東北王国(5)  日本の裏の歴史 アベ一族

東北に王国らしきものを追い求めているのだが、アイヌが一つの塊となったのが鎌倉以降だったことと、渡来系とわかったので除外する。
 
そうするとアイヌ以前の東北、北海道はどうだったのか。
 
もし国らしきものがあるとすれば、それを支える経済力が必要になる。
 
そこで注目したいのが、青森県津軽の水田の存在である。
 

古代東北の水田

今までの学者の人たちの見解は、東北地方北部における弥生時代の水田稲作は否定的だった。
 
しかし、垂柳遺跡(たれやなぎいせき)、砂沢遺跡(すなざわ)という遺跡がある。
 

垂柳遺跡 たれやなぎいせき 文化遺産オンライン

 
この水田跡は弥生時代前期と言われている。
 
垂柳遺跡は青森県南津軽郡、砂沢遺跡は青森県弘前市三和で、三内丸山遺跡の近くである。
 
東北で稲作をはじめとする弥生文化が受容されていた可能性が濃くなった。
 
岩手県では、奥州市江刺の反町遺跡で水田跡18枚が見つかった。畔で区画され、ため池と用水路など、かんがい技術を伴った水田跡であった。稲作が困難と思われた北東北三県だが、弥生時代前期、既に水田耕作の技術体系がまるごと普及していたことが分かったのである。
東北の基層文化を探る①
http://www.forest-akita.jp/data/kiso-bunka/kisobunka01/kiso-01.html

弥生時代前期の反町(そりまち)遺跡・水田跡(岩手県奥州市江刺)

こんな話はどの教科書にも載っていない。
 
またこれに対する、明快な説明が載っているHPも見つけることができなかった。

水田=渡来人=弥生時代は事実なのか

これまで学んだ歴史では、水田耕作が広まり、農業時代が到来して、日本の王権基盤が確立したとされている。
 
そして、水田耕作の担い手は渡来人であるとされている。
 
この考えは正しいのだろうか。

渡来人が日本にやってくる理由がない

弥生時代の始まりが、2003年、国立歴史民俗博物館(歴博)の研究グループにより、早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃からという見解を示した。
 
一気に600年ほども繰り上がったのだ。
 
これがどんな意味を持つかというと、渡来人という人たちの考え方である。
 
 
「弥生時代が始まるころの東アジア情勢について、従来は戦国時代のことと想定してきたけれども、殷(商)の滅亡、西周の成立のころのことであったと、認識を根本的に改めなければならなくなる。春成秀爾(国立歴史民俗博物館研究部教授)
 
従来説では、中国の戦国時代の混乱によって大陸や朝鮮半島から日本に渡ってきた人たちが水稲農耕をもたらした、とされてきた。
 
 
中国の戦国時代というのは、春秋時代の事を言い、周が東西に分裂した紀元前770年から、現在の山西省一帯を占めていた大国「晋」が三国に分裂した紀元前5世紀までの、およそ320年に渡る期間を指す。ウィキペディア
しかし、弥生時代が大幅に繰り上がると、渡来人が日本に来る理由が大きく変わってくるのだ。
 
新しい弥生時代の時期は、中国の殷(いん)という王朝の終末である。殷は、紀元前11世紀に周によって滅ぼされる。
 
つまり中国の新しい王朝の始まりの時期が、弥生時代の初期だったのである。
 
こうなると、大量の渡来人が日本に危険を冒してやってくる理由がなくなるのだ。
 
また、こんな論文もある。
 
「水田中心史観批判」の功罪
国立歴史民俗博物館研究報告 第185集 2014年2月
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185013.pdf
内容は難しかったが、これまでの水田=渡来人=弥生時代といった、一元的な考え方を、考え直してみようという内容だと理解した。
 
