それでも任那日本府は存在していた

先日比叡山に行った。日本仏教の母といわれる最澄の存在を感じればと思ったのである。

そして、仏教伝来の事も調べる。書には6世紀半ば、百済から金ぴかの仏像を日本に送った時からと書いている。

この時代の日本は、仏教に対して無垢な状態だと思っていた私だが、いろんな本を読むうちに、そうでない事を深く理解した。

この時代の朝鮮半島は、北には高句麗、南朝鮮には百済、新羅、そして、対馬に一番近い地域には任那があった。

任那(みまな)の北部には加羅(伽耶)という地名もある。加羅とは、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部あった小国家群だ。

4~5世紀半ばの朝鮮半島

任那や加羅地域はヤマト王権に従う集団だったとされている。そしてウィキペディアに、「任那の公用語は日本語」だと書かれていた。

その記述に、朝鮮半島の進んだ文化という言葉の嘘にあらためて気づいた。

古代日本は、実は朝鮮半島の事を知り抜いていたんだという事を再認識したのだ。

そして任那の事を調べることにした。

任那が出来るまで

ヤマトがこの地を支配した理由は製鉄の産地があったためだといわれている。

製鉄の技術は、始皇帝の秦(紀元前221年)から始まったとされ、鉄の威力で一気に勢力を拡大し、その後の漢の時代に普及している。

そして鉄の技術は朝鮮半島に伝わり、朝鮮北部に出来ていた中国人による燕国の亡命者が建国した衛氏朝鮮があった。朝鮮という名前が付けられているが、朝鮮人の国ではない。

そして紀元前100年頃から朝鮮半島南部でも鉄器あるいは鉄生産が始まったとされている。

この時代の朝鮮半島南部には辰国という国があったとされているが定かではない。

しかし何らかの国があったという事は事実のようである。

倭人の南朝鮮

最近の調査で、古代朝鮮半島南部の様々なことがわかってきた。

ただ朝鮮半島の歴史書は存在しないので、中国の書物と日本の日本書紀が手掛かりで、あとは発掘された前方後円墳や土器類である。

まず、紀元前10,000年から前5,000年までの5千年間は韓国国立中央博物館の年表では空白となっており、ほとんど遺跡が発見されていない。

朝鮮半島南部の煙台島貝塚から発見された古人骨(紀元前4000年)は縄文人の特徴と多くの点で一致している。

朝鮮半島南部の勒島から弥生時代中期(紀元前100年)と推定される73基に及ぶ墓が見つかり、甕棺墓や北部九州の弥生土器の出土、骨格の特徴や抜歯風習などから西北九州と密接な関係を示唆している。

朝鮮半島西南部の栄山江流域では、日本列島に特徴的な前方後円形の墳形を持つ10数基の古墳の存在が知られる。

東三洞貝塚(プサン)では大量の縄文土器と九州産黒曜石が出土しており、縄文人がやってきた確かな証拠といえる。

これは事実である。

となれば、辰国は倭人の国だった可能性が非常に高い。

紀元前2世紀の朝鮮半島

弥生時代の人口増加

弥生時代という名称そのものが疑わしいのだが、弥生土器といわれるシンプルな実用的土器の発掘や、この時代の人口増加でとりあえず、縄文時代と区別しているのは認めることとする。

この人口増加が、架空の渡来人説を作り上げた。

人口増加の原因は、当然水田稲作の普及である。

そして、農業が飛躍的に生産力を上げたのは鉄製品の結果であることは、様々な学者が述べることである。

ここで朝鮮半島の鉄の普及と倭国の人口増加がシンクロする。

農業生産物が増えれば、それを入れる器も実務的になる。

ヨーロッパにおける装飾的なアールヌーボーの時代から、機能的なアールデコ様式に変化していったことと同じだ。

倭人の体型も労働の質が変化すれば、当然体型も変わってくる。昭和の敗戦後日本の体型と、現在の若者の体型の変化を思えばわかりやすい。

結論を言えば、弥生時代の繁栄は、朝鮮半島に住み着いた倭人と九州の倭人の連係プレーだったという事である。

別に大量の渡来人説を捏造しなくても、現在わかっている事だけで推論できる事である。

さらに遺伝子という科学分野でもこの事は証明できる。

近年のミトコンドリアDNAハプログループやY染色体ハプログループの研究によって、日本人と中国人・朝鮮人とのY染色体には違いがみられた。

ただ、朝鮮半島には日本人とよく似た分布があるのも事実である。

それは、倭人の古代朝鮮半島への進出の結果である。

遺伝子の分布図

重要な任那

朝鮮半島の倭人の存在は歴史的事実なのだが、国という形をとったのが任那である。

歴史の中では、一般的に伽耶と同一の地域だと書かれているが、任那日本府があったことは、『日本書紀』の雄略紀や欽明紀などに記載されているし、さらに高句麗の広開土王碑文(こうかいどおうひ)にも、倭の存在が多く書かれている。

