杵と臼 長崎のヤマトタケル伝説 八剱神社より

長崎は平地が少なく、現在はほとんど埋め立て地で構成されている。

なので、古い神社やお寺がある場所は昔の海岸線の近くだったと思ったほうがいい。

川も暗渠となり、現在では昔の地形の面影は何一つない場合が多い。有名な思案橋もその一つで、今は観光用欄干しか残っていない。

その思案橋を山の手の方向に進むと、茂木街道と呼ばれる旧街道の坂道があり、その出発地点の正覚寺の上に八剱神社(やつるぎじんじゃ)という神社がある。

八剱神社

八剱神社

創建が1568年と記録には有り、日本は戦国時代だ。

長崎の神社仏閣は、キリシタンによって打ち壊されたり破壊されたりしているので、1500年以前の古い神社や仏寺は稀である。

1549年に日本にやってきたフランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝え、1637年に起きた島原の乱まで、長崎はキリスト教の町だった。

なぜキリシタンが日本の宗教を憎んだかというと、それは伝道師の教えにある。

民衆は、神も仏も、お寺も神社も自分たちにご利益がない事を知ったからです。

彼らはキリシタンになって、キリスト教の神からご加護を受けれると考えました。だから神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立ないので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅したのです」(『フロイス日本史』 イエズス会 ルイス・フロイス)

ルイス・フロイス

現在のキリスト教は博愛主義だが、当時はそうでなかったらしい。

まあ、日本にも、過激派日蓮宗があり、浄土真宗本願寺教団の伽藍を焼き討ちし、一向宗徒を京都から駆逐した「法華一揆」という紛争もある。

いずれにしても、宗教の破壊的思想の怖さがここにある。

そんな長崎に八剱(やつるぎ)神社という小さな神社が出来た。

1661年に現在地に社殿を再興、八劔神社と改称し小島郷の鎮守社となったとある。

今回、この神社を取り上げたのは、神社の解説を読んだからである。

長崎辞典の解説

八劔神社(やつるぎじんじゃ)単立。

永禄十一年(1568)、肥後・阿蘇宮の東源左衛門が現在地より少し上方の神南(かむなみ)に、日本武尊 (やまとたけるのみこと)を勧請して祀ったのが始まりで、

それから約100年後の寛文 元年(1661)に子孫の東新三郎が奉行の許可をえて、 神南から現在地に社殿を再興、八劔神社と改称、小島郷の鎮守社となった。

よく読むと、かなり引っかかるものがある。

肥後・阿蘇宮の東源左衛門の子孫が神南(かむなみ)という場所から社殿を現在の場所に移した、とある。

まず、阿蘇宮が気になった。

阿蘇神社

阿蘇神社 2006年アートワークス撮

阿蘇宮とは阿蘇(あそ)神社である。

立派な神社なのだが2016年の熊本地震により、楼門と拝殿が全壊、境内の3箇所の神殿も損壊し、現在再建中である。

ここは全国に約450社ある「阿蘇神社」の総本社だ。

阿蘇山の北麓に鎮座する。全国的にも珍しい横参道で、参道の南には阿蘇火口、北には国造神社が位置していると言われている。

中世の戦国期に肥後中部で勢力を誇示していた阿蘇氏と縁の深い神社である。神社では珍しい仏閣の様式で建てられた二層桜山門式だという点である。

もう少し詳しく調べる。

阿蘇神社

この阿蘇神社は、健磐龍命(たけいわたつ の みこと)の子で、のちに初代阿蘇国造となる速瓶玉命が、両親を祀ったのに始まると伝える。

健磐龍命は神武天皇の時代の人とされ、建五百建命(たけいおたけ の みこと)、阿蘇都彦命(あそつひこ の みこと)の名でも知られる。

健磐龍命は神武天皇の子、神八井耳命が親になるが、何番目の子なのかはいろんな説がある。

綏靖天皇

神八井耳命(かんやいみみのみこと)は第2代目の綏靖天皇である。この天皇の実在は不明なのだが、曰くつきの天皇でもある。

神武天皇は日向から出発して大和に旅立つ。その時に日向で吾平津媛(あひらつひめ・隼人族の姫)とすでに結婚していた。

その子供も東征に参加している。それが手研耳命(たぎしみみのみこと)である。

神武天皇(彦火火出見、ひこほほでみ)の正当な第一子であり、2代目の天皇になるのは当然だったのだが、大和で結婚して生まれた二人の子供から反逆の罪を着せられて殺されてしまった。

