東北王国(2) 蝦(ガマ)の夷(エビス)
東北、北海道地域を蝦夷と言っていたという。
漢和辞典で調べてみると、蝦という字は、音読みでカ・ガで、意味はえび(海老)や蝦蟇(ガマ)である。
夷という字は音読みでイで、訓読みでは、えびす・えみし・たいらか・たいらげる・ころすとある。
蝦夷の意味は、えびす。(ア)未開の異民族。「夷狄(イテキ)」「東夷」 ②たいらか。おだやか。 ③たいらげる。平定する。「夷滅」④ころす。ほろぼす。⑤うずくまる。⑥おごる。おごりたかぶる。とある。
この漢字を二つ合わせても、エミシやエゾとは読まない。
この蝦夷(えぞ)とは何だろうか。
蝦夷
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称である。
近世以降は、北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指す。 ウィキペディア
蝦夷=アイヌ、は近世からだ。
古代の読み方は、エミシ、エビスが主である。
愛瀰詩 えみし
エミシ(愛瀰詩)の初見は神武東征記であり、神武天皇によって滅ぼされた畿内の先住勢力とされている。
つまり、最初は東北ではなく畿内の先住勢力だったのである。
愛瀰詩という字が妙に美しい。
瀰はむつかしい字で、音読みでビ、訓読みで、はびこる・ひろいと読む。
一見すれば、愛すべき人々が沢山いて、歌を詠む人々なんて言うイメージか。
この美しい表記が「蝦夷」という怪しい表記に変わったのが、日本書紀の景行天皇条だ。
景行天皇は第12代天皇で日本武尊(ヤマトタケル)の父になっている。
この天皇の話は、九州に親征して熊襲・土蜘蛛を征伐したり、東国の蝦夷平定をしたりしていたと記されている。
在位した時期は不確定だが、4世紀前期から中期とされている。
つまり、大和朝廷の初期段階だ。日本の国をすべて平らげて、大和の礎を作ったとされている。
この物語は、古事記、日本書紀に書かれているが、この書物は漢字で書かれているので、当然中国王朝の影響を強く受けているはずである。
という事は、蝦夷という字は中国の影響を受けて書かれたという事になる。
だが、中国では蝦夷という字を使っていない。毛人だ。
エミシ(愛瀰詩)たちの存在が文献的最古の例は毛人で、5世紀の倭王武の上表文に「東に毛人を征すること五十五国。西に衆夷を服せしむこと六十六国」とある。
『上宮聖徳法王帝説』では蘇我豊浦毛人と書かれている。また、中国の地理書『山海経』に出てくる毛民国を意識して、中華の辺境を表すように字を選んだという説もある。
中華思想はご存じの通り、自分たち以外の地域の民族を卑しめて呼ぶ習わしがあり、それを大和が真似て、日本平定記を書き綴ったという事だろう。
ただ、東北地方の人々を蝦夷ではなく毛人と書いていることに注目したい。
神武東征
神武東征で最後の決戦を行ったのは長髄彦である。
長髄彦は神武天皇の兄を殺し、そして神武と戦うという役どころで、敵役としては最大級の人物だ。
古田武彦氏の「真実の東北王朝」では、長髄彦の兄とされる安日彦(あびひこ)も重要だと書いている。
安日彦(あびひこ)は、鎌倉から室町期成立の『曽我物語』に蝦夷の祖を流罪にされた鬼王安日とする伝承が記載されている。
曽我物語は物語で、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件を題材にしたものだ。
この話は吾妻鏡(鎌倉時代に成立した日本の歴史書)に記載されていることから、全くの作り話でもないとされている。
となれば、蝦夷の祖は、長髄彦の兄である安日彦(あびひこ)だという事になる。
さらに神武に敗北した長髄彦には、「長髄彦(またはその兄、または兄弟2人)が津軽に逃げてきた」という伝承が残っている。
つまり、エミシ(愛瀰詩)の長髄彦兄弟は、神武との戦いののち、津軽に生き延びて、蝦夷(えみし)になったという訳である。
ここに、東北王国の可能性が出てくるのだ。
邇芸速日命(ニギハヤヒ)
長髄彦は、天神の子ニギハヤヒの家来である。
ニギハヤヒは天照大神から十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。
ちょっと待って下さい!
