雲仙地獄でキリシタン拷問の事実を若者に伝える時

大型連休で、都会に出ている子供達が帰郷し、その友達のリクエストで雲仙までドライブをする事になった。

雲仙

雲仙は歴史も古く、見どころが沢山あるのだが、歴史に興味のない若者達にすれば、古びた神社や遺跡よりは、白煙を盛大に立ち上らせている雲仙地獄の風景が一番人気だった。

そこで、雲仙地獄でのキリシタン拷問の話をする。

「昔の日本は残酷だった」「キリスト教の人たちは信仰が命より大切だった」「私だったらすぐ棄教する」「秀吉、家康は駄目」

そんな感想が出る。

なぜキリシタン弾圧が行われたのか、なぜ拷問されてキリシタン信者が灼熱の熱湯に突き落とされたのかの疑問が沸かなかったようで、若者に歴史を伝える事の難しさを思った。

雲仙地獄にある十字架

そこで、なぜキリシタン信者達を拷問して殺していったのかの私なりの解釈を書いてみる。

キリシタン弾圧

日本に最初に伝道師としてやってきたのは、ご存知「サビエル」さんだ。

このスペインのカトリック教会の宣教師は、3人の日本人とともにジャンク船でゴアを出発、日本の鹿児島にたどり着く。

ザビエル

その後、苦労の末、カトリック伝導のスタートを切り、信長、秀吉の覇王のもとで順調に信者を増やし続けたのだが、カトリックの布教方針に「日本侵略」の匂いを嗅ぎ取った秀吉は、1587年バテレン(宣教師)追放令を発布し、キリスト教を禁止する。

ここから、禁教の歴史がスタートする。

ここまでは、いろんな文献やHPに掲載されているので割愛する。

私が、解説したいのは「なぜひどい拷問をカトリック信者に行なったか」という事である。

日本の拷問

過去、拷問は古代日本でも行われていたが、公式に制度化されたのは奈良時代、大宝律令が制定されてからである。

古代、中世では罪の容疑が濃厚で自白しない罪人を、刑部省の役人の立ち会いのもと、杖で背中15回・尻部15回を打つ。

杖刑

自白できない場合は次の拷問まで20日以上の間隔をおき、合計200回以下とする条件で行っていた。

さらに、皇族や役人などの特権者、16歳未満70歳以上の人、出産間近の女性に対しては原則的には拷問は行われなかったという。

これを見れば、原始的だが、抑制がきいている刑罰というイメージが有る。

戦国時代から江戸時代後期までは駿河問い、水責め、木馬責め、塩責めなどの様々な拷問が行われたが、1742年の公事方御定書により拷問の制度化が行われ、笞打(むちうち)・石抱き・海老責(えびぜめ)・釣責の4つが拷問として定められている。

日本の拷問

笞打と石抱はかなり頻繁に行われていたが、海老責や釣責まで行くのは稀だったという。

それは、そこまでいく間に自白させるという役人の手腕が求められており、幕府側の面子を重要視したからである。

なので、かなり日本的である。

そんな日本の場合でも、キリシタン棄教の拷問は、見た目の残酷さが目立つ。

蓑(みの)で巻いた信者に火を付けもがき苦しませた蓑踊り、硫黄を混ぜた熱湯を信者に少量注ぐ、信者を水牢に入れて数日間放置、干満のある干潟の中に立てた十字架に被害者を逆磔(さかさはりつけ)にする。

火焙り

この拷問は、幕府の役人が行なったのではなく、島原藩で行われていた拷問で、幕府の禁教に対しての本気度を各大名が強く感じて、忖度した結果だろう。

長崎でも、穴吊りの刑、火あぶりから始まり、雲仙の熱湯地獄に突き落とすなどの拷問があった。

雲仙地獄

それ以外にも、聞くに堪えない拷問が続けられている。世界の拷問や残虐の歴史も凄まじいが、マクロ的に見れば日本人の残虐さも引けに取らない有様である。

ただ権力が主眼においたのは、キリシタンを殺すことよりも、転向させることが目的だったという事である。

それを考えれば、キリスト教の追放だけが目的で、棄教しない熱狂的な信者のみが、凄惨な拷問の対象だったのである。

よく西洋の魔女狩りと比較されるが、ヨーロッパのヒステリックなリンチに近い魔女狩りの様子は、日本と全く事情が違う事だけは間違いない。

魔女狩り

日本での宗教迫害

日本は島国であったので、沢山の宗教が相反する事はなかった。

日本に仏教が入ってきた6世紀前後、神道派の物部氏と仏教派の蘇我氏の争いがあったが、しかし、これは宗教の争いというより政権争いだった。

その後、神道と仏教は融合し、神仏習合という独特の形に収まったのは周知のことである。

それ以外で思いつくのは、浄土真宗本願寺教団の一向一揆、日蓮宗の法華一揆くらいである。

一向一揆

これも宗教戦争というより、既得権に関しての抵抗運動であり、権力との抗争とも言えるので、キリシタン迫害とは全く違う。

となれば、日本における宗教排除は初めての事だと言えるだろう。

転び

拷問に耐えかねて棄教した者は多かった。棄教の意思表示は自由にできるようにされているし、棄教を表明すればその場で開放されるからである。。

棄教を選択した者には、誓詞(起請文、俗に「転び証文」「転び書物」)に血判させ、切支丹類族帳に記載され、6代まで(女性の場合は3代)監視された。

キリシタン転び証文

さらに年2回の届け出が義務付けられ、記載された者が死亡した場合には宗門改役(キリシタン奉行)に申告し、特に転びキリシタン当人であった場合には、火葬を指示された(キリスト教において火葬は禁忌)。

