金比羅山 謎の天孫降臨伝説を追え(6)
金比羅山の天孫降臨伝説について、明確な文字の資料が無いので、どんなに調べても推測、想像の域を出ないだろう。今後長崎県の古代史の資料が出てくる事を期待したい。
金比羅山神宮寺が栄えていたという記録がある。
この金比羅山の東南麓の一帯、西山町の一部から諏訪神社、諏訪公園、立山町にかけての広大な寺域をもったのが神宮寺である。
弘仁十年(八一九)嵯峨天皇の勅願により一寺創立されたもので支院三十余坊を有し深江浦を寺領としていた。
神宮寺(じんぐうじ)とは、日本で神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂をいう。
つまり無凡山(金比羅山)には神殿があり、神仏習合思想によりお寺が建てられたのである。
無凡山という名称は、万治3年(1660)木庵禅師という僧が名づけた。
「あまりの景色の美しさ」とその理由が書いてあるが、前の章に書いているとおり、もっと深い意味があると思われる。
それならば、神宮寺が栄えている時代はなんと呼ばれたのだろうか。
何度も書いたように、金比羅山には瓊杵山(にぎやま)、祟嶽(たかだけ)という別名がある。
祟嶽(たかだけ)の名称は誰が名付けたのだろうか。
神宮寺は嵯峨天皇の勅願によって作られたのである。 土蜘蛛の巣窟であった長崎に、天皇がわざわざ勅願があったという事が、意味深い。
嵯峨天皇(弟) 平城天皇(兄) 藤原薬子
嵯峨天皇は平城天皇の次に天皇になっている。
ここまでは当たり前なのだが、平城天皇は引退後、もう一度天皇になろうとした。
史書にある「薬子の変」だ。 歴史的に有名な話なので、ここでの話は割愛する。
結局、このクーデターは失敗に終わる。平城上皇(嵯峨天皇の父)は平城京に戻って剃髮して出家し、薬子は毒を仰いで自殺した。
これにより、高岳親王(たかおかしんのう・平城天皇の第三皇子)は皇太子の地位を廃止される。
その後、出家し「真如」と名乗り、奈良の宗叡・修円、また空海(弘法大師)の弟子として修行して、弘法大師の十大弟子の1人となっている。
金比羅山の神宮寺は嵯峨天皇の勅願によって作られた寺である。
なので祟嶽(たかだけ)という名称は、平城天皇の子供「高岳親王」からとったんじゃないかと推測される。
ちなみに空海は、この薬子の変では嵯峨天皇側の勝利を祈念しており、日本仏教界一の実力者になる契機となったという経緯がある。さらに高岳親王は弟子である。
金比羅山の別名、祟嶽(たかだけ)は、弘法大師の十大弟子の1人である「高岳親王」の高岳から取ったのではないかと推測できる。
文字が違うのは、直接名前を使うのは失礼なので、祟という文字を使ったのだろう。
嵯峨天皇と空海伝説が、金比羅山に絡んでいる。