これをタギシミミの反逆と日本書紀では書いている。

大和の神武天皇と隼人の関係は不明な部分が多い。

この「タギシミミの反逆」は、その後の萬世一系の天皇家の方向性を決めてしまった事件である。

そんな神八井耳命の子孫を祀っているのが阿蘇神社である。

ざっくり書けば、隼人を天皇家から排除した大和の王を祀っているのである。

もちろん、この話が事実かどうかは不明だが、そう語り継がれている。

そして、その阿蘇宮の東源左衛門の子孫が八剱神社が現在の地に持ってきたということだが、この東さんの素性がわからない。

名前からして武士だと思われるが、記録がない。

そこで東という苗字を調べてみた。

ウィキペディアには東氏(とうし)の事が載っている。

日本の氏族で、千葉氏の庶族。桓武平氏。古今伝授の家として有名とある。

古今伝授(こきんでんじゅ)とは、勅撰和歌集である古今和歌集の解釈を、秘伝として師から弟子に伝えたもの。狭義では東常縁から宗祇に伝えられ、以降相伝されたものを指す。

この東氏(とうし)が長崎に関係しているかどうかは不明だが、古代から続いている氏族の様である。

そんな東という文字を姓に持つ東源左衛門さんは、阿蘇神社に関係があるという。

これまた、あてずっぽうの推理だが、東源左衛門が古書の歌に詳しくて、長崎の日本武尊の事を知ったという事かもしれない。

そして、長崎に来て、日本武尊 (やまとたけるのみこと)を勧請したという事かもしれない。

つまり、東源左衛門が、誰も知らなかった長崎のヤマトタケルの事を発見して、長崎にやってきたという事と想像できる。

日本武尊

日本武尊は第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。

日本武尊

この熊襲征伐の話は古事記と日本書紀では印象が大きく違う。

古事記の熊襲征伐の話
小碓命が九州に入ると、熊襲建の家は三重の軍勢に囲まれて新築祝いの準備が行われていた。小碓命は髪を結い衣装を着て、少女の姿で宴に忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。

誅伐された弟建は死に臨み、「西の国に我ら二人より強い者はおりません。しかし大倭国には我ら二人より強い男がいました」と武勇を嘆賞し、自らを倭男具那(ヤマトヲグナ)と名乗る小碓命に名を譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。

ここで、不思議なことに熊襲建は日本武尊を褒めたたえ、名前を譲っている。

わかるような気もするが、女装して奇襲してきた日本武尊である。とても勇者とは思えない。

やはり、この話には裏がある。

そして日本武尊には、伊勢神宮にあった神剣、草那藝剣(くさなぎのつるぎ)の話がある。

相模の国で、国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭う。

そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草那藝剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて炎を退ける。

生還した倭建命は国造らを全て斬り殺して死体に火をつけ焼いた。古事記

八剱神社の八剱とは、この伝説に引っかかるものだろう。

いろいろあったヤマトタケルだが、能褒野(のぼの)陵に葬り白鳥となって、大和を指して飛んだ。日本書紀

となっている。

このヤマトタケルの墓は白鳥陵と呼ばれ、日本に残っている。

白鳥陵

白鳥陵(しらとりのみささぎ)は、ヤマトタケルの陵。奈良県御所市富田と大阪府羽曳野市軽里(軽里大塚古墳)の2ヶ所に治定されている。

白鳥陵古墳(羽曳野市軽里) ahisats3のブログより

本来、皇子の墓を「陵」というのは、例外だという。

まあ、ヤマトタケルの話も伝説なのでしょうがないが、天皇の命を受けて日本各地で活躍した人たちの総称だとする説も多い。

つまり、かなりの数のヤマトタケルがいたということで、墓が二つあるのは納得できる。

となれば、日本各地に隠れ白鳥陵が存在していても不思議ではない。

さて、ここまでが基本的な知識である。

ここから八剱神社の推理に入る。

神奈備

長崎市小島にある八剱神社だが、昔は遺跡だったという話がある。

それは、神社が神南(かむなみ)という場所にあったという事からきている。

神南(かむなみ)とは神奈備(かんなび)からの変化である。

神奈備(かんなび)とは、神が「鎮座する」または「隠れ住まう」山や森の神域や、神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)となる森林や神木(しんぼく)や鎮守の森や神体山を、また特徴的な岩(夫婦岩)や滝(那智滝)がある神域などをさす。

