行き詰まった俺は、もう一度はじめから考えることにした。
タイムカメラを持って、稲佐の外人墓地へ出向いた。何となく現場百回なんて言葉を思い出したのだ。
稲佐の外人墓地の入り口には、池がある。
そしてその池には10メートルほどの橋が架かっている。その橋を渡ると墓地になる。
俺が小さい頃の池はとても汚かったが、今はきれいになっていて蓮の花が植えられている。
中国風の作りである。蓮池の橋の手前が現世で、橋を渡ると幽界なのだ。
墓地は斜面にあり、細い階段の道が左右を隔てている。
右手が中国系の墓地だと思われる。左手の上の方にロシア人墓地があり、現在は整備されていて、先のとがった鉄の格子があり鍵がかけられている。
殺人事件騒ぎも一段落したとみられ、いつもの静けさを取り戻している。
縦長の箱のようなC330を構え、手持ちで撮影を開始した。
慎重にシャッターチャンスを探る。
たしかカメラの中のワームチューブは俺のシャッターチャンスとシンクロするので過去が写ると言った。
風が目の前を駆け抜けた。その時神経が逆立った。シャッターを押した。確かに時間を駆け戻った、ような気がした。
港の見えるスタジオ。
俺は現像し終えたフィルムをスキャンし終えた。そこに画像データがある。
ダブルクリックするとフォトショップが立ち上がり、画像が開く。
俺は全部見終わると感嘆の声をあげた。
「そうだったのか」
稲佐国際墓地の正面の写真だ。墓地入り口の前に石の台があった。大きな台だ。唐人墓地祭場所石壇(市指定史跡)と説明板にかいてあった。
そこを入れての撮影した写真だ。
写真の時代はわからないが、きれいに作られている。
説明板の解説では「一六五九年に長崎在住の唐人らによって造られた。死者の霊を慰めるためのもの。春秋には祭祀法要が営まれていた」と書かれていた。
それが写っていると言うことは、一六五九年以降と言うことだ。
写真には大勢の中国人やちょんまげを結った日本人も参加しての法要と思われる様子が写っていた。
そして今より少し大きい蓮池に、細長い船が二艘浮かべられていた。
ペーロン船である。長崎人なら誰でも知っている競走用ボートだ。
なるほどと思った。長崎の龍と言えば、確かにある。
それはペーロンだ。
長崎のペーロンは、海神をまつる中国伝来のボートレースだ。
ペーロンは「白龍」の中国音のパイロンがなまったものといわれている。
長崎で初めてペーロンが行われたのは一六五五年(明暦元年)頃で、 当時、暴風雨のため唐船が難破し、多くの犠牲者を出したことから、長崎在住の唐人達が海神の怒りを鎮めるためと自国の遊技を長崎人に誇示するために、端舟(はしけ)で競漕したことがはじまりといわれている。
「唐人墓地祭場所石壇」は一六五九年事件があった四年後に完成している。
唐人の出したペーロン船(竜船)が、デンデラリュウである。
ペーロンは、その後長崎にしっかりと根付いた。
ペーロン競漕に熱中する余り、各種の喧嘩沙汰を引き起したため、長崎奉行は、たびたびペーロン競争禁止令を出した。
陸(おか)ペーロンの話が残っている。。
海のペーロンを真似て、陸上で各町の子ども達が組をつくり、他町の者たちと走り競争をした。
負けた組は、町内で用意したハタを奪られてしまう。すなわちハタ取りを競うのである。
長崎民謡「ぶらぶら節」に(大井手町の橋の上で子供のハタ喧嘩)と唄われているのは、この陸ペーロンの時のハタ喧嘩の光景であるといわれている。写真に写っているペーロン船の頭には、確かに龍の頭が付いていた。
「唐人墓地祭場所石壇」がつくられ春秋には祭祀法要が営まれていたとある。
これはある意味、唐人さんたちのお祭りであろう。
わざわざ石壇をつくって、さまざまなお供えを並べ、飲み食いしたと思われる。
そして唐人の海難事故の慰霊祭を行い、ペーロン船を蓮池に浮かべていたと思われる。
これがでんでらりゅうだったんだ。
でんでらとは、蓮台の事だったのだ。
