長崎と熊本 肥の国の話

長崎島原、熊本間のフェリーで考えたこと。「肥の国」の本当の意味は「干潟の国」。火、干、肥は同じ乙類なので、漢字が日本に根付くまでは、同じ意味があったのかもしれません。火、干、肥に共通するもの。それが九州の謎を解き明かしてくれそうに思えてきました。

 

ムービーの内容

長崎と熊本 肥の国の話

長崎と島原

長崎県の島原から有明海を見ると、熊本の山がよく見えます。

船で有明海を渡ると、長崎 と熊本がとても近いという事が実感できます。

昔は熊本、佐賀、長崎は肥の国という一つの国でした。

今は肥前、肥後と別れてますが、「肥の国」が前後に別れたのは600年代の大化の改新と言われています。

日本全国でも、別れた地域は多く、例を挙げれば

豊国(とよのくに)は現在の福岡県東部および大分県全域に相当し、律令制の時代には「豊前国 ぶぜん」と「豊後国 ぶんご」に分かれました。

備国は現在の岡山県と広島県に相当し、7世紀後半に「備前国 びぜん」と「備中国 びちゅう」に分かれました。

越国は692年までには都の藤原京に近い順に越前国、越中国、越後国の3国に分割されています。

国が分割された理由は、地域の特性や、その地に住んでいた豪族との力関係があったと言われています。

熊本の場合、豪族の名前が「火の君」といいます。

なので、肥の国の「肥」の字の前は「火」だったともいわれています。

しかし、ほかの推論があります。

国産み神話の中で九州は筑紫島(つくしのしま)とされていて、筑紫島は胴体が1つで、顔が4つあると書かれています。

この事で、長崎の雲仙では四面宮という信仰が広がっています。

四面宮 諫早神社

古代の地域名は、

白日別(しらひわけ) - 筑紫国
豊日別(とよひわけ) - 豊国
建日向日豊久士比泥別( 、タケヒムカヒトヨクジヒネワケ) - 肥国
建日別(たけひわけ) - 熊曽国

となっています。

まあ、九州をざっくり分けた言い方ですが、肥国だけが建日向日豊久士比泥別と極端に長い名前になっているんですね。

この言い方の意味をaiに尋ねてみると

「建」は勇猛の意
「日向日」は「日向ひ」で太陽に向かう
「豊」は豊か
「久士比」は「奇し霊」
「泥」は親愛の意の接尾語
これらを組み合わせて、「建日向日豊久士比泥別」は「勇ましく太陽に向かい豊かに霊異あるもの」と解釈されます。これは、勇猛で、太陽に向かい、太陽の光が豊かで霊妙な力のある男神を象徴しています。

 

ただし、aiは最後にこの文章を付け加える。

これらの解釈は、古代日本語の文献や神話、神名の研究に基づいています。しかし、古代日本語の解釈は必ずしも一意ではなく、研究者によって異なる見解が存在することもあります。したがって、これらの解釈は一つの可能性を示すものであり、絶対的な真実を表すものではないことをご理解くだ さい。

 

つまり、一説だという事です。

AIはとても便利なのですが、日本の古代史に関してあまり知識がないようで、間違った回答をよく出してきます。

おそらくAIは肥の国をよく知らないのでしょう。

九州人なら、豊久士比泥別が「肥沃な干潟の泥で分けられている国」と解釈するとおもいます。

これは、あの有明海の干潟の事で、有明海は長崎、佐賀、熊本県に面しています。

なので「肥の国」の本当の意味は「干潟の国」なのです。

 

AIの回答

干潟は古代人にとって非常に重要な存在でした。干潟は多様な生物が生息する場所であり、特に貝類は食料源として利用されていました。
(中略)貝塚の貝がほとんど干潟で捕獲されたものであり、初期は多種類の貝を捕獲していたが後期はカキを集中的に捕獲しており、交易的価値が高いものを選択的に捕獲したことが示唆されています。

 

ただ、「干の国」の干は干しあがるという意味があり、それを良い意味の漢字の「肥」に置き換えたと推測します。

熊本地域だけは、不知火という自然現象が有名で、なおかつ巨大な阿蘇という活火山があり、強力な火の君一族が存在していたので、「火の国」という名称になったのだとも言われています。

長崎と熊本は様々な時代で交流が深いんです。

地図で見ると、長崎県と熊本県は大きな有明海で隔たれていますが、実際フェリーに乗って島原、熊本間を移動すると、すごく近いことが実感できるのです。
 
肥前肥後の前後の意味は都に近いほうを前としていたといいます。

しかし現在の長崎、佐賀県と熊本県を比べると、熊本のほうが近いので、熊本が肥前となってもいいと思うのですが、

AIの回答では

具体的に、「肥前」と「肥後」については、都と地方を結ぶ重要な街道(かいどう)にそって、都に近い方が「前」、遠い方が「後」とされたことにあります。しかし、都が京にあるのなら、近いのは熊本です。という事は、肥後と呼ばれた地域は、今よりもっと鹿児島寄りだったか、小さかったという事になります。

 

なるほど。

古代に正確な日本の地図があったわけでもないので、熊本のほうが都より遠いと判断されていたのかもしれないと思われます。

長  崎島 原から熊本までの一時間ほどの船旅で、多くの疑問が湧いてきました

なぜ古代の九州の名前に日という字がすべて付いているのか
   白日別・豊日別・建日向日豊久士比泥別・建日別

卑弥呼は日巫女ではなかったのか

瓊瓊杵尊の子供の名前に火照命(ホデリノミコト)になぜヒという字が入っているのか

神武天皇がいた日向国ヒムカとはどこなんだろうか

なぜ倭国は日本という名称になったのか

有明海は、なぜ日と月がある海と呼ばれたのか

火の君は、なぜ大和側に味方したのか
 
多くの「ヒ」が、何の脈絡もなく浮かんできます  

古代の言葉の研究の上代特殊仮名遣いにおいて、「ヒ」は二種類に区別されていました。

甲類と呼ばれている日と、乙類である火、干、肥は同じ読み方ではなかったようです。

しかし、火、干、肥は同じ乙類なので、漢字が日本に根付くまでは、同じ意味があったのかもしれません。

火、干、肥に共通するもの。それが九州の謎を解き明かしてくれそうに思えてきました。

そんな妄想をしている内に熊本についてしまいました

 

そんな妄想をしている内に熊本についてしまいました

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