邪馬台国は島原半島北部に在り

これは、私の説ではなく宮崎康平氏の「まぼろしの邪馬台国」の結論である。

そして私も同感である。

長崎で古代史に興味を持ったのが、今から30余年ほど昔である。

その間、いろいろ調べまわったが、やはり「邪馬台国は島原半島北部に在り」という宮崎康平氏の説に戻ったとも言える。


邪馬台国までの道のり

倭人伝の邪馬台国までの行程はこうである。


「末盧国(まつろこく、もしくは まつらこく)
佐賀県北部の松浦半島の周辺

「伊都国(いとこく)」
現在の福岡県糸島市周辺

「奴国(なこく)」
現在の福岡県北部地方

「不弥国」
筑前の国、糟屋郡の宇瀰、いまの宇美町付近

邪馬台国最初の行程


ここまでは、いろんな説の皆さんの推理は大体同じである。

しかし、次の「投馬国(とうまこく)」で様々な憶測が展開していくのだ。


ここまでは奴国不弥国が博多付近だろうと、皆さん考えている。

ところがその次、

南(行)して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日

この一文で、皆さんの思考回路は、様々に展開していくのだ。

なぜなら博多は九州の真北である。そしてその南には海が無い。

この事で、邪馬台国探しは迷走していく。


博多湾と有明海をつなぐ水路

宮崎康平氏はこの難問を、原文どおりに解釈し解決している。

宮崎氏は博多湾と有明海をつなぐ水路があったはずだと確信し、

そしてその水路(運河)の可能性を綿密に調べ、可能性と証拠を発表している。

詳細は「まぼろしの邪馬台国」の本に書いているので掲載を省く。


運河の施設

福岡県に水城遺跡というのがある。

水城遺跡

唐と新羅の攻撃に備えて全長1.2kmに渡り築かれた防衛施設跡のことを言う。

水城を築いた理由
大宰府のある北部九州は日本中で一番中国や朝鮮に近く、原始時代から盛んな交流があり、進んだ文化はまずこの地方にはいってきた。こういう大切なところなので、大和朝廷は早くからこの地方を治め、外国との交際をした。

しかし、いくら大切な大宰府があるといっても、こんな陸の中に、全長1.2kmの土塁を作るのは、きわめて不自然である。


さらに、近くの前畑遺跡にも同じような土塁が確認された。

前畑遺跡

前畑遺跡
謎だらけの土塁 類例ない丘陵尾根上、想定外の人工建築 大宰府防衛線か議論百出 福岡・筑紫野

土塁は丘陵尾根に、土を突き固める古代の土木技法「版築(はんちく)」を用いたり、尾根を切り出したりして造られていた。残存する高さは1・5メートル。大宰府の防衛施設として知られ、丘陵と丘陵の間の平地をふさぐ土塁の水城(みずき)(福岡県)と同じ二段構造となっていた。

毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20161211/ddp/014/040/005000c

防衛のために築いたといわれる土塁だが、古代は違う用途があったという説がある。


・かつて古代において、有明海と博多湾は海峡で結ばれていたこと。
・ふたつの海の潮汐の差を調節するために初期の水城が築かれたこと。その他。

かつて、博多湾と有明海がそれぞれ深く湾入して、互いに繋がっていたころ、その川を「ありなれ川」と呼ぶ人たちがいました。
「ありなれ川」とは「広い川」という意味でもあり、天にあっては「天の川」を指していました。南北の海がが繋がっていた場所は「針摺」(はりずり)ですが、現在はもちろん埋まっています。
http://lunabura.exblog.jp/16018354
ひもろぎ逍遥

大宰府の時代と邪馬台国の時代では、時代が違う。

なので、過去、有明海と博多湾は古代人が運河のシステムを作り、運用していたのである。

しかし、地殻変動や地震、災害でその運河は消滅してしまったと考えられる。

水城遺跡や前畑遺跡の不思議な土塁の跡は、古代の運河工事の跡を利用した防衛線だったのだ。

更に、地名にも運河の痕跡があることを指摘しているページが有った。

福岡県筑紫野市にも過去に「針磨」があったらしい。現在は筑紫野市針摺(はりすり)となっている。地形を見ると、東西から山が迫り狭くなっている。古代には海峡または川だったようだ。