つまり、瓊瓊杵尊の天孫降臨より先に地上に降りてきた、先輩なのである。
そして、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されている。
さらにニギハヤヒは、天照大神から十種の神宝(十種神宝、とくさのかんだから)をも持っているのだ。
この天孫同士が争って、最後にはニギハヤヒが神武に国を譲ることで決着する。
神話の事とはいえ、ドラマチックな展開である。
この事により、出雲の国譲りと大きくかかわってくるとされているのだ。
日本書紀の記述では、
神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。
もしそうならば、長髄彦と神武が戦う理由がないはずである。
一般的には、瓊瓊杵尊の天孫降臨とは別系統の神話が既に存在していたと理解されている。
もう一つの神話とは出雲神話である。
ニニギとニギハヤヒ、名前も似ているし、ヤマトと出雲、どちらかが神話をパクったすれば、すべて筋が通る。
そうなれば、先に近畿にいたニギハヤヒの神話のほうに分があると思う。
東日流外三郡誌
この事件があったからこそ、東日流外三郡誌の話は信ぴょう性があるのだ。
東日流外三郡誌の概要をウィキペディアからまとめてみた。
1.前7世紀の日本各地には津止三毛族とか奈津三毛族とか15~16の民族が割拠していた。
2.そのうち畿内大和(現在の奈良県)にいて安日彦と長髄彦の兄弟が治めて平和に暮らしていたのが耶馬台国で、日向(現代の宮崎県)にいたのが「日向族」(神武天皇の一族)であった。
3.九州にいた卑弥呼は耶馬台国の中の邪馬壱国であり、大和とは関係ない。
4.宮崎の日向族に神武天皇の一族がいて東進する。
5.大和での日向族と耶馬台国との戦いは熾烈を極め、安日彦は片目を射られ、武渟川別は片腕斬断、長髄彦は片脚を失う激戦の末、遠く津軽に落ち延びた。
だいぶ略したが、東日流外三郡誌の長髄彦関係の概略である。
かなり衝撃的なストーリーだが、その後もすごい。
ナガスネヒコを含む4人の王が、「日乃本国」をつくり、その後奈良に舞い戻り第8代の孝元天皇・第9代の開化天皇となったという。
うーん。
衝撃的な東日流外三郡誌の話は後回しにしよう。
ここでは、蝦夷の事を調べたいからである。
えみし
東北、北海道地域に豪族がいたのは間違いない。
5世紀の中国の歴史書『宋書』倭国伝に、「昔より祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」
ここに毛人の存在が明記されているからである。
エミシ、エビス、エゾ
この複数の名称に、蝦夷という漢字をすべて当てているので、どんどん複雑になってきてしまう。
色々調べてみると、やはり違うグループのようだ。
近畿の大和地方にいて、神武より先に王国を作っていたのが「エミシ」である。
「エミシ、エビス」は記紀によれば、天孫族であり、大和朝廷とは違う王国の人々だった。
これ以外にも、出雲、熊襲、隼人、土蜘蛛など日本中に、いろんなグループが存在していたのは間違いないだろう。
そしてエゾは中世以後のアイヌを指す言葉だった。
それらに、同じ漢字の蝦夷を当てている。
なぜなら蝦夷は関東以北の地域に住む人々を総称していってきたからだ。
だから、わかりにくいのである。
日本列島の人々
だが、これらのグループの大元は縄文人だった。
それは現代科学のDNAが証明している。
日本系グループ(倭人)は、中国南部や朝鮮半島にも広がりを持っている。
その中の縄文人は日本に定住していたグループである。
朝鮮半島はBC10000年~BC5000年の間無人の地であることが分かっているので、当然倭人が住み着いている。
弥生時代は、その中国南部の倭人や朝鮮半島の倭人たちが、大陸の争いや、北方民族が朝鮮半島に南下してきたため、押し戻されるように九州などに舞い戻ってきた。
その事により、中国南部の倭人の渡来により稲作文化が芽生え、九州に弥生文化がスタートとしていったのである。
