長崎カッパ伝説 河童は百済の難民

長崎 本河内 水神神社

長崎県長崎市に本河内という水源地近くの場所があり、そこに水神神社という神社がある。

この神社は、もともと最初は市内にあったのだが、町の開発で移動させられ今の場所にある。

ここにカッパ伝説がある。

まあ、水の神様を祀っているので、カッパ伝説があるのは珍しくないと思うのだが、引っかかることがあってこの一文を書く。

カッパ伝説は全国にあり、それぞれ特色があり面白い。

しかしカッパ伝説は九州がダントツに多いらしい。

九州はカッパ伝説の宝庫

国際日本文化研究センター(京都市)の「怪異・妖怪伝承データベース」による、民俗学の文献でカッパに言及している事例の数をみると、全1048件のうち九州・沖縄地域は337件。ブロック別で最多だ。福岡市博物館の松村利規主任学芸主事いわく「九州には特にカッパが多い」。まさに「九州はカッパ王国」(九州観光推進機構)であるともいえる。

これは、色んな意味で興味深い。

さらに熊本がナンバーワンだそうだ。

「9000匹のカッパの頭『九千坊』が手下を連れて中国から熊本県の八代地方に渡ってきたという伝説があります」。「カッパ伝説の町」として地域おこしを進める団体「九千坊本山田主丸河童族」の菰田馨蔵事務局長はこう話す。このカッパが戦国~江戸期の領主・加藤清正の怒りを買い、熊本を追放されて田主丸に住みついたのが、当地の伝説の由来という。
https://style.nikkei.com/article/DGXLASJC28H61_R11C14A2000000/

久留米九千坊 https://camp-fire.jp/projects/view/286998

熊本県はカッパ渡来の地という。八代(やつしろ)市には碑まであるが、江戸時代の説話集によれば、中国は黄河のカッパ一族が海を渡って来たのだという

球磨川(くまがわ)にすみ着いたカッパは数を増やし、九千坊(くせんぼう)と呼ばれる頭領に率いられた。だが、そのいたずらで住民は大いに困り、領主の加藤清正(かとうきよまさ)は九州全土のサルに命じカッパを攻めさせた。カッパは降参し、この地を立ち退いたとの話だ

清正は現実の歴史では、優れた土木技術で球磨川などこの地の河川の治水に大きな功績を残したことで知られる。水神(すいじん)の化身といわれるカッパと清正の説話には、水に苦しめられた領民の清正への感謝の念が込められていそうである
https://mainichi.jp/articles/20200705/ddm/001/070/070000c

この話も意味深長である。

河伯は冰夷または憑夷(ひょうい)という人間の男であり、冰夷が黄河で溺死したとき、天帝から河伯に命じられたという。道教では、冰夷が河辺で仙薬を飲んで仙人となったのが河伯だという。

その中国の黄河のカッパ一族が海を渡って来たのだという。

河伯

河童と河伯(かはく)

これは、古代に雨乞い儀礼の一環として、道教呪術儀礼が大和朝廷に伝来し、在地の川神信仰と習合したものと考えられ、日本の6世紀末から7世紀にかけての遺跡からも河伯に奉げられたとみられる牛の頭骨が出土している。この為、研究者の中には、西日本の河童の起源を6世紀頃に求める者もいる。ウィキペディア