さらに、水田耕作は、今まで学者が主張していたように、急激に広まったのではなく、600年という長い期間をかけて広がったと考えるべきである。
 
水田の始まりが、弥生文化の始まりだけではなく、もっと違う要因が弥生文化、つまり大和王朝を生み出したと考えてもいいのではないかという事である。
 
例えば気候の変化や、日本国内の勢力図の動静などである。
 
これらは、奥の深い問題なので、今後とも濃密な議論を積み重ねていただきたい。
 

東北の弥生時代

東北で見つかった、古代の水田跡をどう考えるかが、東北王国の手がかりだと考える。
 
なぜなら、北九州とほとんど同じ時期に、東北の水田が始まったとするなら、文化や人の交流が、ふんだんにあったという事だからである。
 
水田耕作の手間のかかることは、米という字を分解したら八十八になるという話からも分かる。
 
東北の水田が、畔で区画され、ため池と用水路など、かんがい技術を伴ったものである事から、個人やグループが興味本位で行ったものではないことが明白だからである。
 

現在発掘された遺跡

弘前市の砂沢遺跡、田舎館村の垂柳遺跡、大仙市・星宮遺跡で水田跡16枚、岩手県では、奥州市江刺の反町遺跡で水田跡18枚が発掘されている。
 
簡単に地図を作ってみたが、まさに東北地区一円と言ってもいいのではないだろうか。
 

東北古代水田

 
さらに水田遺跡ではないが、籾痕のついた土器片は男鹿市や井川町、三種町で発掘されている。
 
水田耕作によって得られる米は余剰食物として保存されるようになると、富の偏在が出てくると学者の人たちは言う。
 
それが事実なら、水田耕作は組織的に行われて、一つの大きな勢力の存在が見えてくるのだ。
 
だが、その一つの勢力の痕跡は日本史の中にあるのだろうか。
 

渡党(わたりとう)

延文元年(1356年)に書かれた『諏訪大明神絵詞』によると、「蝦夷カ千島」には日の本、唐子、渡党の三種が住んでおり、このうち渡党は髭が濃く多毛であるが和人に似て言葉が通じ、本州の津軽や外が浜に往来し交易に従事したとされる。
 
この渡党(わたりとう)と言われている人々が、「和人に似て言葉が通じ」とあるので、一番可能性がある。
 
渡党の来歴についてはいくつかの説がある。
 
■本州から渡ってきた党類の謂いで、当時の西国にみられたような「悪党」的性格をもつ人々が蝦夷化したもの。
■考古学者の瀬川拓郎(元旭川市博物館長)は、渡党を道南日本海側に成立した古代青苗文化の負荷者の後裔に比定した。
 
大和から人たちなのか、現地人かという事である。
 
渡党の特徴に、髭が濃く多毛とある。
 
現在はアイヌを指すとする意見が主流だ。確かにアイヌ人の特徴も髭が濃く多毛である。
 
また、アイヌ集団でも、地域によって文化や集団意識が異なっている。
 
北海道太平洋岸東部に住したアイヌは「メナシクル」と称し、太平洋岸西部のアイヌは「シュムクル」、千島のアイヌは「クルムセ」もしくは「ルートムンクル」とし、お互いを呼び分けていたという。
 
これらの事を考えれば、和人かアイヌかという議論は当然だろう。
 
戦前の研究者は、「和人化したアイヌ=東北地方の蝦夷」と考えていた。
 
だが、奥州藤原氏のミイラ調査の結果、アイヌの特色は見られず、特に藤原秀衡には当時のアイヌ人に存在しない歯槽膿漏が見られたことから和人であるとの鑑定が出ている。
 
現在もなお、決着はついていないが、「髭が濃く多毛」だからアイヌの血が濃いと考えるのは、短絡すぎるのではないかと思う。
 
沖縄の人たちも「髭が濃く多毛」だからである。
 
この渡党は、鎌倉幕府北条氏より蝦夷管領の安藤氏(安東氏)の支配下に置かれたとある。
 
この安藤氏だが、日本の鎌倉時代から戦国時代の末まで、陸奥国・出羽国の北部に勢力を張った武士の一族である。本姓は安倍を称したとある。
 
鎌倉時代の歴史書によると安藤五郎が鎌倉時代初期に津軽地方に置かれ蝦夷対応に当たったのが初めとされているが、正確なところは不明である。
 
さて、この安藤氏(安東氏)、安倍氏と呼び方が複数あるので、安倍氏に統一して話を進めたい。
 

京都と戦う安倍氏

永承6年(1051年)に、安倍氏と京都の朝廷から派遣されていた陸奥守・藤原登任との争いに端を発して、以降12年間にわたって続いた前九年の役において、東北各地に善戦する。
 

前九年の役

 
なぜ、京都の藤原登任と戦い続けたかだが、安倍氏が朝廷への貢租を怠る状態になった為、懲罰的戦いである。
 
安倍氏は陸奥国の土着である。陸奥国とは現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県を含む巨大な国である。
 
