東北王国(1) 日本中央碑の謎
東北の謎である。
日本中央碑とは、1949年(昭和24年)6月21日、当時甲地村であった石文集落近くの赤川上流で千曳在住の川村種吉により発見された、高さ1.5mほどの自然石に「日本中央」と刻まれた碑である。 ウィキペディア
一般には「壺の碑(つぼのいしぶみ)」と呼ばれている。
何が謎かというと、その大きな石碑には「日本中央」と刻まれていたからである。
東北の一番端っこにある場所が、「日本中央」とはどう意味なんだろうか。
北の国を語るのは鬼門か
この不思議な謎を追いかけている人は多い。
今回のことを調べるにあたり、最初に読んだのが「真実の東北王朝」古田 武彦(著)である。
古田 武彦氏は大好きな歴史家で、九州王朝説は十分納得できる内容である。
それ以外にも「邪馬台国」はなかったなど、学会では評価されないが、古代史ファンの間で評判は高い。
しかし、古田氏が新しく取り組んだ東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)が偽書であり、それを本物と盲信して、さまざまな説を出したと言われる事が、古田ファンの中でも強烈な批判となってしまった。
古田氏も「真実の東北王朝」の本の中で学会が東日流外三郡誌が偽書だと言ってることを十分知っていると書いている。
しかし、その批判を受けても、その本の中に書かれている、「何パーセントかの真実」を追いかけたのである。
古田氏は「ギリシア神話に登場する伝説の都市トロイアを発掘したシュリーマン」の事も語っている。
そんな状況の古田氏の「真実の東北王朝」である。
私は古田氏の説が好きなので、好意的に考えているのかもしれないが、「北の国」の話は、一般の学者にとって鬼門なのかもしれないと思う。
北の国の存在を模索すれば、東日流外三郡誌は必ずぶち当たるし、そのことを考慮に入れれば、古田氏のように世間から総攻撃を受けそうだからかなと思う。
しかし、北の国には、三内丸山の縄文遺跡も実在するし、不思議な遮光器土偶やストーンサークル、そしてアイヌも存在している。
なので、東日流外三郡誌の真作説に好意的な大学教授や芸能人(例えば上岡龍太郎)も多い。
私は古田氏の本をかなり読んでいるが、氏が追及する東日流外三郡誌は、現在のところ偽書だと思う一人である。
だが、その中にある「可能性としての東北国」の存在はありうると思う。
今回はこの謎を追いかけてみたい。
壺の碑(つぼのいしぶみ)と呼ばれている理由
壺と言われているが、あの壺ではない。
発見された場所の近くに都母(つぼ)あるい坪村、坪川という地域があったからである。
また、平安時代の歌人がこの石碑のことを書き残している。
平安時代末期、歌人・藤原顕昭が文治年間(1185~89)に著した『袖中抄(しょうちゅうしょう)』にある「顕昭云、いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有り。日本のはてと云り。但田村の将軍征夷の時、弓のはず(筈)にて石の面に日本の中央のよしを書付たれば石文と云と云り。信家の侍従の申しは、石面の長さ四五丈計なるに文をゑり付けたり。某所をつぼと云也」(つぼのいしぶみ保存館リーフレットより)
まず、この石碑が偽物かどうかという事が議論になる。
石碑発見後、新聞社や学者が調査を行うが、本物の「つぼのいしぶみ」であるとする鑑定がはっきりと出されていないのが現状である。
真偽が問題になった理由は、まず「日本中央」という文言である。
発見されたのが昭和24年なので、そのころの認識は、日本と言えば日本列島のことだし、平安時代には日本列島という概念がなかったからだ。
刻んだとされる田村麻呂が現地に到達していないという問題。
書かれている文字が、達筆であるとは言えない字の形である事。
多賀城碑(宮城県多賀城市大字市川にある奈良時代の石碑)があり、こちらが壺の碑だという説があること。
発見時に学者らの調査以前に拓本をとるため表面を必要以上に綺麗にしてしまった事。さらに裏面は削られた跡がある。
以上が疑われている事柄である。
確かに、平安時代ではこの辺りは蝦夷と呼ばれ異郷の地であった。
しかし、行ってこの碑を作った可能性のある人物がいる。
実際に都母(つも)に行ったとされる武将は文屋綿麻呂である。もしも実際に文屋綿麻呂が書いたとすれば811年(弘仁2年)頃の出来事になる。
蝦夷地征伐で有名なのは坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)だ。
この田村麻呂は二度にわたり征夷大将軍を勤めて蝦夷征討に功績を残している有名人である。
なので、東北の話では坂上田村麻呂がたくさん出てくる。
