謎の浦上街道 赤迫は赤い血の谷
長崎の電車の終点の一つに赤迫という地名があります。
まず手始めに、赤迫という地名の由来を調べようと思い インターネットで探し回りましたが、現在の赤迫関連ばかりで 肝心の赤迫にたどり着けません。
それでは、「迫」の意味を調べました。
さこ【谷・迫】 (関西・九州地方などで) 谷の行きづまり、
または谷。せこ。 そのような地形・場所を、「TANI」(厳密に言えば、谷と迫の地形・状態は違うんでしょうが)のほか、 「SAKO」「SEKO」「SAKU」と呼んでいた。
その日本語(両脇から山が迫ってきてるような所を表す)に該当する漢字として「迫」の字を当てた。 まず、言葉として「さこ」があり、「迫」を当てた。
とありますので 地形から来ている名称だと思われます。
次に「赤」ですが 色の赤のほか、明るい、暗いの意味があります。
これに関連して、強調語としても使われ、「赤の他人」 「まっかな嘘」などのように、明らかにそうである事の時に使われています。
ということは 「赤迫」というのは、とても狭い谷のような場所という意味だったのでしょう。
これを実証しようと思い、地図を探したら まず、写真が見つかりました。
浦上街道
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/univj/target.php?id=3843
大正か幕末か不明ですが、のどかな風景で、昔の浦上街道のイメージがわいてきます。
幕末・明治期 日本古写真メタデータ・データベース
時津街道は浦上街道とも呼ばれていたようです。
長崎県立歴史博物館 長崎市立博物館蔵 伊能諸図
地図で大体昔の長崎の地形がわかります。
更に、「伊能忠敬測量による長崎県内の主な街道・時津街道」の地図を見つけました。
右の岩に六地蔵と釈迦阿弥陀観音を彫刻している。
枝岩屋、家数三十五軒。左に岩屋大権現一ノ華表前。
八町斗(873mばかり)引き込んだ岩屋岳の麓に本社がある。
平宗川は巾六間(11m)。
枝平宗の百姓茂一郎(高谷正蔵.別名茂一郎)宅で小休止。
百合畑(百合野)。
時津村字内坂(打坂)。
この地図を見るといろんなことがわかります。
今のチトセピア付近は、大村領であったこと 浦上北村と呼ばれていた事
家ノ郷、中通 の地名があり、現在の家野町、中園と思われる事など。
現在の地名からその意味を知る事の落とし穴を感じました。
この地図では赤迫という明記はなかったのですが、 「右の岩に六地蔵と釈迦阿弥陀観音を彫刻している。」という文章があることから 右手が岩だった事がわかります。
さらに、現在の赤迫から六地蔵あたりは、勾配の強い坂になっていますので 右手が岩肌である事から、ぐっと急勾配になり、切り立った岩肌が迫る 地形だったのでしょう。
迫より、もっと強調した「赤迫」であったと思われます。
ここで、証明が終わったと思ったら、もう一つの可能性が見えてきました。
「浦上自動車学校の下付近に、屠殺場」 という、文章に出会ったからです。
屠殺場があったという事は、とても深い意味があると思われます。
昔、赤迫の上のほうに屠殺場があったという事は 昔もあったと思われます。
その根拠は「六地蔵」です。
「六地蔵」ですが、下記の意味があります。
衆生がその業によっておもむく六種の世界、六道。
その六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)の、 それぞれに現れて、衆生の苦しみを救う六体の地蔵菩薩。
街道筋や墓地入口等に六体並べて安置される石仏が多い。
とあります。
さらに釈迦阿弥陀観音を彫刻しているとあります。
なぜ、この場所に「六地蔵」があるのでしょうか。
街道筋だから、というのも間違っていないと思いますが 墓地入口だったからという可能性が高いと感じます。
屠殺場で処分を受けた、動物たちの血が 赤迫付近の浦上川に流れ込んでいたに違いありません。
photo 中国では屠殺場から流れる血や内臓で川が赤くなっているところがあります。
その情景が、赤迫つまり「赤い血の谷」と呼ばれたゆえんだと 結論付けました。
「赤い血の谷」だったからこそ、動物たちの供養として 「六地蔵」や釈迦阿弥陀観音を彫刻したのでしょう。