これらの事から再度判るのは、転ばさせる目的で、わざと見た目に残酷な拷問をやっていたという事である。

戦国時代以降のキリスト教迫害について、そのキリスト教思想が為政者にとって都合が悪かったという論評があるが、的が外れていると思う。

キリスト教の神の前では人間は平等だという考えは、神道でも仏教でも存在しており特別な思想ではない。

ただ一つ違うのは、殉教という死ぬことで信仰を成就されるという過激さは、天下統一をして国内平和を達成させる為政者にしてみれば、排除すべき事であったことだ。

これは、大東亜戦争時の神風特攻隊に対面したアメリカ軍の恐れと同じものだったと推測する。

死を恐れない思想は、宗教が発端の抗争では必ず出てくるものである。

これこそ、為政者が一番恐れた宗教の怖さである。

集団改宗

キリシタン信者の数が増えていった理由の一つに、集団改宗があった。

これは、イエズス会宣教師は、まず大名を入信させ、次いで家臣領民を改宗させる方法をとったからである。

大名をキリシタンにさせる方法は、まずは貿易による利益をちらつかせたのだ。

戦国時代の大名である。

目端はきくし、利益に聡く行動力のあるものばかりである。西洋の大国スペインの後ろ盾があれば、なおさら魅力的だった。

最初に入信したのは肥前長崎の大村純忠だが、純忠は周りから命を狙われている弱小大名である。

なのでカトリックと手を結んだのだ。(それだけではないという説もある)

大村純忠の受洗

そして、この方法は成功している。

そして純忠は大村領民6万人をキリシタンに改宗させ、改宗拒否をした者達が奴隷として海外へ売り渡されてしまった。

その結果、当時のキリシタン信徒は約15万人、その中で約11万5000人が、下(しも)教区(大村、有馬、天草を中心とした地方)に集まっていたとある。

他の有名なキリシタン大名に大友宗麟、有馬晴信、高山右近、小西行長らがいる。

これらの大名は、自分がキリシタンに転向した途端、その領民を強制的にキリシタンにしたのだ。

記録にこそ載っていないが、領地内の神社仏閣を破壊し、神仏を徹底的に排除している。

さらにキリシタン保護を行う。こうなれば領民はキリシタンとならざるを得ないのである。

この大名を取り込む、カトリック側の戦略は当たり、10万人以上の信徒を確保したのだ。

ただ信仰には濃淡がある事も忘れてはいけない。

こんな方法でキリシタンにさせられた人たちは、禁止令が出て、捕縛が始まれば簡単に転んでしまうだろう。

なので、幕府は拷問が有効な手段であると判断したのだ。

権力者がキリスト教を恐れた理由

一向一揆との戦いを経験した武将たちは、死を恐れない強い信仰に警戒心を抱いていた事。

外国人、キリシタン大名が日本人を奴隷として売買していた事。

さらにキリスト教宣教師らが植民地化の尖兵である事が露見した事。

これが、キリスト教を恐れた一般的な理由である。

ちなみに、キリスト教の町となった長崎では、砦が築かれ、信者は武器を持ち、南蛮の軍艦が大砲を準備し、着々と要塞化が進行している。

起源は16世紀後半の城塞? 長崎学研究所・赤瀬所長 県庁跡地一帯の石垣研究 | 長崎新聞

さらに、海外の植民地化の惨状を為政者は知っていたので、極端に警戒したと思われる。

その一例を語る歴史の報告書がある。

インディアスの破壊についての簡潔な報告[ラス・カサス]

これは16世紀のラテンアメリカのスペイン支配の様子が書かれている報告書だが、内容が凄まじすぎるので、検索で調べてほしい。

それ以外でもインド、東南アジアで行われた植民地政策のキリスト教化は色んな本に載っているので検索してほしい。

これらの内容を知れば、日本のキリスト教弾圧は可愛くさえ思えてくる。

宗教の名のもとに植民地がされた地域での、現地人の扱い方は悲惨そのものである。

これは白人至上主義の人種差別が原因で、白人以外は人間ではなく、有色人種は家畜同様だったからである。

世界情勢を見れば、秀吉、家康のキリスト教禁止政策は正しかったと思う。

キリスト教禁止政策の正当性

もし、キリスト教弾圧がなければ、日本は確実にスペインの植民地となっていただろう。

また、その当時の日本の武力を考えれば、海外との大戦争になったかもしれない。

アルマダの海戦

ただ日本が強いといっても、ヨーロッパの軍事力は強大である。

まともにやりあえば日本は占領されていただろう。

ただ一つラッキーだった事は、日本が遠かったからである。この距離こそ日本の僥倖だったのだ。

その後の鎖国政策だが、日本に強力な武力がなければ出来ないことだし、ある意味日本にとってラッキーだった。そして鎖国政策はこの時点では、正解だったと思う。

ただ、鎖国が長すぎたのが、後の日本に大きく影響しているのは事実なので、すべて正解とは言えないだろう。

鎖国が解かれ、禁教が廃止された現在の日本で、キリスト教が普及していないことを考えれば、単に他宗教だから排除したということではなかったことが分かる。

踏み絵

西洋人に比べ、日本人は宗教に確執がないからである。

相変わらずの神仏習合のまま現代まで来ている。

雲仙で拷問にあった信者の人たちや、過酷な迫害の歴史を思えば、禁教を正当化などは出来ないが、世界史の中から見れば、しょうがなかった事である。

若者たちに雲仙地獄でのキリシタン拷問の事実を知らせる時、その教訓はなんだろうかと考える。

やはり、近視眼だけではなく世界の中の日本を知ることの重要性だけだろう。

これは世界史と日本史を連動して学ぶことであり、物事を単純化して判断しない事の大切だと思う。

そしてそれは老人の役目だと、密かに思うのである。

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