しかし、この地域には田村麻呂は到着していないが、文屋綿麻呂は坂上田村麻呂らと共に蝦夷征討のために東北地方へ派遣され、蝦夷に対する攻撃により、蝦夷を多数殺害・捕獲し、降伏させたこと、およびその蝦夷を朝廷に進上したい旨を天皇に報告している。
いわゆる実行部隊である。
この事により、もし石碑に文を刻んだのは文屋綿麻呂かもしれないという憶測が生まれたのである。
そして重要なのは、書かれた時代が確実に古いという事だ。
12世紀末に編纂された顕昭作の『袖中抄』19巻に「顕昭云(いわく)。いしぶみとはみちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但し、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申ししは、石面ながさ四、五丈ばかりなるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也(それをつぼとはいふなり)。私いはく。みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云えば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ。」とある。 ウィキペディア
さらに、「つぼのいしぶみ」のことを多くの歌人その他が和歌に詠った事実がある。
この事が「つぼのいしぶみ」の重要性を物語っているのだ。
日本とは
ここに書かれている日本だが、実際に日本(ひのもと)と呼ばれていた。
例えば、津軽の安藤氏は日之本将軍を自称し、しかもそれが天皇にも認められていた。
豊臣秀吉の手紙でも奥州を「日本(ひのもと)」と表現した例がある。
日本の国号は最初は「倭」や「大和」であり、蝦夷地を「日本」や「日ノ本」と呼んだが、征夷後に大和は雅名をとって自分の国号とした。このことは『新唐書』『旧唐書』にも記述されている。 ウィキペディア
うーん
蝦夷地をなぜ最初「日本」や「日ノ本」と呼んだのかが納得できない。
豊臣秀吉は全国制覇を成し遂げた人物で、朝鮮出兵、キリシタン弾圧なども行った国際派だ。
なので、日本という国号は十分理解していると思うのだが、どこか現代の私たちと違う感覚があったとしか思えない。
例えば、蝦夷地(えぞち)のアイヌに対して、日本の書き物には「和人」という言葉を使っている。
沖縄では内地人のことを「ヤマトんちゅー」と呼ぶ。
そのことを思えば、近代になるまで、日本人は大和人(和人)という感覚が強かったのだろうと推測できる。
地域としての日本
ウィキペディアにも書いているが、最初は蝦夷地を「日本」や「日ノ本」と呼んでいたという記述である。
誰がそう呼んでいたかと言えば、当然大和人であろう。
しかし、、戦国時代末期の日本でキリスト教の布教活動を行ったイエズス会宣教師ルイス・フロイスの著書は、日本史であり、その原題はポルトガル語で「Historia de Iapam」だ。
外人から見れば、日本列島の歴史なので「Historia de Iapam」なのである。
日本人以外は、日本地域はジャパンであり、当の日本人は大和人と思っていたという事になる。
ここに、大きなずれがある。
異国人から見れば日本列島はジャパンなのだ。
しかし、大和人は蝦夷地や東北を日本、もしくは日ノ本と呼んでいた。
なぜそう呼んでいたのかと言えば、「昔から」そう呼ばれていたとしか言いようがない。
それなら、誰が東北、蝦夷地を日本と呼んだのか。
その疑問を解くには、かなり昔にさかのぼらなければならない。
『新唐書』『旧唐書』にはどう書かれていたのか
旧唐書の説明
日本国は、倭国の別種なり。その国日辺(につぺん)に在るを以ての故に、日本を以て名となす。あるいは曰く、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす、と。あるいは云ふ、日本はもと小国なれども、倭国の地を併せたり、と。
新唐書の説明
後(のち)稍(やうや)く夏(か)の音を習ひて倭の名を悪み、更(あらた)めて日本と号(なづ)く。使者自ら言ふ、国、日の出るところに近ければ、以て名となす、と。あるいは云ふ、日本は小国にして、倭のあはすところとなるが故にその号(な)を冒(をか)す、と。
「日本」はいつ生まれたのか? 古事記にないのはなぜか? 国号の謎を追うhttps://news.kodansha.co.jp/20161102_b01
旧唐書のほうが分かりやすい。
まず重要なのは「日本国は、倭国の別種なり」である。
ここまではっきり書かれていると、日本の成り立ちが浮き彫りにされるようだ。
この文でまず思うのは、複数の王朝の存在である。
