金比羅山 謎の天孫降臨伝説を追え(5)

長崎は埋め立てで作られている。それも、長崎が開港された1500年代からである。開港当時、長崎は寒村だと書いているが、当たり前である。埋め立てていない長崎はほとんど平地が無かったのだ。  

長崎が開港以前に記録に残っている事を探す。

まずは肥前風土記だ。

肥前風土記は奈良時代初期に書かれている。

神功皇后、景行天皇の話と土蜘蛛の話が満載である。  当然正確な年齢は出ないが、2世紀3世紀のころの話だろうと推測される。

長崎にも数多くの神功皇后伝説が残っている。

神ノ島、高鉾島、女神、「鎮懐石」は山王神社、「神楽(かぐら)島」、甑(こしき)岩、飯香(いか)の浦、茂木と盛りだくさんである。

そして、これらの地域は僕が作った円の中に存在している。

(黄色い丸は神功皇后伝説が有る地域)

金比羅 伝説

古代の長崎には、風土記で土ぐもと呼ばれた人々が、確かにいたという事の実証である。

古来より長崎、島原は中国大陸、朝鮮半島と盛んに行き来している。

地理的に見れば当たり前である。当然、中国大陸、朝鮮半島の人間も大勢住んでいただろう。

僕が昔書いた「稲佐の謎」にもその事は書いている。

http://freephoto.artworks-inter.net/book/novel/inasa/index.html

「稲佐」は新長埼年表(長埼文献社)によれば 貞観三年(861)この記録として「肥前国正六位稲佐神に従五位下を授けられる(三代実録)「肥前古跡記によれば稲佐神の祭神は百済国聖明太子、空海人唐の折、稲佐山に上って怪異あり寺を創して海蔵庵と号す」とあり、中略 宮方についた武士の中に稲佐治都夫輔の名がみえる(大平記・鎮西志・治乱記)。

聖明王 百済の第26代の王

聖明王 百済の第26代の王

 

稲佐山の麓には稲佐氏という武将がいたという。

金比羅山の川向の稲佐山には、804年に海蔵庵が出来、祭神に百済国聖明太子を祀っていたという事である。

 

この事実が正確ならば、無凡山に百済の琳聖太子を祀ったとしても不思議ではない。

稲佐山の北側に岩屋山がある。

この山は和銅年中(七〇八-七一四)行基菩薩の開基とある。

後年、弘法大師がここで護摩の法を修してより寺門大いに栄え、支院三十六。

その盛名は崇嶽の神宮寺と並び称され、表裏をなして共に西国有数の巨刹(大きい寺)であったという。  

 

どうだろうか。

長崎市内にある金比羅山にある神社の立て札に書かれている天孫降臨伝説。

古事記や日本書紀に書かれている天孫降臨ではないと仮定して、長崎の古い時代を調べてきた。 

長崎の山々には、古代の歴史の断片が残っているのがわかった。

百済国聖明太子、琳聖太子という名前が出ているという事は、長崎は中国大陸と朝鮮半島と関係していることがわかってきた。

 

ここから、天孫降臨という大和の伝説がどこで絡んでくるのか。

これから調べる事にする。

金比羅山 謎の天孫降臨伝説を追え(6)

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