「日ユ同祖論」から見えてくるもの2 謎の秦氏
「日ユ同祖論」のなかで常に語られる、日本にやってきた秦氏(はたうじ)の事は日本史の中でも重要である。
秦氏(はたうじ)は、「秦」を氏の名とする氏族。東漢氏などと並び有力な渡来系氏族である。
(広隆寺は秦氏の氏寺)
『日本書紀』において、応神14年(283年)、天皇に仕えた弓月君を祖とし、百済より百二十県の人を率いて帰化したと記されている。 「百二十県」とは1万8000人ほどだと有る。
日ユ同祖論では、この秦氏(はたうじ)がユダヤ人だったといわれている。
たしかに、秦氏(はたうじ)自体不明なところが多いのは事実である。
記録では、朝鮮半島の百済の弓月君(新羅が故郷という説もある)は、ゆづきのきみと呼ばれ、『新撰姓氏録』では融通王ともいい、秦の帝室の後裔とされる。
伝説上の人物であり、実在は不明とある。
つまり弓月と融通は同じ読み方をしていて「ユウズ」という読みを漢字に当てたとある。 http://ikuno.lolipop.jp/piramido/pa-hyogo/hy03-01.htm
弓月というも字に引きづられて、優雅な名前と思っていたが、漢字は当てただけなら、融通王=弓月君は理解できる。
それにしても半島からやってきた人は大人数である。
日本にやってこようと思ったのは、朝鮮半島の百済の国が新羅に責め立てられ日本に逃げたかったのだ。(他説あり)
日本書紀によると百済には、古代朝鮮半島南部の伽耶の一部を含む任那にあった倭国の出先統治機関「任那日本府」があった。 (韓国の学界では概して倭の出先統治機関であるという見解には否定的)
ということは、弓月君が日本へ連れて行った百二十県の人は、もともと日本人じゃないかなという推理が成り立つ。
今でいう帰国子女みたいな存在だったのかも知れない。
中国大陸の進んだ文化を身につけたエリート集団ならば、その後日本の力になったのは当然である。
記録では応神14年(283年)に日本に来たと書かれているが、実際には不明である。
秦氏は日本へ渡ると初め豊前国に入り拠点とし、その後は中央政権へ進出していったとある。
豊前国近辺は筑紫の君という勢力があった。
継体天皇22年(528年?)磐井の乱をおこした筑紫王国である。
この時代熊本には火の君もいた。 秦氏の始まりが「弓月君」なら、「筑紫の君」の祖先なんだろうか。
「君」は特に中国や朝鮮の王朝で見られた皇族・王族または功臣の称号のこと。
と有るので豊前国は秦氏の国だったんだろう。
「日ユ同祖論」では弓月の君がユダヤの民の王だという。
それ以外にも秦氏は、もともとは、景教徒の拠点であった中央アジアの弓月国に住んでいた。彼らはユダヤ人と同様に養蚕や絹織物技術にすぐれていたとされる。
弓月国には、ヤマトゥという地や、ハン・テングリ山という山があった(「テングリ」はキルギス等の中央アジアの言葉で「神」という意味とされる)。
秦氏は、中国での万里の長城建設の労役を逃れるため、西暦(紀元後)360年頃から数回にわたって日本に渡来した。
景教とは、キリスト教だが主流派からネストリウス派は異端とされている。聖母マリアを認めないからだ。
(イスラエルの国旗)
中央アジアに弓月国があったとしても、そこの住人がユダヤの民だという確証は何もないし、弓月という漢字繋がりだけだと思える。
さらに景教とユダヤ教だが、おおもとは同じだがまったく同じではない。
そして中国に景教が伝わったのが7世紀ごろである。
弓月君一派に、ユダヤを祖先に持つ人もいたことは比定できないが、10支族の1支族が丸ごと世代を超えて存在していたというのはあり得ない。
古代イスラエルの「失われた10支族」は、ソロモン王の死後、紀元前722年過ぎにおきている。
年代だけでいうと1000年もちがう。
この数字は許容できない長さである。
しかし「日ユ同祖論」者はこれでもへこたれない。
「信じるか信じないかはあなた次第です」の世界なのでしょうがない。
秦氏のことでもう一つ論点になっているのが、
京都太秦である。 太秦かいて「うずまさ」と読ませる理由も諸説あるが、秦氏の本拠地と思えばなんとなく納得がいく。
京都最古の寺である広隆寺、蛇塚古墳などの前方後円墳が良く知られている。広隆寺は秦氏の氏寺であり、国宝[1]の木造弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)を安置した京都最古の寺である。
秦氏の秦河勝が聖徳太子に仕えて活躍したという記録も残っている。
秦氏が本当はどんな一族だったのかで、日本の歴史は大きく変っていくだろう。
この話は、各学者の人が真剣に研究しているので、その説を待つことにする。
ただ、秦氏が帰化人(渡来)というのが一般の説なのだが、 わたしは帰国子女的一族か、もともと日本の技術者集団が朝鮮半島に渡っていたと考えている。
一般論とは逆なのだ。
韓国では、紀元前2333年に檀君朝鮮ができてといわれていて、検定教科書(中学校は歴史、高校は韓国史)の中に歴史的事実として記述されている。
しかし、檀君朝鮮が存在したという物的証拠が何一つ発見されていないため史実的な根拠は極めて薄弱である。
中国においては楽浪郡設置後は、もっぱら楽浪郡を指して「朝鮮」と呼んでいた。
つまり朝鮮民族が、自らを朝鮮とよんだのは高麗(918年から)以降という。
朝鮮半島は、中国大陸の進んだ文化の通過点になり、様々な民族が覇権争いをしていた地域だと考えている。
倭国も当然その中の一族だったのだ。
倭人系朝鮮半島在住族と言ってもいいと思う。
前方後円墳が朝鮮から発見されたり、土器に共通点があるのはその証拠でもあり、朝鮮半島の情勢が悪化して、弥生時代に大量に本国へ移動していったことも理屈に合う。
秦氏(はたうじ)がユダヤ人と考えるより無理がないと思う。
「日ユ同祖論」から見えてくるもの チベット民族
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「日ユ同祖論」から見えてくるもの3
歴史って面白いなと思いながらよく読ませていただいております。
筆者さんの考える倭と日本の関係をもっと聞いてみたく思います。
倭と日本の統治者間には血縁関係などは考えられないのでしょうか。
筑紫の君磐井は最終的に豊前の国上膳の県に逃れたと「筑後国風土記」には書かれているみたいですが、なぜ後に、あるいは当時も、大和日本と深く結びつく秦氏がいたと思われる*土地へ逃げ込んだのでしょうか。秦氏と倭と大和日本の関係性というのはどうなっていたと考えられるでしょうか。(*秦氏は日本へ渡ると初め豊前国に入り;豊前の現存最古の戸籍)
あと、君が代の歌詞についてとか、天智と天武の関係についてとかお考えを聞いてみたく思います。
コメントありがとうございます。大きい問題ばかりですね。正直言いまして先達の本を読み漁るばかりで、確固たる意見がないのが現状です。今後の課題にさせていただきます。