古代史探訪 http://enkieden.exblog.jp/d2016-02-01/


水城という地名といい、「針摺」(はりずり)という地名といい、ここに博多湾と有明海をつなぐ運河施設があったのは間違いない。

これで、南という方角の謎は解消された。

投馬国

宮崎康平氏は投馬国を熊本県の天草本渡市付近としている。

そして、邪馬台国を北部島原に比定している。

ここで、宮崎康平氏は

南至投馬國、水行二十曰。

南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。

の解釈を「不弥国」から「投馬国」の距離と、「邪馬台国」への距離を併記して書いていると主張している。

その理由は、投馬国(天草)の成り立ちと、有明海の潮の満ち干きが影響している航路による。

さらに「南至投馬國、水行二十曰。」という文章の中で、邪馬台国への道には陸路が書いているのに、「投馬国」への道は水路しか書いてないということで、「島」であると判断したとある。

確かに、「不弥国」からは南としか書いていないので、有明海の中では天草しか島はない。

さらに距離的にも、有明海の沿岸沿いの航行は、潮の満ち引きが大きい為、引き潮の際難儀をするのは現代も同じである。

思った以上に時間がかかることも理解できる内容である。

方角は倭人伝通りで、これに関してはどこにも文句が付けようのない説だ。

私の説

実は投馬国の部分だけ、私は宮崎氏とは違う考えを持っている。

「不弥国」から水路をとおり有明海まで出たところに、佐賀平野がある。

このあたりを私は「投馬国」と思っている。

なぜかというと、倭人伝の記述の道筋通りに考えたからである。

南(行)して投馬国にいたる。水行二十日である。

という文章どおりに進むと、投馬国は筑後川の周辺にある事になる。

このあたりには大きな洲がある。

筑後川の氾濫により、川と洲の場所は大きく変わったと思われるが、古代も多きな洲があったのではないか。

水行二十日という文章に、なぜ陸行という記述が無いのかというと、川の終点に「投馬国」があれば(大きな洲が投馬国の中心)、陸のルートは必要ないからだ。

さらに、水行二十日という長い日にちは、最初福岡側から川を上り、運河を経て川を下る水行である。

運河は博多湾と有明海の潮の満ち引きの差を調節して、運河を作っている。

そのため水城遺跡、前畑遺跡など複数の運河に調節用の堰を作っていた可能性がある。

これにより、思った以上に日にちがかかったのではないかと推理できるのだ。

(そこから)南(行)して、邪馬壹国にいたる。女王の都とするところである。水行十日、陸行一月である。

筑後川の河口から、真南が島原半島北部、つまり邪馬台国である。

水路でも10日と書いてあるが、有明海の潮の速さと満ち引きの差が大きい干潟の事を考えればこれくらいかかるだろう。

陸路は多良岳の麓を海岸伝いに行く道がある。


もう一つ、邪馬台国の戸数の多さを考えれば、中心は島原の北部とおもわれるが、その領地は島原全体と上天草も入っていたのではないだろうか。

そうすれば敵対する狗奴国は熊本県と想定されているので、方角もあってくる。


魏志倭人伝のすべての位置情報が当てはまる場所

宮崎氏の島原邪馬台国説は、方角が倭人伝の書いている通りである事が魅力である。

距離は地形の変化で、大きく変わる場合がある。

特に九州は、複数の火山があり、その噴火に伴う地震もある。

その為、現在と1~2世紀の九州では、地形が大きく変わったのかもしれない。

当然距離が書かれていない、旅の行程は現在の推測とは違うものになる。

しかし、どんなに昔であろうと、方角は変わらない。

太陽が昇るほうが東で、沈むのが西である。

これは間違えようのない事なのだ。

原文を抜粋してみる。

又渡一海 千餘里 至末盧國

東南陸行 五百里 到伊都國

東南至奴国 百里

東行至不彌國 百里

南至投馬國 水行二十日

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