これが、僕の結論です。
さらに、「屠殺場」は部落問題が潜在的にありますし 浦上はキリシタンの地でもあるんです。
キリシタンの宣教師たちは肉食の慣習がありますし、 肉食をする事がキリシタンの証であったという話も残っています。
また、赤迫付近には、キリシタン弾圧時に立てられた住吉神社があり 先の岩屋大権現、滑石大神宮があります。
また、三重の樫山は長崎在住のキリシタンの聖地として崇められた地で、 当時、三度岩屋山に登って樫山の方を拝めば一度樫山に参詣したことになり、 三度樫山にお参りすれば、一度ローマにお参りしたことになるといわれる “樫山詣で”がさかんに行なわれていたという。
とあります。
(子育て地蔵尊 は、隠れキリシタンのマリア観音のようにも見える)
この地に、「六地蔵」があるのは、 もっと深い意味が隠されているような気がします。
これはまた、後ほど調べてみようと思います。
長崎県のと畜場の歴史
https://www.pref.nagasaki.jp/bunrui/anzen-anshin/shokunoanzen-anshin/oniku/rekishi-oniku/23409.html
ここを見ると赤迫付近にと殺場ができたのはそう昔の事ではなさそうなので、
「赤土の土壌」=赤迫という説が無難だと思われます。
コメントありがとうございます。 ご指摘の通り、赤迫の名前の由来に赤土というのはどこかの解説に載っていました。その可能性も有るかもしれません。
ただ、赤迫という地名が「西浦上村の最北部の赤迫名」からきていて、一般的でなかったことが、それ以外の可能性を探るスタートとなった次第です。
また、あのあたりが赤土だったという文献を探してもなかなか見つかっていません。今後も調べ続けたいと思います。
幼少から赤迫地区に住んでいて興味深い記事でした。(28歳です)
六地蔵は通学のための最寄りの駅でした。
私の小さい頃から六地蔵付近は処刑場があったから、それを弔うためのお地蔵さんなんだよーとの噂がありました。
そして、近くの道路もまっすぐの道路なのに事故が多いとかの噂もありました。
噂ではなく、私も地蔵の本当の由来が知りたくて記事がとても面白かったです!
何か新しいことが分かったら教えてください!(^^)
コメント有難うございます。江戸時代の伊能忠敬の記録にも六地蔵という名称が出てきます。六地蔵は、人は死後に,地獄,畜生,餓鬼,修羅,人,天という六道に輪廻し、それを助ける為に檀陀,宝印,宝珠,持地,除蓋障,日光という名前のお地蔵さんを配置したという言い伝えです。
近所には岩屋神社の第一鳥居も有り、このあたりは生と死をわける境界だったのではないかと思っています。岩屋神社は弘法大師もお祈りをしたといわれる、長崎で一番古い神社でもあります。六地蔵もそんな古い時代からあったのではないかと思っています。新しい情報は現在まだ発見できていませんが、赤迫という地はとても重要な場所だと思っています。
赤迫=死が迫るでは?福岡在中の者です。23年前から仕事で六地蔵前を通る時に???と感じる場所でした。先日会社の同僚が六地蔵前で居眠り運転者に追突された事により、忘れていたのを思い出しました。恐らくここは処刑場…谷の上から多くの人が突き落とされたイメージです。この辺りは大村藩領で多くの切支丹がいたのでは?罪のない女子供までもが処刑された気がします。その後は様々な人智を越える怪奇現象が起こる。近代化後もおさまらず多くの者が不運な事故で亡くなってますね。昔は踏切もあったはず。この400年間強に数多くの人が怨霊に引き込まれ亡くなったのでは?その強い怨霊を静める役目が六地蔵の様な気がします。付近にはキリスト教の施設もありますよね?関連があります。随分と時間が経ち怨霊の力もすこぶる弱ってますが、弱い人は住むのを避けた方が良いですね。土地の不幸を隠していた事を暴露され…住民が知ると怒るでしょうが、私の単なる感であり妄想です。
コメントありがとうございます。私は霊的な現象を否定しません。大昔から日本人は不安や怖れから宗教を信じ、現代でも引き継がれてきています。まあ現代の科学では解明できない事ばかりなのですが、その不安や怖れの正体がいつかわかる日が来るだろうと思っています。