蓮台とはれんだいと読み、仏様が座る蓮の花の台座の事を言う。これがなまってでんでらという。
映画「デンデラ」の事であり、遠野物語のデンデラ野の事でもある。いわゆる墓場の事だ。
稲佐外人墓地の蓮池は蓮台の意味を持つ。
そこに浮かべられた中国製の龍の頭を持つペーロン船。それが「でんでらりゅう」だったのだ。
「唐人さんの墓においてある竜船」
これが「でんでらりゅう」だったのだ。
ペーロンとは競争である。さらに唐人さんたちの船はきっと早かったのだろう。喧嘩沙汰の絶えないペーロンである。各グループの小競り合いも十分考えられる。
この歌詞をを誰かが作った。「でんでらりゅう」という言葉をつかった。隠語である。
曲が先にあったのか、歌詞が先にあったのかわからないが、調子のいいリズムと、
韻を踏んだ言葉が面白く、みんなの耳に残った。
でんでらりゅうがでてくるばってんでんでられんけん でーてこんけんこんけられんけん こられられんけんこーんこん
(意味)
唐人さんの唐人墓地においてあるペーロン船(竜船)がある。
これがペーロン競争に出場する予定なのだが長崎奉行の禁止令のため、出場できなくなった。(ざまーみろ)
長崎の秋祭り「長崎くんちは」一六三四年にスタート。
ペーロン競漕が行われたのは、一六五五年稲佐外人墓地の「唐人墓地祭場所石壇」は一六五九年に完成。
一八〇一年長崎奉行はペーロン禁止令を出す。長崎奉行は一八六四年の幕末まで続く。
ペーロン競争が長崎でスタートして、禁止令が出るまで一五〇年ほどある。
いかにペーロンが長崎で親しまれていたかであろう。
ペーロンというのは地域対抗で行われる。
主に若者がこぎ手である。当然応援歌みたいな歌が生まれている。
勝手に歌を作って仲間内で歌うのだ。
「瀬戸にゃ瀬もない かかりもないが あの娘みたさに潮間がかりする」
「瀬戸ば取るかよ 松島ばとるか 同じ取るなら瀬戸ば取る」(大瀬戸町)
「沖のナァ瀬の瀬の 瀬に済むアワビャさー海女が取らなきゃ 瀬にサ 海女が取らなきゃ 瀬に住もうじゃトサ」(崎戸町平島)
「長崎県大百科事典、長崎新聞社発行」より
ちなみに、勝った時のはやし唄が「(相手チーム)の、いがどん(ガキたち)
のジゴ(尻)見れば、膏薬べったりアンポンタン」と叫んで、海水を相手にぶっかけてました(笑)
郷里の話・2~ペーロン(白龍)祭りのホームページから抜粋
当然その様子も歌われている。
「長崎ぶらぶら節」
大井出町の橋の上で 子供のはた喧嘩世話町が五、六町ばかりも 二、三日ぶうらぶら ぶらりぶらりと いうたもんだいちうはた喧嘩というのが子供の陸(おか)ペーロンの喧嘩の事だ。
ペーロン狂想曲と言ってもいいだろう。
長崎ぶらぶら節は今でもよく歌われる歌で、花街の粋な唄の一つである。
宴会で歌われる歌は、歌詞がよくわからないのも多い。
でんでらりゅうの音階が明清楽から来てるかもといわれ、その代表曲九連環から様々なアレンジが施されている。
その一つ唐人踊「かんかんのう」の歌詞は「かんかんのう きうれんす きゅうはきゅうれんす」と言うもので元歌の中国語を当てはめ、さらに日本風に崩すといったもので訳がわからなくなっている。
これに比べると、でんでらりゅうは分かり易い歌詞かもしれない。
霊界や墓場を意味するでんでらは、柳田国男の遠野物語のでんでら野が有名で、長崎の方言では聞いた事がないのだが、東北の人が長崎にいても何の不思議ではない。
言語学者もやはり熊本と東北は似ているという説を聞いた事もある。
俺の結論として、でんでらりゅうは、ペーロン船だと言う事だ。
第1章 港の見えるスタジオ-1
第2章 女子カメラ-2
第3章 二眼レフ-3
第4章 タイムカメラ-4
第5章 ワームホール-5
第6章 アイドル殺人事件-6
第7章 推理-7
第8章 転びバテレン-8
第9章 デンデラリュウの謎-9
第10章 ペーロン船-10
第11章 ラシャメン-完結