日本と朝鮮半島(6) 百済遺跡で1600年前の日本人居住痕跡を発見という記事について

ハンギョレ(韓民族日報)新聞社は、韓国の日刊新聞である。

その記事を今回は抜粋している。

ネットに流れている記事はいつなくなるのかわからないので、記事の全文を引用しておく。

 大韓文化財研究院のイ・ヨンチョル院長は、「倭の職人たちが日本から移住して百済の官窯や工房に入り、百済の職人たちと一緒に作業した痕跡と思われる」

百済窯遺跡の廃棄物層から日本製の埴輪の破片が出土した際の様子=大韓文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社

ウィキペディア 百済(くだら/ひゃくさい〉、旧字体:百濟、4世紀前半- 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。当時の朝鮮半島には、百済の他に、北部から満洲地方にかけて高句麗が、南東部に新羅が、南部には伽耶諸国がそれぞれ存在しており、朝鮮史の時代区分では三国時代と呼ばれている。

AI 「百済」を「クダラ」と訓む由来には諸説ありますが、最も合理的なのは、馬韓地方に原名「居陀羅」と推定される「居陀」という地名があり、これがこの地方の代表地名となり、百済成立後、百済の訓みになったという説です。

 

また「クダラ」は日本語としては解釈ができず、朝鮮の古語 (百済語) に由来しているというのもネットでよく書かれている。

百済語に関しても、その説は様々で、

 

百済語(くだらご)
百済の建国神話は、百済王族は扶余出自との伝承をもつ。そのため、百済王族は扶余系の言語を話していたとみられる(扶余系百済語)。一方、百済の民衆は三韓の言葉(韓系諸語)を話していたとみられる(韓系百済語)。

また『広韻』には、百済王(扶余氏)は「中国呉の夫概から出た扶余氏」と記録されている。ウィキペディア

 

さて本当はどれだろうか。

扶余という国から百済が出てきたと書かれている。

 

民族名・国名としての扶余

 民族名、国名としての扶余(扶餘)は高句麗と同じくツングース系の貊人(はくじん)が、前2世紀ごろ中国東北部の松花江中流に建国したもので、1~3世紀ごろには鮮卑および高句麗に対抗する勢力となった。494年に同じツングース系の勿吉(モッキツ)に滅ぼされた(勿吉は6世紀半ばに高句麗に滅ぼされる)。百済はその扶余の後裔と称しており、最後の都の名も扶余とした。
世界史の窓 https://www.y-history.net/appendix/wh0301-084_0.html

 

この貊という国だが、濊貊(わいはく)と呼ばれている時期がある。

 

濊貊(わいみゃく、わいはく、かいはく)は、朝鮮半島から満州にかけて、北西から南東に伸びる帯状の地域に存在したとされる古代の種族。同種の近縁である濊(薉とも表記される)と貊の2種族を連称したもの。周代以降の記録に濊・貊の名が見えるが、漢代に入り濊貊と記されるケースが増える。『漢書』食貨志では穢貊と表記される。

史書には、夫余の出自が濊とみられる記述があり、また貊を高句麗の別名または別種と記す。

 

少し入り組んできたので、中国の王朝の歴史を記す。

夏→殷→周(西周)→(東周)→秦→漢(前漢)→新→漢(後漢)である。

周(しゅう)は紀元前1046年頃 - 紀元前256年であり、かなり古い。

その記録で濊・貊の名があるというのは、かなり古くから存在していたのだ。

私は、五千年ほど前に、朝鮮半島に倭国の縄文人が住み着き、朝鮮半島の基本的な文明を築いたと想像している。

ウィキペディアでは濊・貊は同種の近縁と書かれている。

同種というのは、おそらく出自と言葉が同じだったんだろう。

出自は日本列島の縄文人だと思う。そして言葉は倭語だろう。

 