たったこれだけの文章である。

邪馬台国はこの中になければいけないのである。

もう一つ方角情報がある。

女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至


女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種

女王国の東、海を渡って千余里行くと、また国が有り、皆、倭種である。

又有裸國黒齒國 復在其東南

裸国と黒歯国があり、また、その(女王国の)東南にある。


魏志倭人伝のすべての位置情報が当てはまる場所は、理論的に考えれば、島原北部しかない。

これまで発表された邪馬台国の位置に、この条件を当てはめて合格するところは僅かである。

邪馬台国


地名や言葉のこじつけは要注意

古代史が好きな人ならわかると思うが、現代の地名や伝説と、古代史の出来事を、短絡的に当てはめてしまう事が多い。


よく知られているのが日本人がユダヤ人だったという説である。

古代イスラエルの十支族の一つ「ガド族」が日本にやってきて「ミカド(天皇)」になったとか、祇園祭とは、「ギオン」はエルサレムの別名である「シオン」とよく似ているなどである。

邪馬台国でも、ヤマトと読むかヤマタイと読むかで今でも論争がある。しかし古代、呉音ではヤマダイ又はヤメダイ、漢音ではヤバタイとなるので、魏志倭人伝」の書かれた当時の中国における音が「やまたい」であったとは考えにくいという説もある。


又、地形や海岸線は、災害などで大きく変わっている。

現代の海岸線は、埋め立てなどで大きく変わっている事はもとより、古代の距離や移動にかかった時間は、そのあたりを十分考えなくてはならないのだ。


古代の発掘された遺跡を根拠に、説を展開するのも危険が多い。新しい古代遺跡が発掘されれば、その説は真逆だったりもする。


宮崎氏が繰り返し本に書いているのが、方位の重要さである。

道順や文化は、時代を経て変わってしまうが、方位は古代から変わっていない。

深く適用その多い情報から、その答えを出そうとすれば、変わらない情報が一番大切なのは当たり前である。

邪馬台国畿内説は、その一番重要な方位を無視している。

それ故、畿内にいろいろ遺跡が多いのはわかるが、魏志倭人伝の邪馬台国は、畿内ではありえないのが常識である。


島原では役不足か?

倭人伝の記述に正確に従いながら、たどり着いた場所が島原北部である。

たまたま、宮崎氏の故郷が長崎の島原だったので、我田引水の非難は多く、それを理由に邪馬台国島原説は、トンデモ説として隅に追いやられている感がある。

しかし、最初に宮崎氏の「まぼろしの邪馬台国」の本を読んで30年以上たつ。

現在62歳たった今、再度読み直しても、この本の骨子である方角の正確さは素晴らしいと思う。

長崎県人も、考古学学会も宮崎氏の説の重要さを知るべきである。


島原に何もないというのは大きな間違いである。

古代の遺跡も多く、言い伝えや地名も符合する箇所が多い。

私はいくらでも、古代島原と有明海の重要さを語ることが出来る。

しかし、これは言い合いになるだけなので、この文では差し控える。

宮崎氏も「いつか、決定的遺跡が必ず出土する」という願望を強く書いている。

どんなに、理論的に正しく究明していても、古代の話なので決定ではない。

だから、待つしかない事はわかっている。

私のブログにこれを書いても、影響力などない事はよくわかっているが書かずにおれなかった。


山や森に入る時、磁石は必ず持っていく。

季節や雰囲気は、そのつど変わっていく。

だから、見通しの悪い場所では、磁石を見る。

古代でも、今でも東は東、周りがどんなに変わっても

方角だけは変わらない。

当たり前である。


「まぼろしの邪馬台国」と共に歩む

「まぼろしの邪馬台国」と共に歩む (1)

考古学界に反旗。稲作は縄文時代から(2)

一をなぜ”ひ”と言うのか

邪馬台国は島原半島北部に在り