河童が中国大陸が発祥なら大いに頷ける。

そして、この話は今回の話と通じるものがある。

水神神社の河童の話

長崎の河童の話には栗隈王(くりくまおう)が登場する。

これが長崎ならではらしい。

栗隈王(くりくまのおおきみ)は、敏達天皇の孫(曾孫か)、難波皇子の子(孫か)、美努王の父で橘諸兄の祖父にあたる。橘氏の祖である。ウィキペディア

敏達天皇

確かに、古代天皇の親戚が出てくるのは珍しいだろう。

河童を服従させる河童族を統率した栗隈王(くりくまおう)の末裔が社家の渋江家とある。河童たちも渋江家には逆らわなかったとある。

もっと詳しい話を掲載する。

当時、中島川は清流で、付近の人々は川の水を飲料水にも利用していた。 しかし、時代がくだり人家が多くなるにつれて汚物を川に流したり捨てたりしたため、川が汚れてきた。
清流でしか住めない河童は生活ができなくなり、たびたび付近の人々に悪戯(いたずら)をするようになった。
そこで、水神神社の2代目神官渋江公姿(しぶえきんなり)氏が、5月の吉日を選んで河童を神社に招き一晩中いろいろと御馳走し、もてなすことにした。神官渋江氏の家は、むかし、河童族を統率していた栗隈王(くりくまおう)の家柄であった。 だから河童たちも渋江氏には一目おき、敬服していた。
それで、その晩には多くの河童たちが集まってきて、神官を囲んで朝がたまで賑やかに宴が続いた。しかし、拝殿が締めきってあるので、河童たちの異様な声や皿の音のみ聞こえ、その様子を誰も見ることはできなかった。
おもしろいことには、料理の献立に必ず「竹の子の輪切り」が出された。その時、神官にはやわらかい本物の竹の子を盛り、河童たちには老い竹の輪切りを盛ってあったので、平気でうまそうに食べている神官を見て、「人間というものは、何と歯が強いのだろう」と驚き、ますます敬服した。
以来、河童たちは人間に悪戯する ことも少なくなり、神官とも親しくなった。神社のお祭りの供物が必要なとき、または、客人があって御馳走をしたい時には、その前日、「河童の献立」と書いた紙に必要な品名を書いて、神官が、「どんく石」の上にのせておくと、翌朝には要求したとおりの新群な野菜や魚などが河童たちの手によってのせられていたとのことである。それ以後、「どんく石」は、人々によって「河童石」と呼ばれるようになった。

水神神社 かっぱ石

まあ、よくある昔ばなしの類いである。

長文だがポイントは2つ。

1.神官渋江氏の家は、むかし、河童族を統率していた栗隈王の家柄。

2.竹の子の輪切りのごちそう。

2の話だが、調べてみると、福岡県久留米市瀬下町の水天宮 「九千坊」の話に、青竹の輪切りをご馳走に出し、感服させた話が伝わっている。

全く同じなので、おそらく「九千坊」の話が、そのまま長崎にたどり着いたのだろう。

食用のタケノコは孟宗竹が主で、この竹は中国原産なので辻褄も合う。

ただ、1の栗隈王の名前が出てくる話は長崎独特のようで、栗隈王の末裔が社家の渋江家なので河童たちも渋江家には逆らわなかったとある。

引っかかったのはここである。

栗隈王

栗隈王は、敏達天皇の孫(曾孫か)、難波皇子の子(孫か)、美努王の父で橘諸兄の祖父にあたる。橘氏の祖である。

筑紫率(筑紫大宰)として唐と新羅の使者を送迎し、672年の壬申の乱では外国への備えを理由に中立を保った。

当時の日本は白村江の戦いで敗れてから朝鮮半島への進出を断念していたが、半島では新羅と唐が戦い続けていた。

百済・高句麗は滅ぼされたが、唐は新羅支配下にある百済の復興運動を、新羅は唐支配下にある高句麗の復興運動を後押しし、各国とも日本に使者を派遣して親を通じようとした。それゆえ筑紫帥の役割は軍事・外交ともに重要であった。ウィキペディア

なるほど、栗隈王は重要なポジションだったのである。

ここで百済の難民が多数九州にやって来た話が有る。

これは事実だが、どれだけの人がやってきたかは不明である。

さて長崎だが、百済移民の記録はない。

だが、隣の県の佐賀の稲佐(いなさ)神社には、「天神、女神、五十猛命をまつり、百済の聖明王とその子、阿佐太子を合祀す」という記録がある。

佐賀 稲佐神社

さらに、「肥前国正六位稲佐神に従五位下を授けられる(三代実録)、肥前古跡記によれば稲佐神の祭神は百済国聖明太子、空海人唐の折、稲佐山に上って怪異あり寺を創して海蔵庵と号す」とある。