その安倍氏こそ東北王国の主だろう。
 
興味は、この安倍氏がどれだけ歴史を遡れるかである。
 
安倍氏の出自に関していくつかの説がある。
 
■神武天皇に殺された畿内の王長脛彦の兄安日彦をその始祖とする説。
■奥州に下った中央豪族である安倍氏のいずれかが任地で子孫を残したとの説。
■秋田の蝦夷の帰順を得た阿倍比羅夫につながるという説。
■鎮守府将軍安倍比高の後裔とする説。
■奈良時代に陸奥国に勢力を広げた阿倍氏から、陸奥南部の諸豪族が阿倍を冠した複姓(阿倍陸奥臣・阿倍安積臣、ほか)を賜与され支配関係を築かれたが、その子孫との説。
■朝廷に従った蝦夷(俘囚)とする説。
 
なるほど。結局よくわからないのだ。

アラハバキ

荒脛巾神社(あらはばきじんじゃ)多賀城市観光協会

 
安倍氏がアラハバキ(荒覇吐、荒吐、荒脛巾)神を信仰していたという話がある。
 
アラハバキに関して柳田国男氏は、「諸国に客大明神(きゃくだいみょうじん)・客人(まろうど)杜・門客人(かどまろうど)明神杜などという小杜があって、それがアラハバキと称されることもある。いずれも神名・由来ともに不明である」と述べている。
 
この神様に関して、やはり様々な説が出ている。
 
武内裕/縄文神説
縄文時代に信仰されていた神とする説。『東日流外三郡誌』を独自に援用した武内裕が70年代に唱えたのが最初である。
 
吉野裕子/蛇神説
吉野裕子の、かつての日本の、蛇を祖霊とする信仰の上に五行説が取り入れられたとする説。
 
谷川健一/塞の神(さえのかみ)説
村や部落の境にあって,他から侵入するものを防ぐ神。
 
近江雅和/製鉄民説
多賀城跡近くにある荒脛巾神社には鋏が奉納され、さらに鋳鉄製の灯篭もあるという。多賀城の北方は砂金や砂鉄の産出地であり、後述する氷川神社をも鉄と関連付ける。
 
これもまた、混乱している。
 
あの東日流外三郡誌では、遮光器土偶をアラハバキの象徴としている。
 
確かに遮光器土偶には、神のような風格があるが、私はカエルの精霊だと思っているので除外したい。
 
どれも一理がありそうで迷うのだが、私が結論を出すわけではない。
 
神の由来は様々な説で彩られているが、東北の民間信仰であることは間違いない。
 
大きな勢力は独自の神を奉じている場合が多い。例えば秦氏である。稲荷神は秦氏の氏神的な信仰を持っていた。
 
大和朝廷に逆らうくらいの気骨ある集団である。オリジナルの氏神は当然いたと思われる。
 
ウィキペディアの解釈では、「荒脛巾神」という文字から、脛(はぎ)に佩く「脛巾(はばき)」の神と捉えられ、神像に草で編んだ脛巾が取り付けられる信仰とある。
 
まあ無難な解釈だろう。
 
また、アラハバキを客人神として祀る神社は武蔵を始め、三河、出雲、伊予にも点在する。
 
しかし各神社の由来が様々なので、これまた他説が乱立している。
 
古代の安倍氏がなぜアラハバキを信仰しているのかという問題は、じつはとっても重大なのだが、アラハバキ自体謎が多く定められていない。
 
しかし、ここは一つの信仰を持っている一族として、安倍氏をとらえたいと思うので、アラハバキを深読みしないで、話を進めたい。
 

安倍という姓

いかにも日本的で、どこにもありそうな名前だが、「安倍(阿部)」姓は極端に東日本に偏っている。
 
名字の由来解説では、語源は神をもてなす饗えから来ているとされる。古代の膳(かしわで)に関係があるとされる。アイヌ語で「あぺ」は火の神で日祭が語源ともされる。
 
うーん。意味がわかりにくい。
 
ただ、神をもてなす饗えというと、神に接する神官ともとれる。
 
さらにアイヌが、老女の姿をした火の神をアペフチと呼び、人家にまつわる神の中でも最も尊いとされ、人間と天の神との媒介をする神とされているという。
 
安倍(阿部)がアペで、アイヌにとっては火神(日神)としているのも意味深である。
 
 
阿倍氏(のちに安倍)は孝元天皇の皇子大彦命を祖先とする皇別氏族である。飛鳥時代から奈良時代に大臣級の高官を輩出する。平安時代以後は「安倍」と称する。
 
大彦命(おおひこのみこと)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族であり、第8代孝元天皇の第1皇子とされている。
 
