「日本」の国名の謎、卑弥呼の本当の姿

国旗

昔から日本の国名について、単純な疑問があった。

疑問があったけど、色んな説明を読んで納得していたのだが、やはり心の何処かに、くすぶっていた。

今回は、ネットサーフィンで色んな角度から調べてみようと、パソコンをつけた。

ネットで調べるときは、やはりウィキペディアが便利だし、検索の最初の方に出てくるので、このウィキペディア中心で調べはじめた。  

「日本」と検索ワードを入れるとすぐ出てくる。

日本とは、日の元という意味で日が最初に登る国という事と書いてあった。

どのネットの辞書にもこう書いてある。

しかし僕の疑問は日本の「本」という文字だった。

日の元という意味なら、何故「日元」としなかったのだろう。

 

「本」の字は、木の根の太い部分に印を付け、その部分を示した漢字で、漢語では「太い木の根」や「草木の根」さす。語源由来事典より

「元」の字は、はじめ、もと、基本、大きい、正しい、頭領、頭部、長男、天、という意味がある。

 

意味からすると、「元」という文字の方が豊富だ。

「本」という字も、意味合いはあるのだが、限定されてくる。  

僕の疑問があまりにも単純すぎて、ネットで探してもなかなかこの疑問に答えてくれる内容の物を探せなかった。

それならまず事実を並べてみる事にした。

ウィキペディアは手っ取り早く、その概要を知る事が出来る。

「日本」という漢字による国号の表記は、太陽崇拝と相俟った中央集権的発想に基づくもの(ウィキペディア)

 

ここには疑問はない。

また日本列島が中国大陸から見て東の果て、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来しているのではないかとされる。

この文章にも「日の本(ひのもと)」と書かれている。

(ひのもと)なら、この文章の通り「日元」となってもいいんじゃないだろうか。  

ウィキペディアから由来を抜粋してみる。

「日本」の表記が定着する以前、日本列島には、中国の王朝から「倭国・倭」と称される国家があった。『新羅本紀』では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とされている。

「倭」と「日本」の関係について、『日本書紀』によれば、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、当初はこれを「ヤマト」と読んだとする[2]。

『旧唐書』は、「倭国」と「日本国」を併記した上で、日本国は倭国の別種とし、倭国が日本国に改名した可能性と元小国の日本が倭国を併合した可能性について記している。

すこしめんどくさそうな内容が並んでいる。

つまり、670年に誰かが「日本」と名前を付けたとある。

それまでは、倭国から、大倭、大和、ヤマトと呼んでいた。

(たぶん)九州は倭人達の国「倭国」があった。

その中の「日本」族が「倭国」を飲み込み「日本」にした、という事だ。

「日本」という国名を直接考えた人の名前は特定できないが、国名が成立した背景は推測できる。

(日本 – Wikipedia)

(1) 第一説は、天武天皇の治世(672年 – 686年)に成立したとする説である[3]。 例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」表記と「日本」表記と両方が定められたと推測する[4][5]。

(2) もう一説は、701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」表記が成立したとする説である[6]。 (678年には「日本」と記された物があるという説もある)

8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている[9]。

という事は、上の二つの説は間違いなさそうだ。

遣唐使によって「日の出の地に近いことが国号の由来である」と説明されたと唐の本に載っているという。(日本 – Wikipedia)

国号の変更理由については「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」という日本国側からの説明が書いてある。(日本 – Wikipedia)

という事は、それまでは倭国と呼んでいたのである。

『新唐書』は、日本の使者は「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪った」と言っているが疑わしいとしており・・(日本 – Wikipedia)

ここは意味がわからない所である。  

最初の方は「倭国」という国名が、いやだったので「日本」に変更したといっている。

この会話から色んな事が推測できそうだ。  

例えば「日本」が「倭国」を征服したのだけど、その名前を使いたくない。

そんな意味に聞こえる。

征服したのだったら、有無を言わさず「日本」にするはずだ。

しかし、そうではないらしい。

もっと不思議なのは 「倭が日本を併合し国号を奪った」という言葉だ。

この言葉は唐の人も変だと思ったのだろう。 意味がわからないからだ。

「倭」のほうが「日本」よりも、力が上だったのだろうか。

しかし、ここまでで、「倭国」と「日本」という勢力が、同時に存在していた事だ。

僕の学校で習った事と、少しニュアンスが違う。

「倭国」と書いてヤマトと呼んでいたともある。

『日本書紀』より 「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだ・・。(日本 – Wikipedia)