更に長崎市東小島町の八剱神社の傍に「雷公岡(かみなりおか)」という地があったと言われている。

これもまた雷公(かみなり)は、神南(かむなみ)からきていると推測できる。

なので、この八剱神社の場所は、日本武尊の墓か、それにまつわる話のある白鳥陵だったのかもしれない。

肥後・阿蘇宮の東源左衛門はなんとなく学者のようでもある。

阿蘇神社に伝わる和歌か短句、もしくは伝承で長崎の地に、白鳥陵があることを知ったのではないだろうか。

白鳥王子ヤマトタケル伝説

しかし、なぜ長崎に白鳥陵があったのだろうか。

ここまでくると、私が30代(30年ほど前)に書いた説とダブってくる。

新発見 白鳥王子ヤマトタケル伝説
https://artworks-inter.net/pc/2016/01/17/post-37/

この説の要略

長崎の田手原町の山の上に甑岩(こしきいわ)神社があり、そこには日本武尊が祀られている。

長崎にこのヤマトタケルの神社がなぜあるのかというなぞ解きをした説である。

ヤマトタケル伝説

1.日本武尊は、二度目の東方遠征の時、走水の海で大嵐にあう。その時妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、海に身を投げて嵐をなだめ、日本武尊を助ける。

甑岩(こしきいわ)神社の前に見える海が橘湾。

2.茂木の名前は熊襲建を討つ時に日本武尊は女装をしたという事から付けられた。古事記にも、タケルが「御衣御裳(みもみそ)を着る」との記述がある。

茂木の古名は「裳着」と書く。熊襲征伐の話とぴったりと符合する。

3.日本武尊はこの後、二度目の妃をもらう。この姫の名前が宮簀(みやす)姫である。これは宮摺(みやずり)の事だ。宮摺と書いて(みやす)とも読む。

4.山々はどうだろう。宮摺町に熊が峰がある。それは、クマソの象徴でもあり、熊野の変形でもある。

5.熊が峰の続きに悪所岳という山がある。

タケルは山の神の怒りに触れて満身創痍になる。まさに悪所の山を日本武尊は進んだのだ。

6.また近くに烏帽子岳があった。これは、日本武尊に命令をした父親の景行天皇の事だ。

7.最後に野褒野(のぼの)で命を果てる。これは野母(のも)の事である。

8.死んだ後タケルは白鳥になる。長崎半島は鶴(しらとり)の形をしている。

ヤマトタケル伝説

文・イラスト 竹村倉二
■新長崎伝説 長崎のミニコミ月刊誌「ながさきプレス」連載の短編。

こんな話である。

ただの偶然かもしれないが、奇妙に符合する地名や町の名前が、いまでも頭に残っている。

そして、この長崎には、ヤマトタケルの子孫である神功皇后伝説がちりばめられていた。

ここも繋がってくる。

ヤマトタケルの次男が14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)であり、その奥さんが神功皇后である。

つまり、神功皇后は義理の娘である。

この神功皇后は三韓征伐をおこなった女傑で、九州や瀬戸内海に様々な伝説が残されている。

しかし、ヤマトタケルのほうの伝説は長崎にはない。だが、長崎でヤマトタケルを祀っている神社はある。

白鳥神社 五島市玉之浦町、志々岐神社 壱岐市石田町 甑岩神社
長崎市飯香浦町 彌佐支刀神社 壱岐市郷ノ浦町 劔神社
松浦市御厨町 白鳥神社 南松浦郡新上五島町

地名を見れば、すべて僻地に近い地域と海の見える場所に祀られているのがわかる。

五島や壱岐対馬に、なぜヤマトタケルを祀っている神社があるのかは不明だが、有名な人なので、その英雄伝説に感銘を受けた人が祀ったのかもしれない。

そうなれば、今回の八剱神社も、昔はそんな場所にあったはずである。

八剱神社のある町の「小島」は、現在、長崎市の中心地近くとなっている。

小島という地名も、この八剱神社のすぐ下まで海が来ていて、小島のように見えるので、「小島」という地名が付いたという説がある。(他説、小島備前守の名前から)