古代日本の皇族とは、かなり古い。
 
しかも第8代孝元天皇は欠史八代の一人で、存在そのものが不明な天皇だ。
 
ということは、阿倍氏(のちに安倍)は大和に関係しているのだが、出自は不明だという事である。
 
しかし、歴史を見渡せば、安倍姓は沢山いた事にきづく。
 
■景行天皇の妃の一人である高田媛の父が阿部木事である。
 
■継体天皇の妃に阿倍波延比売がいたといわれている。
 
■歴史上はっきりとした段階で活躍するのは宣化天皇の大夫(議政官)であった阿倍大麻呂(火麻呂とする説もある)が初見であるとされている。
 
■阿倍比羅夫 7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。
 
■安倍晴明 平安中期以降、安倍氏は安倍晴明を輩出した系統が主流となり、中世からは土御門家と名乗り、代々陰陽道の家として知られるようになる。
 

晴明神社 撮影アートワークス

 
これらを読めば、すごい一族である。
 
ちなみに総理大臣の安倍晋三は安倍宗任を祖とし44代目の末裔であるとしている。
 

安倍晋三首相

多利思比孤

古代の日本についての手掛かりは中国の歴史書である。
 
「隋書」で記述される倭国王が多利思比孤なのだが、姓は阿毎、字は多利思北孤と書かれている。
 
この阿毎の読みだが、一般的には「あめ」と呼ばれている。
 
だが「阿毎」は、当時の中国語で「abei(アベィ)」と発音したという記事があった。
 
この読みが事実かどうか不明だが、安倍の最初が、アメに似た呼び方であったことは、十分に推測される。
 
毎という字は音読みでマイと読むので、「阿毎」をアマイ→アメと読んだと思う。
 
毎という字にサンズイをつけると海という字になり、これもアマと言う読みに転化しているのだろう。
 
だが、
 
中国では六朝時代のm音が、唐の時代にはb音に変化しました。『毎(mai・マイ→bai・バイ)』です。
風船あられの漢字ブログ
http://huusennarare.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-8bd0.html
 
この説からすると「阿毎」はアバィと読める。
 
これは限りなく安倍(アベ)に近い。
 
多利思比孤については、一般的には聖徳太子とされているが、歴史書ではどうも違うのだ。
 
『隋書』や『北史』はこの王を妻のいる男性としており、この時期に男性の大王は『日本書紀』、『古事記』には登場しない。
 
阿毎多利思比孤という文字を日本的に解釈すると「天垂らし彦」になる。
 
そして、この「天(あべ?)垂らし彦」は九州にあった倭国の王なのだという論調が多い。
 
今まで東北の安倍氏の話をしていたのが、九州の倭国の王の話になってしまっている。
 
これはどう考えればいいのか。
 

高天原一族

古事記では天皇の祖先神は天照大御神であり、天孫降臨でニニギが九州に降りてきて、三代後に神武天皇が誕生する。
 
しかし古事記の中では、高天原にいて地上に降りた神様は他にもいる。
 
神武東征の最後の場面で、長髄彦と戦うのだが、長髄彦は饒速日命(にぎはやひのみこと)を奉じている。
 
饒速日命はやはり天孫降臨をした神である。
 
 
『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。ウィキペディア
つまり神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されているのだ。
 