とあるが、、『旧唐書』など、これを疑う立場もある。

と書いてある。

これは、きっと嘘なのだろう。

「倭国(ヤマト)」と「日本」は、やはり違う勢力なのだ。

この事は、色んな意味を含んでいる。  

「日本」という国名の最初の疑問に戻ろう。

日本は、隋の開皇末(600年頃)に初めて中国と通じた国であり、古くから交流のあった倭国とは別と捉えられている。(日本 – Wikipedia)

「日本」国号は、日本列島を東方に見る国、つまり中国大陸からの視点に立った呼称である。(日本 – Wikipedia)

という事は、大陸出身の人が考えた国名という事になる。

これは重要な事だと思う。

これまでの流れなら 「日本」国号は、倭(ヤマト)の人がつけた・・

その理由は、倭(ヤマト)の名前が嫌いだから・・  

少し複雑な関係のようだ。  

整理をしたい。

過去の日本は、倭国と呼ばれていた。

その理由は、倭人達が住んでいたからだ。

これは当たり前だ。

倭人達とひとくくりに出来るのは、同じ文化を持っていたからである。

例えば言葉が倭人語を使っていた、という事だ。

日本人は日本語を話す。

同じ顔をしていても、韓国語を話す人たちは韓国人である。  

倭国は乱れていた。

倭国大乱という文献が残っているからだ。

なぜ大乱だったかというと、NHKの卑弥呼特集にもあったが、気候が不順な時期で、干ばつと大雨が続いていて、皆が困窮していたからだという。

その時期に、色んな国を制して連合国を作った。  

それが「邪馬台国」であり、女王は「卑弥呼」である。

これは皆が知っている事。

その後、外国には日本の事が載っていない。

中国の歴史文献において266年から413年にかけての倭国に関する記述がなく、ヤマト王権の成立過程などが把握できないため、日本において「空白の4世紀」とも呼ばれている。

4世紀は日本では古墳時代にあたる。(4世紀 – Wikipedia)

それまでは、倭国(ヤマト)と呼ばれていた。

そして670年に「日本」という国名が登場する。

結構時間がかかっている。

「大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の『古事記』や『日本書紀』では「大和」の漢字表記はなされておらず・・(ヤマト王権 – Wikipedia)

ということは、ヤマトという読みはあったのだ。

漢字では表記していなかったとある。

ところが魏志倭人伝では、ヤマトの名を「倭国」や「邪馬台国」など、漢字表記してきたのだ。

この漢字表記が気にくわなかったのだと推測できる。

ヤマト人は無知ではない。

漢文だって書ける。

しかし、中国大陸とは違う文化をしっかり持っていた。

言葉に敏感なのだ。

ここで、「言霊」という言葉をおもいだした。

色んな方が文献を出しているので、興味があったらお読みください。

言霊信仰においては、声に出した言葉は現実の事象に影響を与えると信じられ、発した言葉の良し悪しによって吉事や凶事が起こるとされた。

そのため、神道での祝詞の奏上では絶対に誤読がないように注意された。

結婚式などでの忌み言葉も言霊信仰に基づく。

日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国(言霊の幸はふ国)とされた。(言霊 – Wikipedia)

ここが、大陸と大きく違う点である。

中国の漢字文化に大きく影響され、ヤマト語が改良されてきた。

日本語に「音読み」「訓読み」が存在するのがその証である。

影響は大きく受けたのだが、ヤマト流に取り込んでしまった。

<html抜粋 teabreakt.studio-web.net/romantickanji.pdf>

「最高に!ロマンチックな吉野ヶ里で見つかった日本最古の漢字」

という文の中に 「中国と交流し巨大古墳を造営したヤマト人が漢字文化を吸収しなかった不思議」と言うのがあった。

不思議なことに、三世紀半ばから本格的に造営が始まった世界的に みても巨大な前方後円墳などの古墳では、墓の中からは被葬者の墓誌は一切みつかっていません

中国でも古代エジプトでも、墓誌や墓碑銘は必ず書き記されていました。

中略 古代人がなぜ、漢字文化を吸収しようとしなかったのか、という点は、 考えてみれば疑問ではあります。 中略 (漢文の歴史に詳しい加藤徹氏より)