なので、古代は海のそばの僻地といえる場所だったといえるのである。

ヤマトタケル伝説は、海のそばにあるのである。

小碓尊(おうすのみこと)

ヤマトタケルについて復習をしたい。

『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」、『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」である。

今の現代語意味では、古事記は倭(やまと)を作った人、日本書紀では日本の武士といったニュアンスである。

タケルは猛るという意味で、尊号に用いられる言葉ではないと指摘されていて、本当は「タケ」と読むべきだという説がある。

系譜は、父は第12代景行天皇となる。

この景行天皇は、即位12年、九州に親征して熊襲・土蜘蛛を征伐したとある。

ヤマトタケルの話は載っていないのだが、近県の佐賀県の佐嘉郡、小城郡、藤津郡で日本武尊の巡行が記述されている。

いずれも地名伝承である。小城郡では砦に立て籠もり、天皇の命に従わない土蜘蛛をことごとく誅したとある。

現在長崎に住んでいるが、古代において、佐賀、長崎の区別はないので、長崎に絡んできても不思議ではない。

ヤマトタケルの本名は、小碓尊(おうすのみこと)である。

だが川上梟帥(または熊曾建)の征討時に捧げられ、その時以来ヤマトタケルとなったとされている。

なぜ、梟帥(たける)の名前を受けついたのだろうか。

梟帥とは古代、その地方に威を振るっていた勇猛な種族の長の称である。

普通考えれば、小碓尊は熊襲の長を倒して、その地域を受け継いだという事になる。

梟帥(たける)という名前はそんなに重要だったのかと考えてしまう。

場面を想像すれば、だまし討ちで、川上梟帥を撃ち殺し、「俺がタケルだ!」と雄叫びを上げた、なんて想像してしまう。

若いチンピラが、親分の首を取った感がある。

そう考えれば、大和の使命感に燃えた小碓尊の話自体が嘘だといえてしまうのだ。

うーん。

この話はひとまず置いとこう。

五十猛神(イソタケル)

熊襲(くまそ)は現在の九州南部にあった国で、熊本県人吉市周辺だとされている。

これは間違いないだろう。

7世紀末、国境調査事業が成された時期(690年頃)に、それまで筑紫・肥・豊と呼ばれていた地域の前・後の分割が確定し、筑前国・筑後国・肥前国・肥後国・豊前国・豊後国の北部九州六国が誕生した。

残る南九州は、大宝2年(702年)に薩麻(薩摩)国が成立し、そして和銅6年(713年)に日向国から大隅国が分立した。これで九州島内に九国が成立した。

つまり、690年頃では、九州六国だった。さらに古代では4つであった。

古代の九州

古事記では九州は筑紫島(つくしのしま)で肥国は建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ)と書き、熊曽国は建日別(たけひわけ)である。

古事記の邪馬台国 九州国産み考

古事記の邪馬台国 九州国産み考
肥の国の区分 昔の九州の地図を見て、未だにすっきりしないのが、肥の国の区分である。 肥の国だけが分断されている事に関して、誰も疑問に思わ...