そして饒速日命は高天原出身だが皇統ではないと、『新撰姓氏録』にも書かれている。
 
神武天皇も「天神の子は多い」と語っている。
 
それ以外にも、伊邪那岐、伊邪那美の国産みでも、最初の神はヒルコ、二番目はアハシマは生み損ないだったので海に流したとしている。
 
この二人の神は、民間宗教の中で生き続け、ヒルコは恵比寿に、アハシマは淡島神となって、現在も信仰されている。
 
饒速日命を奉じていたのが長髄彦の、兄安日彦(あびひこ)とされているが、「安日長髄彦」という名で同一人物であるとする記録のほうが古い。
 
つまり「安日長髄彦」は「安倍長髄彦」だとして、大和で死なずに東北に落ち延びたという伝承は塩釜神社にもある。
 

長髄彦

結論 シーパワー安倍一族

九州にいた、倭国の王、阿毎(アベ)多利思北孤。
 
大和にいた天孫族の安日(アベ)長髄彦。
 
そして東北の雄、安倍一族。
 
この事を思えば、大和族と対抗した一族は、同じ高天原出身のアベ一族なのである。
 
もっと推理すれば、天孫族は地上派、つまり地政学でいうランドパワー族で、安倍一族を海(アマ)とすれば、こちらはシーパワー族という事になる。
 
同じ呼び方をする天(アマ)と海(アマ)が日本中に存在していたのだと思う。
 
元は一緒なので、違う勢力に分かれた際、本家と分家のように分けたのだと推測する。
 
最初の話に戻るとする。
 
東北にいた蝦夷の一部は、渡党(わたりとう)だろう。
 
名前の通り、東北や北海道に渡ってきた一族なのである。
 
そして、その長が安倍一族である。
 
東北、北海道にいた縄文人たちは独特の文化を開いていった。
 
その典型が、三内丸山であり、遮光器土偶である。
 
そして安倍一族と東北北海道の縄文人は一体化していく。
 
九州や近畿地域とつながりのある安倍縄文人は、稲作という文化を取り入れ、水田耕作を始めたのだが、気候のせいや大和勢とのつながりによって、いつしか途絶えていく。
 
まあ、水田だけが富を蓄積する食物ではなく、東北の地はそれにあった食物もあり、独自の方法で進化していったと思う。
 
その後、樺太にいたオホーツク人等の南下で、一部の縄文人たちは混血をしてアイヌになっていく。
 
アイヌの人たちは、北海道東北にすでに根ざしている、安倍縄文人の文化を敬い、火神(日神)としてアぺと呼んだのだ。
 
その後、大和と小競り合いが起きるが、もともと同じ出身で言葉の通じる一族である。
 
次第に大和朝廷にも混じり込んでいった。
 
これが結論である。
 
ここまで話が展開した後、一息入れていたのだが、ふと大切なことに気づいてしまった。
 
高天原である。
 
これに関しても多くの説が存在している。
 
当然結論は出ないが、神話の国産みの話から推測したい。
 
最初、イザナギとイザナミの二神が天の橋に立ち、矛で混沌をかき混ぜて島を造るとある。
矛は武器である。
 
つまり、矛を使った戦いで日本は出来上がっていったのだ。
 
最初は淡路島で、四国、隠岐島、九州、壱岐島、対馬、佐渡島の順である。
 
そして最後が本州である。
 
私が思う高天原とは大海原に浮かぶ大小の島を言ったのではないかと思う。
 
其処にはアマ族(海人族つまりアベ族)がいた。そして最後に本州つまり大和に、天孫族が住み着いた。
 
古代日本の最初は、だれも住んでいなかったのだが、海を渡って人々が、長い時間をかけてわたり着き、縄文人というひと固まりを何万年もかけて、作られていったのである。
 
まだ国もない時代、縄文よりずっと古い時代の話である。
 
そんな太古の記憶が高天原となったのだろう。
 
何度も書いているが、天と海は同じように「アマ」と読む。
 
高天原は高海原でもあるのだ。
 
なぜ日本人は天と海を同じだと考えたのかは、よくわかる。
 
海を眺めていれば、遠くには海と天が交わっているからである。
 
そんな水平線の彼方から人々はやってきたのである。
 
誰が見ても天と海の涯は一体化していると考えるだろう。
 
とても自然な考え方なのである。
 

九十九島 撮影アートワークス

 
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東北王国(1) 日本中央碑の謎
https://artworks-inter.net/ebook/?p=5263
 
東北王国(2) 蝦(ガマ)の夷(エビス)
https://artworks-inter.net/ebook/?p=5297
 
東北王国(3) 東北縄文人の大移動
https://artworks-inter.net/ebook/?p=5311
 
東北王国(4) アイヌは縄文人を制圧した
https://artworks-inter.net/ebook/?p=5337
 
東北王国(5) 日本の裏の歴史 アベ一族

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