DNA解析では

漢族と日本人は外見上・遺伝上では比較的似通った部分が多いものの、遺伝子レベルで見ると明確に区分できることがわかった。 「日本人(大和民族)」は、「北海道」から「九州」まで、地域集団の微細な違いは確認されるものの、同じ「クラスタ円」の中に納まり、その「クラスタ円」は、「中国人、韓国人」からは、明確に、かつ大きく離れてしまいます。

AI 日本人と朝鮮人のDNAは、約1万5千年前から約3千年前にかけて、縄文人と弥生人が混血したことで分岐したとされています。

 

このAIの回答の弥生人とは、いったいどんな民族なのだろうか不明である。

 

核DNA分析

福岡県安徳台遺跡(弥生中期)の、朱に覆われた甕棺に埋葬された弥生人女性は、骨格などから典型的な弥生渡来人と思われていた。
ところが核DNA分析では、渡来系遺伝子の他に 縄文人の遺伝子を持っていることが明らかにな った。

篠田謙一氏は、
『一般的に、渡来系の人ということになれば 朝鮮半島であるとか中国であるとか そういう人たちと同じ遺伝子を持っているんだろうと考えていたので、
典型的な渡来人というのが、実はかなり縄文と混血している という話になりますので、かなり意外な結果になりました』 と驚いていた。http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm

 

調べれば調べるほど、違う回答、変な回答、違う年代が表れてきて、だんだんわからなくなってきた。

今回転載した「百済遺跡で1600年前の日本人居住痕跡を発見」という記事を見れば、二つの見方がある。

1.日本から倭人が百済にやって来た

2.最初から倭人は朝鮮半島にいた

私は2を選ぶ。

 

[独自]韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住痕跡を発見

https://japan.hani.co.kr/arti/culture/49367.html
登録:2024-03-07 17:06 修正:2024-03-08 06:29
漢城百済時代のソウル地域に古代日本人が居住していた可能性

百済窯遺跡の廃棄物層から日本製の埴輪の破片が出土した際の様子=大韓文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社
 1500年余り前に日本からソウルに移ってきた技術者をはじめ、倭の移住民が工房などの生産活動に従事していた事実が明らかになった。最近、彼らが暮らしながら墓に使う葬儀用品として使ったと推定される日本特産の土器が相次いで確認されたためだ。

 大韓文化財研究院は6日、今日のソウルである漢城に百済王朝が都を置いた漢城百済時代(西暦18年~西暦475年)の官営土器窯関連遺跡(京畿道城南市福井洞(ソンナムシ・ポクジョンドン))から、古代日本の権力層の大型墓を飾った土器装飾遺物の「埴輪(はにわ)」を初めて発見したと明らかにした。大韓文化財研究院は地中の文化遺産を発掘・調査する機関だ。

 埴輪は5世紀前半の古代日本の典型的な装飾型土器で、主に円筒形のものと動植物形の象形造形物、家などの住宅造形物などに分けられる。今回発掘されたのは円筒形で外壁に穴を開けた5世紀の造形物だ。

城南市福井洞の百済土器窯関連遺跡の廃棄物層から出た5世紀の日本の古墳装飾品「埴輪」の破片。突出した帯を付けて巻いてあったり、表面に一定間隔で線を引いた特有の仕上げ跡が明確にみられる典型的な埴輪円筒形土器の破片であることが判明した=大韓文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社

日本の古墳装飾品である埴輪の破片の一部を間近で見た様子。外壁の表面に突出した帯を囲み、一定間隔で細い線を引いた仕上げの跡がはっきりと見える=大韓文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社

日本の職人たちが作った埴輪が出土した城南市福井洞にある霊長山の麓の百済土器窯遺跡。当時、百済王室が運営していた官営工房施設の一部と推定される。埴輪はこの遺跡の廃棄物層から他の百済土器と混在する状態で発見された=大韓文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社
 この遺跡は、福井洞393番地の霊長山の麓一帯7798平方メートルの面積で確認された。百済時代に国が運営したとみられる土器窯と廃棄場施設が散在しているが、百済王城跡として有力な風納土城(プンナプトソン)、夢村土城(モンチョントソン)からわずか4~5キロメートルの距離なので、王室が管掌して物品を調達する国営工房施設の一部と推定されてきた場所だ。関心が集中した埴輪の破片は、2022年に遺跡の廃棄物層から黒煉瓦、軒丸瓦、平瓦、内拍子など数百点と共に発掘された。突出した帯を付けて巻いてあったり、外壁の表面に一定間隔で線を引いた日本特有の仕上げ跡(日本の考古学用語で刷毛目)がはっきりとみられる埴輪円形土器の破片であることが判明した。