学会では、九州王朝や東北王朝は存在しないという考えだが、日本と倭国は違うとあるので、複数の国があったのは事実である。
単純に読むと、倭国があり、日本国が日本列島にあったという事になる。
倭国は、中国王朝にすればなじみのある国名である。
それとは違うと言っているのだ。
「その国日辺(につぺん)に在るを以ての故に、日本を以て名となす」
日辺とは「遠い場所のたとえ」である。
『晋書(しんじょ)』明帝紀(めいていき)
故事
中国晋しんの元帝が「長安と太陽はどちらが遠いか」と、幼い太子(後の明帝)に質問したところ、太子は「太陽のほうが遠い。長安から来たという人の話は聞いたことがあるが、太陽から来た人の話は聞いたことがないので」と答えた。翌日、群臣の前で同じ質問をされた太子は、逆に「長安のほうが遠い」と答えた。驚いてその理由を尋ねた元帝に、太子が「太陽は見えるが、長安は見えないので」と答えたという故事から。- 三省堂 新明解四字熟語辞典
日本が国名を日本としたのは、当然この故事を知っていたのだと思う。
「日本はもと小国なれども、倭国の地を併せたり」だが、私は大和朝廷が、倭国である出雲や吉備、九州を飲み込んで、日本に統合したと思っていた。
しかし、中国王朝から見れば、日辺(につぺん)とは東北地方を指しているのかもしれないかとも思った。
大きな思い違いか
なぜ東北が日辺(につぺん)かと言えば、日本の最東端が北海道を除けば、岩手県あたりだからだと思う。
中国人から見れば当然かもしれない。
異人が、日本列島の詳しい事情を知っているとは言えないし、日の昇る東の果てが、単純に日辺(につぺん)と記録しただけだろう。
さらに、深読みすれば、中国古代王朝は、東北地方で栄えた国のことを知っていて、それが記録として継承されていたのかもしれない。
国際交流では日本
古事記ではヤマトを「倭」とのみ示し、「日本」と記していないが、日本書紀では逆に、ヤマトを大部分「日本」と記している。
日本という言い方は、、一般的には大宝元年(701年)施行の大宝律令の「明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと)」がそれとされている。
この時期、日本で大化の改新が起き、聖徳太子は遣隋使を派遣し、中国の文化・制度を学び冠位十二階や十七条憲法を定めた時代である。
制度の輸入先の隋に舐められてはいけないと思い、倭国ではなく、もっと大きい地域のイメージである日本という国号を使ったと思う。
「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。」
この文は有名で多利思北孤(たりしひこ)が書いたとされている。(一般的なのは多利思北孤が厩戸皇子(聖徳太子)と言い切っている文が多い。)
この文では、隋王朝に対抗して、日本という国をしっかり主張した事になっているが少し疑わしい。
漢字一文字の「倭」
前近代の中国においては、中原に住む部族の国家の国号は一字であり、非中原の異民族国家は国号が二字であるという意識があった。
そのため、後漢から南北朝期にかけて、日本が「倭」の国号で使節を送ることは中国側にとって違和感のあるものであり、むしろ聖徳太子が国号を「日本」と改めて国書を送るのは中国側も納得のいくものであったとする見解もある。 ウィキペディア
隋からしてみれば倭は夷狄(いてき)である。つまり東方の野蛮人の異民族なのだ。
それなのに、漢字一文字の「倭」で呼んだのは不思議である。
中国の王朝名はすべて一文字である。
それ以外は鮮卑とか突厥などのように二文字である。
とすれば、倭は野蛮国ではなく、中国王朝に対抗できる力を持ち、印象のいい国だったのではないかと思う。
なので多利思北孤の「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。」の真意は、精一杯見栄を張っているが、
実は倭という中国王朝形式の一文字をやめて、夷狄である証拠の二文字、もしくは中国王朝とは関係のない「日本」という国名にしますといった事ではないかと思う。
そして、その日本という呼び名は「その国日辺(につぺん)に在る」という古代中国王朝の日本の呼び名を十分意識したものだと考える。
控えめだが、言う事は言うという、日本人の美意識を見事に表した表現だったのである。
ジパング
「日の元」ではなく、なぜ「日の本」という文字を使ったのかと言えば、日辺(につぺん)と呼ばれていたので、元ではなく本という字を使ったのだろう。
英語のジパングという呼び名は、マルコ・ポーロが東方見聞録の中で「Zipangu(ジパング)」と書いたことから一般的になった。
マルコ・ポーロは中国人が、日本の事を「ジーベン」と呼んだからである。