ここまでは異論はないと思える。
そのころ東日本列島には、いろんなグループがすでに出来上がっていた。
その中の大きなくくりが「えみし」達である。
日高見国
景行天皇条の記述には注目すべき箇所がある。
「蝦夷」表記の初出は、日本書紀の景行天皇条である。そこでは、武内宿禰が北陸及び東方諸国を視察して、
「東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」
と述べており、5世紀頃とされる景行期には、蝦夷が現在の東北地方だけではなく関東地方を含む広く東方にいたこと、蝦夷は「身を文けて」つまり、邪馬台国の人々と同じく、入れ墨(文身)をしていたことが分かっている。 ウィキペディア
日高見国はどう読むのだろうか。
文字通り読めば「ひたかみ」国だろう。
この国についていろんな研究者が説を出している。
津田左右吉「実際の地名とは関係ない空想の地で、日の出る方向によった連想からきたもの」
旧国名の「常陸」(ヒタチ)は、「日高見道」(ヒタカミミチ)の転訛ともいわれる。
金田一京助「北上川という名前は「日高見」(ヒタカミ)に由来する」
等である。
そして、一番納得いくのは
高橋富雄(日本史学者。東北大学名誉教授)は、この「日高見」とは「日の本」のことであり、古代の東北地方にあった日高見国(つまり日本という国)が大和の国に併合され、「日本」という国号が奪われたもの、としている。
この説である。
この説に従うと、あの「日本中央」の碑の謎が解けるのだ。
そういえば、東日流外三郡誌の東日流だが、これで津軽と読む。
東日流という読み方は日本書紀にも書かれて、ここにも「東に日」という字が入っている。
やはり、関東、東北地方は「日ノ本」だったのである。
神武東征記の「エミシ(愛瀰詩)」と日本書紀の景行天皇条の「蝦夷」は全く同じだろう。
ただ、「蝦夷」という字をなぜ使ったのかと言えば、「夷」が東の異民族「東夷」を指す字で、中華思想を日本中心にあてはめたものだということである。
つまり、中国が使った文字を使ったのである。
「夷」単独なら「古事記」などにも普通にあるが、その場合、古訓で「ひな」と読む。
現代でも「ひな(田舎の意)には稀な」なんていう使い方をする。
「夷」という字は、えびす神の事も言い、決して悪意のある文字ではない。
そこに「蝦」虫偏のエビやカエルといった意味の文字をくっつけて、「蝦夷」エミシと書いたのである。
ここまではいい。
そして一番不明なのは「蝦夷」と書いてエゾと呼んだことだ。
現在、中世以後の蝦夷(えぞ)は、アイヌを指すとの意見が主流である。
「エゾ」の語源についてはアイヌ語で人を意味する「エンチュ (enchu, enchiu)」が東北方言式の発音により「Ezo」となったとする説がある。小泉保『縄文語の発見』
これだろう。
東北、北海道ではアイヌが主流になったので、エミシ(愛瀰詩)からエゾに変わったと思われる。
だが、「蝦」という文字をなぜ夷の前につけたのかという疑問が残った。
アイヌ人はモンゴル人など中国東北部の民族からは「骨嵬(クギ、クイ)」と呼ばれたという事から、蝦(音読みでカ)、夷(音読みでイ)で、カイ。
つまり、外国から「骨嵬(クギ、クイ)」と呼ばれていたので、それをなぞらえて「カイ」という音読みの蝦夷を当てたとする説がある。
うーん。少し無理があると思う。
また、ウィキペディアにもその事が載っていて、あごひげが長いのをエビに見たてて付けたのだとする説があった。
また、エビが赤いので赤ら顔のエミシをそう呼んだともあった。
これは納得いかない。
「蝦」という字が、エビやガマを現すので、わざと気持ち悪そうな名前を付けたというのなら、エビは昔から日本人の好物で、気持ち悪いとは思えない。
となれば、「蝦」の意味はガマのほうだろう。
なぜ、東北の人たちをガマのエビスと呼んだのだろうか。
遮光器土偶は「蝦(ガマ)」
遮光器土偶は主に東北地方から出土し、縄文時代晩期のものが多い。
