矢上神社
矢上神社の写真素材 アートワークスフリーフォト
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昔は「大王社」といっていたとある。大王とは素戔嗚尊(スサノオ)の事。
由緒には、長崎で一番古い神社と書かれている。由来には1281年に元寇の守りとして建てられたとあるが、長崎の岩屋神社は708~715年で、古さでは由緒とおりにうけとれない。
ただ、伝承なので断言も出来ない。
長崎から諫早、佐賀方面に行くとすれば、時津街道か長崎街道しかないので、かなり古くから宿場町として成り立っていたと考えられる。
長崎の岩屋神社も祭神は素戔嗚尊(スサノオ)である。つながりがあるかもしれない。
神社脇には神池の島と四面仏塔があり仏様も祭っている。いわゆる神仏習合の社であり、諫江八十八ヶ所の第七十一番札所にもなっているくらいだから、多くの信仰はあっただろう。
矢上の宿には鍋島藩の番所があったとあるが、その前は諫早である。
記録では鎌倉時代に「伊佐早村」という文字が初めて登場している。
その時代から人々の往来はあったのだから、矢上神社が出来る前にも神仏の祠はあったと思われる。
しかし、地形を見ても古代、長崎でよくある磐座(いわくら)信仰に当たる岩山もないので、自然発生的に街道が出来、人が集まり社が興ったのだろう。
矢上という地名の興りは、過去調べたことがある。よろしければ御一読を。
長崎、矢上という名の由来の真相 - アートワークス Artworks
http://artworks-inter.net/ebook/?p=1315
矢上神社のご由緒書きより
(祭神)素戔嗚尊・大己貴命・少彦名命
(御鎮座の由緒)弘安4年(1282年)辛己年9月、当村平野区字平原と言う所へ夜毎に奇異の光あり。
村人不思議のものと見せしに一つの宝剣あり。
これ即ち天津国の剣ならんと或は喜び或は惺れ、四方の村民集合推測するに、過日外賊追風の際、定めて国津神等、この剣を箭(矢)として外敵を刺し賜いしものならんとと衆評一定し、直に一つ石祠を建設し、右の宝剣を御神体となし、箭の神と称して尊崇す。
依て村民の住居する地を箭神村(矢上村)と命名ありと言う。
資料にさせていただいたHP
長崎街道 矢上宿跡
「長崎街道二十五宿のうち、長崎の町より二宿目が矢上の宿である。この地は鍋島諌早支藩の支配地で、長崎奉行支配の日見村と境を接していたので、矢上の宿には鍋島藩の番所があった。その故に矢上の宿には番所役人がおり、旅宿があり、馬・駕籠人足などが常時用意され、造り酒屋・各種の店・鍛冶屋などがあり、昔より矢上の宿は近隣の村々の中心地として賑わっていた。文政九年(1826年)一月九日朝、長崎出島を江戸参府のため出発したカピタンとシーボルトの一行は、この宿の教宗寺で昼食をとっている。」
http://5.travel-way.net/~niemon/nagasaki/nagasakisi/dotyu/yagamijinja.html
諫江八十八ヶ所
諫江八十八ヶ所は諫早第11代領主茂図(しげつぐ)公の治世が 長かったので、長子敬輝(ちかてる)に家督を継がぬまま、文化6年37歳で没しました。
敬輝の室哲仙院(てつせんいん)は不遇な夫の菩提を弔い、領内安穏、子孫繁栄を祈って文政8年四国八十八ヶ所に習って諫早領内に88体の弘法大師像を設置された。
(郷土史家 山口八郎先生著書より)
http://www.1388.ne.jp/magi/88kasho.html