「ジーベン」とは日辺(につぺん)の事だろう。
大和人自身が太陽の上る国だから日本という名をつけたというのは、日本人の謙遜精神から言ってもないだろう。
津軽 安藤氏の日之本将軍
安藤氏は陸奥国津軽地方の豪族。安倍貞任の子高星が津軽安東郡に住して安東氏を称したという。源頼朝は奥州平定後,安東氏を代官として津軽地方を管領させた。ブリタニカ国際大百科事典
この武将が自称、日之本将軍を名乗った。
なぜ名乗ったかと言えば、前述したが、蝦夷地が「日之本」と昔から呼ばれていたからという事である。
壺の碑(つぼのいしぶみ)に話を戻す。
碑に書かれている「日本中央」の文言だが、これがいつの時代に書かれたのかが重要である。
中国王朝の歴史は古い。しかし日本も縄文時代のことを考えれば古い。
蝦夷地には、三内丸山遺跡がある。
時期でいえば縄文時代前期中頃から中期末葉の大規模集落である。
縄文時代は紀元前14000年からスタートされている。
その時代の中国は殷という王朝の前後である。漢字が生み出され、国をまとめていこうとする活発な国だった。
その殷が日本のことを知っていたかという点では不明だが、中国には山海経(せんがいきょう)という奇書がある。
中国古代の戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて徐々に付加執筆されて成立したものと考えられており、最古の地理書(地誌)とされている。
この山海経に日本のことが書かれている。
鉅燕(きょえん)の南にある
・蓋(がい)国は鉅燕の南、倭の北にある。倭は燕に属する。[倭国は帯方の東の大海の内にあり。女を以て主と為す。その俗露ケイし、衣服に針功なし。丹朱を以て身に塗る。ト忌せず。一男に数十の婦なり]。(海内北経)
「蓋国」は現在の北朝鮮・平壌付近にあった国、「燕」は中国の河北省から東北地方一帯を支配していた国、「鉅」は巨大な国という修飾語
https://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/entry-12177695321.html
ここに書かれていることは、多くの意味を持つが、今回はかなり古くから、倭国のことを知っていた事の証拠である。
さらに
下に湯谷(ゆうこく)がある。〔谷中の水は熱い〕。湯谷のほとりに扶桑(ふそう)の木がある。十個の太陽が水浴びをするところである。黒歯国の北にある。水の中に大木が生えている。九つの太陽が下の枝におり、もう一つの太陽が上の枝にいる。
(略)神がいる。顔は人間で耳は犬、体は獣で、二匹の青い蛇を耳飾りにしている。
ここに扶桑(ふそう)という文字がある。
扶桑は東海上に立つ伝説上の巨木であり、そこから太陽が昇るとされていた。
後世、扶桑・扶桑国は、中国における日本の異称となっている。
ここでも、太陽が昇る地域が重要で、日本列島全体を示すより、東北地方の岩手県あたりの地域を指すと思われる。
なぜなら山海経でも九州方面の倭国はすでに知っているからだ。
あと、この山海経の文は
ブログNO.33 『山海経』に描かれた日本列島(その2)
https://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/entry-12177695321.html
からの引用なのだが、そこで
「二匹の青い蛇を耳飾りにしている」というのは、縄文時代早期から前期にかけて列島でもはやった「けつ状耳飾り」とかその系統の耳飾りのことを言っているのかもしれない。
とあった。なるほどと思う。
中国古代王朝は、この縄文の倭国以外の国を「その国日辺(につぺん)に在るを以ての故に、日本を以て名となす」と認識していたのだ。
ただ、東北の国は、王朝ではなかったと思われる。
なぜなら、王朝などという封建体制は、稲作が始まってからの仕組みで、縄文時代には、封建制度はなかったからである。
推論の帰結
東北地方を中心にした巨大な文化圏が、「日辺(につぺん)に在る国」だったのである。
古代中国ではそのことを知っていて、文章に書いた。
その中国の歴史書に日本列島にある文化圏を「日辺(につぺん)に在る国」と書いていることを承知していた。
日辺(につぺん)を日ノ本と解釈して、その言葉と意味が大和で流布した。
なので東北を日ノ本と呼んだ。
そして日本中央という碑を建てた。
これが推論の帰結である。
そして、偽書と呼ばれている東日流外三郡誌は、そんな文化圏を描きたかったのではないだろうか。
北の国の話は、これだけではない。
アイヌという存在もある。
まだまだ、北の国の話は続きそうである。
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