一方で遮光器土偶を模倣した土偶は、北海道南部から関東・中部地方、更に近畿地方まで広がりがある。その特徴は上述の遮光器のような目に加え、大きな臀部、乳房、太ももと女性をかたどっていることである。また、胴部には紋様が施され、朱などで着色された痕跡があるものが多い。ウィキペディア
私は「遮光器土偶はカエルの精霊」という文を4年前に書いている。
縄文の心-2 遮光器土偶はカエルの精霊
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1492
東北地方のガマと言えば遮光器土偶だと思う。
この土偶は、亀ヶ岡遺跡だけで見つかっているわけじゃない。東日本の各地で見つかっているのである。
東日流外三郡誌では、この遮光器土偶を、民族の名としてのアラハバキ(荒脛巾神の祠がある神社は全国に見られる)のイメージキャラクターとしている。
近畿のヤマト人は、この遮光器土偶が東北で沢山出土しているのを知っていたのだろう。
そして、私と同じように「カエル、ガマ」に見える遮光器土偶を東北のエミシ達を「蝦(ガマ)」の夷(エビス)と名付けたのだろうと思う。
エミシとアイヌ
アイヌはいつから北海道にいたかと言えば、おおよそ17世紀から19世紀において、北海道(蝦夷ヶ島)、サハリン(樺太)、千島列島に及ぶ広い範囲をアイヌモシリ(人間の住む大地)として先住していたという事が現在の定説である。
とすれば新しいグループと言っていいだろう。
それ以前は、東北はエミシ(愛瀰詩)の国だったのだ。
アイヌ文化は、前代の擦文文化を継承しつつオホーツク文化(担い手はシベリア大陸系民族の一つであるニヴフといわれる)と融合し、本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。
ただ、アイヌはれっきとした縄文系であり、古代はエミシ(愛瀰詩)のもっと北側に住んでいたと思われる。
オホーツク文化
5世紀になると、それまで北海道に住んでいた人びとの文化とは大きく異なる文化をもった人びとが、サハリン(樺太)から北海道のオホーツク海沿岸にやってきた。
それらの人々が混血をしてアイヌという個性的なグループが誕生したのではないだろうか。
つまり、同じ縄文人だが、東日本全体がエミシ(愛瀰詩)の国で、北海道はアイヌの国だったのだ。
エミシ(愛瀰詩)は大和朝廷と結びつき、その後を追ってアイヌも南下していった。
愛奴
アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉だったという。
同じ縄文人なのに、大和とかかわりを持ったエミシ(愛瀰詩)と、北の国と交わっていったアイヌといった理解が普通だと思った。
大元は三内丸山遺跡のように一つだったのかもしれない。
なので二つのグループは、はっきり線引きはできないだろう。
アイヌという文字だが、アイヌは漢字で書けば愛奴と書ける。
アイヌの社会では、本来は「アイヌ」という言葉は、行いの良い愛すべき人にだけ使われたという。
アイヌという字を変換すると愛奴と僕のパソコンでは出てくる。
僕が使っている文字変換のシステムに、さまざまな分野の文字が出てくるように、辞書を沢山いれたからである。
愛奴か・・。
単なる文字合わせのようだが、愛瀰詩と愛奴はやはりつながっていると思う。
同じ愛という字を持っているからである。
https://artworks-inter.net/ebook/?p=5263
https://artworks-inter.net/ebook/?p=5297
https://artworks-inter.net/ebook/?p=5311
https://artworks-inter.net/ebook/?p=5337
https://artworks-inter.net/ebook/?p=5347
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