 大きさが15~20センチの埴輪の破片は、一部分に円形の穴が開いた円筒形で、一部の破片は帯が上下に巻かれたり、このような帯の跡が残ったままだった。破片の下側である低部は、古墳の墳丘の地層につく部位なので、別途の手入れはせずに、上の方だけを手入れした低部も見える。独特の引っ掻き模様の跡も発見された破片のほとんどで観察される。

 大韓文化財研究院のイ・ヨンチョル院長は、「倭の職人たちが日本から移住して百済の官窯や工房に入り、百済の職人たちと一緒に作業した痕跡と思われる」とし「墓の装飾物である埴輪の実体が、韓国の首都圏の百済施設跡で明確に確認されたのは初めて」と話した。2000年代初めに百済王城跡であることが有力な風納土城を発掘し、手のひらより小さい残片大の埴輪の破片が三点ほど出たことはあるが、大きさが小さく出土の状況が明確ではないため、大きな注目を集めることはできなかった。

 韓日古代史を研究してきた歴史考古学界の一部の専門家たちは驚きを隠せずにいる。紀元前18年から475年まで存続した百済王朝の最初の都で、現在のソウル松坡区(ソンパグ)、江東区(カンドング)や京畿道城南市一帯にあたる旧漢城地域で、1600年前に外交官や職人をはじめとする倭人たちが居住して活動したことを示す明確な根拠が出たと評価されるためだ。

日本の古墳装飾品である埴輪の破片の一部を間近で見た様子。外壁表面に突出した帯の跡と一定間隔で細い線を引いた仕上げ手入れの跡がはっきりと見える=大韓文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社

日本の古墳時代の長鼓型の墓(前方後円墳)である神戸五色塚古墳。墳丘の頂上と下側の部分に円筒形の装飾土器(埴輪)を並べて復元された姿が見える=神戸市公式観光サイト//ハンギョレ新聞社
 特に埴輪は4~6世紀の日本の古墳時代の権力者、実力者の大型墓(長鼓型墓で日本では前方後円墳と呼ばれる)に欠かせない墳丘の重要装飾部材だったという点で、1600年~1500年前に古代日本の移住民が百済のソウルの都に暮らし、特有の墓を建てて飾った可能性が提起されている。まだ断定はできないが、この埴輪の破片の発見で、百済の首都である漢城一帯に倭の職人や外交官らが移住した居住民村があったという推論も可能になったという分析が出ている。

 これまで韓日両国の学界は、古代朝鮮半島で日本と直接交流した有力な対象地として全羅道栄山江(ヨンサンガン)一帯を挙げてきた。この30年間、この地域で倭系移住民のものとみられる前方後円墳が多く確認され、円筒形の他に馬や人などを形象化した埴輪も相当数出土している。しかし今回の埴輪の発見で、首都圏一帯にも埴輪を墳丘の装飾物として使った倭人の墓が存在したという推論が可能になった。

 百済の中央政府があった首都圏一帯の工房で、栄山江流域の倭系遺物より時期が早い5世紀前半の埴輪が出たことで、百済の中央政府と古代日本の間の密接な直接交流が先に進み、続いて百済の領域である栄山江流域と倭との交流が続いた可能性を示しているからだ。研究院側は来月に正式報告書を出版する予定であり、遺物の性格をめぐって学界の議論が熱くなるとみられる。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/1131241.html
韓国語原文入力:2024-03-07 13:32
訳J.S

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