この国名を考えれば、九州の半分は、肥国と熊曽国が建(たける)の国だと書いているのである。

九州と熊本はタケルの国だった。まあ土蜘蛛と熊襲だらけだと書かれているので間違いないだろう。

タケルという名前でもう一人思い出すのは、五十猛神(イソタケル)だ。

彼は須佐之男命(スサノオ)の子である。

高天原を追放された素戔嗚尊とともに新羅曽尸茂梨に天降り、スサノオがこの地吾居ること欲さずと言ったので、一緒に埴土船で渡って出雲斐伊川上の鳥上峯に至ったとある。

五十猛神が天降る際に多くの樹木の種を持っていたが、新羅には植えずに全てを持ってきて、九州からはじめて大八洲国に植えたので、青山に被われる国となったという。

ポイントは須佐之男命の子供で、新羅にいたけれど、船で日本に帰ってきたという点である。

そして五十猛神(イソタケル)の話は長崎にある。

長崎には島原という場所がある。あの島原の乱の島原である。

この場所は、古代「五十猛神(イソタケル)島」と呼ばれていたという。

猛島神社という神社も島原半島にある。そして島原半島の鎮守神、産土神と言われている。

猛島神社

肥前風土記では、島原半島には「山の神、名は高来津座」という国津神がいたとある。

高来津座とは五十猛神(イソタケル)だったのではないか。

五十猛神は素戔嗚尊とともに新羅から渡ってきた。

新羅は、朝鮮半島の新羅であろう。

新羅(しらぎ)は前57年から935年と、古代の朝鮮半島南東部にあった国家である。

古代の朝鮮半島は、倭国領だったと最近の研究でわかっている。

素戔嗚が高天原から追放されたという話は置いといて、朝鮮半島の倭国領から長崎にやってきた倭人たちのグループがあったのではないかと考える。

新羅は古い国で、前57年に建国されたとある。まあ史実性があるのは4世紀くらいからだが、あることはあった。

この新羅の始祖は倭人だったという書がある。

新羅の重臣が倭人の瓠公であり、『新撰姓氏録』によると新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとしている。

更に王族の昔氏は、倭国東北一千里のところにある多婆那国(丹波か)の王妃が産んだ大きな卵が辰韓の阿珍浦に流れ着き、彼は育てられ、脱解と呼ばれ王となった。

この話でわかる事は、新羅は倭人が治めていたことである。

4世紀末に建てられた広開土王碑によれば、新羅を高句麗の属民として描くとともに、この時期に朝鮮半島で行われた大きな戦いを記録している。

その戦乱から、日本本土に戻ってきた倭人たちが、九州西部と南部に住み着いたとするのは、そんなに突拍子もない話ではないと思う。

だからこそ、長崎の島原が「五十猛神(イソタケル)島」と呼ばれていても問題ないと思う。

長崎は杵(木)の国

長崎の地名は「き」が沢山付いている。

佐世保地域は、彼杵(そのき)と呼ばれていて、島原は高来(たかき)である。

五十猛神が紀伊(木の国)で信仰されているという事と同じで、島原もそうだったのだろう。

戦闘能力の高い素戔嗚と、その子の五十猛。

この組み合わせは、倭国における戦闘集団だった可能性は高い。

特に五十猛神は射楯神(いたてのかみ)とも呼ばれ、50人の猛る(たける・戦士)と解釈される。

五十猛神は林業の神と後年信仰されるが、木の神という事は、弥生と呼ばれる農耕集団ではなく、古来倭国に住んでいた、縄文系の集団だろう。

また、五十猛は、土の船を作り海を渡ったことから、造船、航海安全、大漁の神として信仰されている。

まさに海と山を生活の基盤とする集団だったのだ。

それらの集団の一部が九州の肥国(熊本、佐賀、長崎)に住み着いたのだ。

だからこそ、肥国は有明海を挟んでいるにもかかわらず、一つの国として認知されている。

後年、長崎、佐賀を肥前、熊本を肥後と呼ぶようになった。

つまり、肥国とは五十猛が象徴する、朝鮮半島にわたった倭人が帰ってきた地域だったのだ。

しかし、土着の倭人たちもいたので、それらを区別して、土蜘蛛とか熊襲、隼人などと呼んでいたに違いない。

なので、古事記の最初に、九州を4分割して、肥国を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ)と書き、熊曽国を建日別(たけひわけ)と名付けた。

