろうか。
つまり、天孫降臨多重説である。
仮説
それまでの九州は乱れていた。 小さな国々がお互い戦争をしあっていたのだ。
そこで天孫降臨族(大和)は九州を一気に掌握する作戦を立てた。
天孫降臨作戦は九州の三箇所で行なわれたのである。
その理由は、熊襲の存在である。
熊襲は大和に敵対する大きな勢力であった。その勢力を一気に殲滅する作戦を立てた。
宮崎と霧島の高千穂は、対熊襲作戦。長崎の金比羅山は土蜘蛛と呼ばれる一族に対して、攻撃の狼煙を上げたとも取れる。
それが天孫降臨伝説である。
天孫降臨族を大和族と考えると、いろんな事でつじつまが合う。
トンデモ説だと言われそうだが、どうだろうか。
何はともあれ、金比羅山の天孫降臨伝説に少し近づいた様な気がする。