西暦562年、任那日本府は新羅によって滅ばされるのだが、それまで古代より朝鮮半島南部を倭国が統治していた事実は間違いないのである。

この任那の存在は、古代朝鮮半島の進んだ文化という嘘を見事にはがしさってしまう。

この事は日本の古代史にとって、最重要視されるべきである。

なぜなら日本の弥生時代という分類にも大きくかかわってくるからだ。

帰化人たちが日本に多くいたことに関しては異論はない。

日本は他国の進んだ文化を取り込むことに比較的どん欲だからだ。

この事実は、いびつなナショナリズムと無縁であることは強く言いたい。新しい事実が出てきたならいつでも修正していいと思っているのだ。

渡来人と帰化人

これまで日本史の中では、帰化人と書かれていたのだが、日本史の大学教授は自国中心的であるとの主張し、在日朝鮮人小説家より在日朝鮮人のイメージが投影されるという意見が出て、結局渡来人という言い方に変わっていった経緯がある。

帰化人の場合、日本に希望を見出して移住し定住するようになった人々を指し、日本人として生きていこうとした決意が見えるのに対し、渡来人は、単にやってきたというとらえ方をされる。

微妙なことだが、渡来人という言い方には、自分の国を捨てていないという、ナショナリズムがしっかりあるのだ。

これは、現在の韓国に遠慮しての、日本人学者の自虐的な匂いがぷんぷんする。

古代歴史の話の中に、なぜ関係のない現在の韓国に遠慮するのか、まったく理解できない。

任那の存在を拒否する韓国

歴史書に多く書かれている任那が、不思議なことに日本で論争になっている。

日本の学者が『日本書紀』を引用して、倭が朝鮮半島南部を支配したという任那日本府説を主張すると、韓国の学界はそれは受け入れることができないと拒否しているのである。

困ったものである。

古代の朝鮮半島には、現在の韓国人の祖先すら住んでいなかったのに、現在の韓国が難癖をつけるのは間違っている。

この任那日本府の存在が、大東亜戦争の敗戦により日本で微妙に変化している。

黒岩重吾(作家)はこの時代を「1970年代は任那という言葉を口にするのは、はばかられるような雰囲気でした」と述べている。

そして、任那の日本府の存在を否定し始める日本の学者も出始めるのである。

ついに文科省が登場する。

日本の文部科学省は、2002年に新しい歴史教科書をつくる会による歴史教科書の「倭(日本)は加羅(任那)を根拠地として百済をたすけ、高句麗に対抗」との記述に検定意見をつけて「近年は任那の恒常的統治機構の存在は支持されていない」と述べている。

さらに

2015年4月、韓国の国会は、日本の歴史教科書に任那の記述があることを糾弾する「安倍政府の独島領有権侵奪と古代史歪曲に対する糾弾決議案」を採択した。

産経ニュース 2015.4.9
「古代史でも日本が歪曲」韓国首相、中学校教科書の「任那(みまな)日本府」記述を批判

困ったものである。

歴史認識は時代や国によって変わることはしょうがないと思う。

ただ事実は事実として記載していく義務がある。反日の韓国の意見は、とりあえず意見として聞いてもいいが、それは意見であり歴史的事実とは別物だ。

古代朝鮮半島に、倭国の一部が存在していて、倭国の力が及んでいたことは間違いない。

任那が地域で国でなかったのは、倭国という本国があるからで、九州地方と同じ意味で、任那地方だったからである。

朝鮮半島南部に古代より日本人がいたという事と、日本の日韓併合の話をだぶらしていて、韓国を刺激しないようにという浅はかな配慮が日本の学者にあったと推測する。

関係ない話である。

「Draft of c/n, Subject : War Guilt Information Program」の文書

これは、戦後に作られたウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)の影響がいまだに残っている事が明白なのである。

WGIPは、太平洋戦争(大東亜戦争)終結後、連合国軍最高司令官総司令部による日本占領政策の一環として行われた「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画である。

さらに、WGIPプレスコードにある削除および発行禁止対象のカテゴリー(30項目)の影響も多大である。

「放送倫理基本綱領」(1996年9月19日 NHK民放連により制定)の中に朝鮮人への批判、中国への批判、ナショナリズムの宣伝が禁止項目とされている。

この影響が学問の中にまで入り込むのは、とても不愉快である。

それなのに、この任那日本府の存在を消し去ろうとしている現在の日韓学者たちの存在がある。

何度で言うが、政治の風を読む人たちはすでに学者ではない。

伽耶、任那の歴史は複雑でもある。

古代日本の歴史に大きくかかわってくるからだ。

スサノウが高天原を追い出されて降りた国がソシモリという朝鮮半島の地域だったという事。

天孫降臨の際にニニギノミコトが韓国(からくに)といった理由。

神功皇后の三韓征伐の話。

新羅王子の天日槍。

さらに古代の話では、弥生時代の人口増加と大量の渡来人説などが、朝鮮半島の倭人たちの存在を調べることで、正しい事実を導き出せると思う。

あるものをないと言い張るのはおかしい。

まるで、ガリレオの宗教裁判である。

「それでも任那日本府は存在していた」

そう言うべきである。

コメントを残す