両方とも、「建日」である。これは「猛る」の「たけ」の国だと言っているのだ。

さらに、五十猛神は林業の神様とされている。ゆえに紀伊国(木の国)と呼ばれた。

この「き」という言葉に、感じるものがある。

杵の国

話は少し飛ぶが、「き」の付く建物や地名は、妙な関連性がある。

出雲大社(いずもおおやしろ)は、杵築大社といっていた。

大分県宇佐市にある宇佐神宮(うさじんぐう)の国東半島には杵築市があり、杵築城がある。

佐賀県の有明海川には杵島郡がある。

長崎は彼杵郡である。

さらに探せば、宗像三女神の市杵島姫神(イチキシマヒメ)がいる。

単なる偶然というかもしれないが、杵は餅をつく道具である。

「杵」という漢字は会意兼形声文字で(木+午)で成り立っている。
「大地を覆う木」の象形と「両人が向き合ってかわるがわるつく、きね」の象形から、「木のきね」を意味する「杵」という漢字が成り立った。

なので、「杵」の元は「大地を覆う木」なのである。

これは紀伊国(木の国)と同じ意味だ。

ただ違うのは紀伊国には伊勢神宮があり、すぐ北部には大和王朝がある。

それに対して、「杵」の付く文字は、日本海側と肥国だ。

ざっくり言えば、大和朝廷と拮抗する国があった地域なのだ。

これらは敵対はしていなくて、最後は大和側に従っていった。

特に出雲大社と宇佐神宮の参拝は一般と異なり、二拝四拍手一拝となっているのも、関係があると思う。

つまり、同じ「き」でも、大和側は「木」で、それ以外は「杵」なのだ。

杵と臼

なぜそうなったかという事だが、これもまた不思議なつながりがあった。

五十猛とヤマトタケルは、武人だという点では同じだ。

そのヤマトタケルの名前は小碓命(おうすのみこと)という。

小碓と書いてなぜ「おうす」と呼ぶかは不明だが、古事記で使われている漢字は万葉仮名なので、漢字の意味は関係ない。

なのでヤマトタケルの名前は「おうす」なのだ。

つまり、臼(うす)なのだ。

ここで、杵と臼が初めてつながった。

杵と臼

古事記の五十猛とヤマトタケルの伝承は、実在ではないだろう。

象徴的な出来事の比喩である。

朝鮮半島にいた倭人の武人たちと、大和に味方した武人たちの存在を古事記は書いていたのだ。

そしてそれは、杵の文字の付く地域で、争いや和合をしながら、大和に飲み込まれていったのだろう。

そして大和側のタケルを、臼(うす)と名付けた。

杵と臼で出来上がるのは、米で作った餅である。

餅は共同作業で作られ、日本では祝い事の時に作られる。

さらに、正月の鏡餅やお年玉の語源にもなっている、日本の伝統的な食べ物である。

タケル達が突き上げた餅は、大和から日本へなっていったのだ。

これは単なる言葉遊びや語呂合わせではない。

あの桃太郎や稲葉の白兎、浦島太郎と同じように、日本人の心に寓話化されて残っていった物語だった。

それを古事記は綴っていったのだ。

長崎は寄せ集め

話を元に戻す。

長崎人なので、港周りの山や地域は、当然よく知っているし、私は神社仏閣もよく散策している。

そこで感じるのが、長崎の地名は他国の寄せ集めで成り立っているという事である。

例えば、長崎には英彦山という山がある。これは福岡県の有名な英彦山の名前を拝借したものである。

そして稲佐山がある。

これは佐賀県の稲佐神社から拝借したものだと思う。

神社の由来も、他国のものが多い。

やはり、古来より長崎という土地は交易の場所だったのである。平地がほとんどないので、港として活躍していた。

そして、キリシタンの町になり、鎖国時の日本唯一の貿易港となり、町中は他国の人々であふれていた。

今回の八剱神社も熊本県の阿蘇神社の社人が長崎で神社を作っている。

八剱神社

八剱神社

歴史ある阿蘇神社で、古代のタケルの資料なりを発見した東源左衛門は、タケルを信奉し、その古墳等を長崎で発見し神社を立てたのだろう。

これが結論である。

これまで長崎には特別なヤマトタケルの伝説はない。

ただ、昔はあったのだろうと確信する。

長崎のタケルは、死後、白鳥となって戻っていったのだろう。

どこに戻っていったかといえば、古代、倭人たちが住んでいた朝鮮半島の新羅である。

なぜなら、新羅の古名は「斯蘆」(しろ)だからだ。

これが、長崎の白鳥皇子「ヤマトタケル」の伝説である。

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