古代ヤマト民族の「言霊思想」が、文字文化の輸入を阻んだのではないか。

ヤマト人が勝手につけられた、「倭国」にいらいらしていたに違いない。  

有名な聖徳太子の文章

「日いづる国の天子、隋の王にご挨拶申し上げる。つつがなきや」がすべてを語っている。  

そこで、安定した政権を目指すヤマトは、長年親しんできた国名を変更する事にしたのだ。

ヤマト人の中で「中国の文化に精通した人」が考えたのだ。

中国に勝手に悪い字を当てられないようにするにはどうしたらいいのか。

その方法は、新ヤマト名は中国の文献から持ってくればいいのだ。

まさに、逆転の発想だったのだ。  

ここからは、僕の推理だ。

まず「日本」の「日」だが、太陽信仰のヤマトには、倭国より屈辱的な漢字を当てられた人がいた。

「邪馬台国」の「卑弥呼」だ。

「卑弥呼」は「日巫女」である。

「日」の巫女は、単に太陽信仰の宗教的な巫女ではない。

大乱を起こしていたヤマトをまとめることが出来た大きな理由に、「日巫女」の家柄があったのだ。

東南海の外の羲和が十日を生んだことに因んで炎帝の時より暦法官を日官と称し、その十日族の子孫を日と称す。(日 – Wikipedia)

とある。

羲和を調べると

中国神話の義和(義和 – Wikipedia) 羲和(ぎわ)は、江戸時代まで日本でも流通していた中国古代の地理書「山海経(せんがいきょう)最古の地理書 (奇書)扱いされている」に記載のある太陽の母神であり、炎帝に属し東夷人の先祖にあたる帝俊の妻。

東夷とは(東夷 – Wikipedia) 本来は古代中国が東に位置する山東省あたりの人々に対する呼び名であったが、秦以降は朝鮮半島、日本列島などに住む異民族を指すようになった。

東海の海の外、甘水のほとりに義和の国があり、そこに生える世界樹・扶桑の下に住む女神である義和は、子である「十の太陽たち」を世話している。

天を巡ってきてくたびれた太陽を湯谷で洗っては扶桑の枝にかけて干し、輝きを蘇らせるという。

扶桑(ふそう) 扶桑 – Wikipedia

扶桑・扶桑国は、日本の異称ともなった。

扶桑樹信仰

扶桑樹信仰

  山海経

『山海経図絵全像』の女媧  

ここまで来ると、やっと疑問が解けた。

「その十日族の子孫を日と称す」と山海経は書いている。

東海の海の外のヤマト人は「日」一族の子孫なのだ。

「日巫女」は、太陽の女神の直系の子孫だったのだ。

(もちろん、現実では血のつながりはなかったかも知れないが、天皇家と同じ意味合いを持つ)  

「日巫女」の登場は、疲弊していたヤマトに再編成を起こさせるきっかけとなった。

幕末の日本と同じ、「日巫女」に味方する国は「錦の御旗」をたてた官軍と同じ力を持った。

この事は、これまでの日本の歴史に照らしても、十分納得できる。  

その後、ヤマト国は統一に向けて進んでいく。

そして、本格的に国の形が出来上がった頃、この倭国という屈辱的な呼び名を何とかしようと考えたのだ。

言霊の国ならではではないだろうか。  

「ヤマト」から「日本」に変えたのは、この「日巫女」の事を知っている人だった。

ヤマト国の正当な「日」族。

さらに扶桑(ふそう)の国の「日巫女」が、ヤマトを復活させ始祖となっている。

扶桑は東海上に立つ巨木である。

最初に戻るが 「本」の字は、木の根の太い部分に印を付け、その部分を示した漢字で、漢語では「太い木の根」や「草木の根」さす。語源由来事典より

とある。  

ここに、「日本」という言葉が完結した。

日の元では、意味が違うのだ。

「ヤマト」は伝説の木、扶桑のもとにある「日」達が住む国だったのだ。

だから「日本」にしたのだ。  

これだったら、中国人も勝手に、悪字をつけられない。

なにせ、中国の歴史書に載っているからだ。

桑の木

桑の木

スポンサーリンク