比叡山への旅(2) 三柱鳥居の木嶋蚕の社
後輩の住んでいる場所は奈良の大和小泉市だ。天王寺から大和路線という路線で行ったのだが、大和小泉の手前が法隆寺という駅だった。
今回の旅は電車での移動だったのだが、京都、奈良、大阪の電車の駅名が、古代のにおいがしていて、それだけで、古代の大和に紛れ込んだようである。
後輩と合流し、再会の宴をやり話し込んだが、長崎のアパート代や駐車場代が高いという話をする。
後輩のアパートは2Kで3万円台、駐車場は5000円以下だという。奈良の相場はよく分からないが、長崎はけっして安くない町だという。ずっと長崎に住んでいるので、そのあたりの感覚は疎い。
三つ柱鳥居
夜が明けて、今日は比叡山に行くのだが、その前にどうしても行きたい神社があった。
それが、木嶋蚕の社(きじまかいこのやしろ)である。
正式名称は木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)という。
場所は京都の右京区太秦森ヶ東町にある。
奈良からこの場所に行くには何本か電車を乗り継ぐ必要があった。電車の乗り換えが思ったより大変で、予定より30分ほどかかる。
なぜ行きたかったかというと三柱鳥居があるからだ。
この神社はかなり古いとされ、一説に、推古天皇12年(604年)に広隆寺創建に伴い勧請されたともいわれる。史料からは大宝元年(701年)の記事以前の祭祀の存在が認められている。ウィキペディア
そして、秦氏ゆかりの神社である。
秦氏(はたし)
この氏族は有力な渡来系氏族である。
神功皇后、応神天皇の時代に秦氏一族(数千人から1万人規模)が当国に帰化したとの記録が残っていて、天皇家に協力して朝廷の設立に関わったとされている。
この秦氏がどこから来たのかは決定打はないが百済から来たと言われ、秦の始皇帝三世直系の弓月君は秦氏の中心的人物であり、和邇吉師(王仁)によって論語と千字文が伝わったという。
百済からやってきて、豊前国(大分県)を拠点として、大和政権と深くかかわり、各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えたという。
ネットでは秦氏はユダヤ人だという話が、あちこちに散乱している。
この日ユ同祖論は日本人(縄文人)の祖先が2700年前にアッシリア人に追放されたイスラエルの失われた十支族の一つとする説である。
話自体は面白く、私自身も若い頃ハマったのだが、現在は否定している側にいる。
秦氏は八幡神社や稲荷神社等を創祀
この事は大きい。八幡神社と稲荷神社は日本中どこでもある。なぜ渡来系の氏神が日本の神道の大きい部分を占めることになったのかは諸説がある。
それ以外にも、秦氏は日本の文化に深くかかわっている事は歴史上の事実でもある。
そんな秦氏の神社に、なぜ三つ柱鳥居があるのかは、現在も謎とされている。
この三柱鳥居が現存している場所は少ない。
記録に残っているものではいくつかあるが、長崎県には2か所あったという。
一つは諏訪神社で、その摂社である「蛭子社(ひるこしゃ)」前にかつて三柱鳥居があったが、今は現存しないとある。
そして、この前旅をした対馬の和多都美(わだつみ)神社である。
秦氏が百済から来て大分県に住み着いたというが、その前に対馬にいた可能性がある。
それは三柱鳥居の存在である。
対馬の独特の天道信仰は秦氏の影響が強いのかもしれない。
まず、秦(はた)という名前だが、この苗字は様々に変化しているといい、本来はハダ(波陀)だったという。
これから、波田、羽田、和田等の苗字が生まれたとされ、和多都美(わだつみ)神社もそうなのかもしれない。
和多都美(わだつみ)は海神と書き、海の神の事である。また秦は旗にも通じ、八幡神の語源ともいわれている。
まあ、謎を書けばきりがなが、三柱鳥居が日本の古代史に大きく関係していると、私は思っている。
さらに、神道のシンボルである鳥居の原形ではないかと推測しているのだ。
なので、どうしても京都太秦の木島坐天照御魂神社に行ってみたかったのである。
蚕ノ社駅(かいこのやしろえき)
この駅は京福電気鉄道嵐山本線の駅で、何本かの電車を乗り継ぎ到着した。
地図を見ながら歩き、一の鳥居を見つける。
大きい鳥居である。そして少し歩くと小ぶりの木々に囲まれた神社を見つける。
境内は人がいなく、ゆっくりと写真を撮りながら拝殿に進む。この拝殿は柱のみである。
珍しい。
拝殿が、がらんどうな神社は最近見たことがある。対馬の木坂海神神社(かいじんじんじゃ)である。
神社名である木嶋と木坂が似ているのが気になった。
その拝殿から左手の小道の奥に、小さな稲荷社が3ケある。
神社の神殿に行く手前に、石段があり、少し下りると、その右手奥の柵の中に三柱鳥居があった。
立っている場所は元糺の池というのだが、今は水がない。
元糺(もとただし)という名称が不思議だ。いったい何をもとに糺すというのだろうか。
やっと見ることができた小ぶりな石造りの三柱鳥居だが感動した。
境内にある三つの稲荷と三柱鳥居、何か意味があるのだろう。
本殿は古いがしっかりとしている。
西陳縮縮緬仲間と書かれている石碑を見つける。最初の一文字は「ちぢみ」、続く2文字は「縮緬(ちりめん)」「文化十四(1817年)-五月」これは建立された年だ。西陳がわからないが、西陣のことだろう。
この神社の別名が、蚕ノ社(かいこのやしろ)である。養蚕の起源は中国大陸にあり、中国では養蚕技術の国外への持ち出しは固く禁じられていた。
しかし養蚕はすでに、日本へは弥生時代に伝わったとされているが、やはり秦氏が持ってきた蚕の技術は、のちの日本の主要産業になっていく。
何故秦氏は日本にやって来たのかも謎である。
木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)と名前は読みにくいが、天照神社である。
アマテラスではなく、アマテルなのだ。
これもまた、対馬のアマテル神社と名前が同じである。
この神社は対馬とかならずリンクしている。
そう確信して、神社を後にした。
さて、次は旅行のラスト、比叡山である。
どう行けばいいのか、アイフォンを取り出し、グーグル検索を始めた。
比叡山への旅(1) 仁徳天皇陵
https://artworks-inter.net/ebook/?p=5411
比叡山への旅(2) 三柱鳥居の木嶋蚕の社
https://artworks-inter.net/ebook/?p=5435
比叡山への旅(3) 比叡山延暦寺
https://artworks-inter.net/ebook/?p=5466