私はこの神社に行ったが、古くて立派な神社であった。

しかし、これは佐賀の話で長崎ではない。

だが、長崎の港の近くには、稲佐(いなさ)という地域があり、夜景で有名な稲佐山が有る。

肥前長崎稲佐山 歌川広重

長崎の稲佐という地名の由来は不明だが、佐賀の稲佐神社と関わりがあると推測している。

なぜなら、佐賀の稲佐神社は内陸の山の上である。

長崎は朝鮮半島に近く、百済の難民が日本にやってくるには、まず長崎に上陸し、佐賀の稲佐神社に行くのが現実的な旅程だ。

「いなさ」とは南東の風のことを言う。

百済から見れば長崎はだいたい南東である。

これらの事を考えれば、百済の難民が長崎にも来たと言ってもいいと思う。

その当時の長崎の記録はない。

ほとんど埋め立てもなく、海が入り込んだ地形である。また山ばかりで、幾筋もの川があり、その川筋に、百済一族が住んでいても不思議ではない。

長崎は古代より中国大陸との交易もあり、今とは違う形で栄えていた。

まあ百済人が河童というのは失礼に当たりそうだが、文化の違う人達である。

妖怪扱いした古代の長崎人の気持ちもわからないではない。

長崎の昔話には河童文字も登場する。

昔、五島町の乙名(おとな・町役人)の家の台所で、女中さんが夕食の用意をしていると、河童がやってきては、すきを見て料理中の魚を取ったり尻をつついたり、なでたりするので、とうとう怒った女中さんが、その河童の手を包丁で切り落としてしまった。すると、夜毎裏口から河童がしょんぽりとした姿で手を返してくれと訴えた。そこで、乙名は、「今後、決して悪戯はしません」という詫証文を書かせて、手を返してやった。

右端のが、河童文字

だが、その文字が河童文字でよく読めず、水神神社に持ってきて神官に読んでもらい、そのまま奉納したということである。このことは、文政年間に書かれた、「長崎名勝図絵」にも記されている。

この話は江戸時代である。

しかし文字が書けるという事が伝承された可能性が有る。

さらに、従順で統率が取れているように見える。

ただの妖怪たちではなかったのである。

最後に、栗隈王の家系が、長崎の水神社の神官とつながっているかという話が残る。

栗隈王と渋江家

長崎の神官と言われる渋江家はどうだろう。

渋江家の祖は、遡ること古墳時代、第30代敏達(びだつ)天皇と言われています。その5代目の孫が、天皇から苗字を賜り、「橘(たちばな)」家として始まりました。

橘紋

橘家の島田丸は768(神護景雲2)年に奈良春日神社造営の勅命を受けました。大役が果たせるように水神に祈願したところ、無事に神社が完成したので、以後は水神を祭って「天地元水神」と呼び、橘家の氏神にしました。

橘家は時代の流れの中で奈良から伊予(愛媛)へ、そして肥前(佐賀)へ移り住みました。肥前では潮見山(武雄市)に住みましたが、ここには今も潮見神社や橘という地名が残っています。
渋江家の系譜 https://www.city.kikuchi.lg.jp/kankou/q/aview/164/1142.html

栗隈王は、敏達天皇の孫である。

ここでつながった。

長崎の水神神社に渋江家の祖先が実際いたかは確認できないが、佐賀の百済王が祭神の稲佐神社と、同じく佐賀の水神を祀る橘家。

やっぱり長崎のカッパ伝説は、百済の難民一族だったのである。

あー、すっきりした。

長崎市立銭座小学校には清水 崑氏のカッパ壁画がある

 

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