蛇行剣の謎を追う(2) 蛇行剣は大陸由来か

蛇行剣も大陸由来かもしれないという事がわかってきた。

ウィキペディアには少し推論が載っている。

 

鳥居龍蔵によってインドネシアのクリス短剣を連想するものと語られ、東南アジアにその性格(蛇信仰など)を求めるものと考察され、注目された。

その後、1986年に楠元哲夫の考察から倭国の特異な武器として認識されるようになり、武装としての意味も考察されるようになるが、資料の少なさと南部九州に偏って出土するなどから、性格は必ずしも明らかではないとされる。

これを連想させる形状の武器として、中国の蛇矛があるが、時代的にみて、関連はない(蛇行剣は実用武器ではないとみられている)。

 

これくらいである。

 

クリス短剣
クリスは、インドネシアやマレーシア、ブルネイ、タイ南部、フィリピン南部で主に見られる、独特の非対称の短剣である。武器であり霊的なものでもあるクリスは、幸運ないし悪運を持つ存在と考えられる。

これに対して、日本の古墳時代の遺跡から出土する蛇行剣の祖形を東南アジア圏のクリス短剣に求める説があるが、実質的な出土事例は蛇行剣の方が古いとある。

クリス短剣

 

これ以外にも剣身が曲がっている剣はある。

 

中国の蛇矛及び中国武術の蛇剣

中国武術の蛇剣は、蛇の動きを模倣して攻撃するための武術武器であり、古代中国の武術の一部です。蛇剣は、古代中国の武術師範や創始者によって発明されたとされていますが、具体的な作られた年代は正確には不明です。蛇剣の起源や歴史についての記録は、時代や地域によって異なる可能性があります。史料によっては、蛇剣が春秋戦国時代(紀元前770年から紀元前221年)やその後の漢代(紀元前206年から紀元220年)に遡るとされることもありますが、その起源に関しては諸説があります。

中国武術・蛇剣(じゃけん)

 

 

まあ、中国だったら何でもありそうなので、日本の蛇行剣もその流れをくむかもしれないと思う。

 

ヨーロッパ圏のフランベルジュ
フランベルジュは、刀身が波打つ両手剣の総称。刀身の揺らめきが炎のように見えるため、フランス語で「炎の形」を意味するのフランブワヤン(Flamboyant)にちなんでこの名前がついた。

フランベルジュ

 

これもありかなと思うが、8世紀のものが記録に残る最古のフランベルジュとされるとあるので、年代が新しぎるようだ。

やはり、中国の蛇剣が一番怪しい。

ただ、今回の蛇行剣と盾は不思議だらけなので、学者の人たちは安易な推論を避けているのだろう。

 

南九州の蛇行剣

蛇行剣の発掘場所は南九州が半分占めている。

となればこの地域に住んでいた人たちとかかわりが深い事は明白だ。

つまり、熊襲および隼人という人たちが謎のカギを握っているという事になる。

 

熊襲(くまそ)は、日本の記紀神話に登場する、現在の九州南部にあった襲国(別称 建日別・熊曾国)に本拠地を構え、大和王権に抵抗したとされる人々、また地域名自体を表す総称である。

隼人(はやと)とは、古代日本において、阿多・大隅(現在の鹿児島県本土部分)に居住したとされる人々。「はやひと(はやびと)」、「はいと」とも呼ばれ、「(犬のように)吠える人」の意味とも、「ハヤブサのような人」の形容とも方位の象徴となる四神に関する言葉のなかから、南を示す「鳥隼」の「隼」の字によって名付けられたとも(あくまで隼人は大和側の呼称)。

 

熊襲と隼人の関係だが他説がある。

1.古く熊襲と呼ばれた人々と同じとする説

2.熊襲の後裔を隼人とする説(系譜的というよりその独特の文化を継承した部族)

3.「熊」と「襲」を、隼人の「阿多」や「大隅」のように九州南部の地名であり、大和政権に従わないいくつかの部族に対する総称と解する説

これらには何らかの説明があり、それぞれうなづける。

ただ、神話の中の人々ではなく、実存したことは間違いない。

文献上の確実な史実として初めて「隼人」が登場するのは、『日本書紀』に見える682年(7世紀後半・天武天皇11年)7月の「朝貢」記事と考えられている。

そして隼人は大和に対して反乱を起こしている。

 

隼人は大和政権へ服属後もしばしば朝廷に対し反乱を起こし、大隅隼人などは713年(和銅6年)の大隅国設置後にも反乱を起こしたが、720年(養老4年)に大隅で勃発した隼人の反乱と呼ばれる大規模な反乱が、征隼人将軍大伴旅人によって翌721年に征討された後には完全に服従した。

その後、大和朝廷に帰属し、兵部省の被官、隼人司に属した。百官名のひとつとなり、東百官には、隼人助(はやとのすけ)がある。

隼人舞

 

これらが解説である。

 

これら以外には、言語・文化は他の地方と大きく異なっていたとされ『大宝律令』では、「異人」と記されている。

さらに、『肥前国風土記』に「五島列島の海士は容姿が隼人に似ており、騎射を好み、言葉も俗人と異なっている」という記述がある。

結構手掛かりがあるのだが、熊本県域や宮崎県域、南西諸島の人々が隼人とされた例もまた史料上ひとつも確認されていない。

 

それゆえ、1960-90年代は弥生・古墳時代の考古資料を直接、隼人と結び付けて論じられていたが、1990年代以降は文献と考古資料の安易な結びつけや、飛鳥・奈良時代の「隼人」の概念を古墳時代や弥生時代にまで波及させる考え方について疑問や批判が強まり、2000年代以降の考古学・文献史学からは有力な学説と見なされていない。

 

ここでも、考古資料の安易な結びつけはやめてくれと言っている。

さらに、飛鳥・奈良時代の「隼人」の概念を古墳時代や弥生時代にまで波及させる考え方は批判が強いと記されている。

なぜだろうか。

確かに想像や推論だけで、歴史を構築するのは良しとしないが、過去、出雲神話が空想とされていたが、荒神谷の発掘品によって、現在は実存したとされている事例もある。

こちらは素人である。こんな注意はほっといていい存在だから、平気である。

 

赤色顔料

かつて隼人の墓といわれていた宮崎県えびの市島内の島内地下式横穴墓群から出土した計209体の人骨の赤色顔料の塗布の有無と部位に関する観察が行なわれた。

結果、顔料が塗られていた127体の内、顔面のみの塗布が最も多く(38例)、次いで頭部・上半身・下半身のいずれにも顔料を塗布したもの(23例)、それに次ぐのは、頭部と上半身に塗布したもの(11体)となり、顔面塗布が重視された事がわかった。

 

つまり隼人と思われる人骨には赤色顔料が使われている。

 

富雄丸山古墳の蛇行剣の鞘 (さや) は木装で、柄頭や柄口、鞘口、鞘尻には漆膜があり、漆の表面には、赤色顔料で彩色されていることが確認されています。

 

富雄丸山古墳では人骨はまだ、発見されていない。

 

古代古墳の発掘で出土した人骨に赤色顔料が使われていた例

AI 具体的な例として、徳島市の鶴島山2号墳からは辰砂で顔面が朱に染まった人骨が出土しています。また、奈良県の大和天神山古墳の竪穴式石室には約41kgの辰砂が使われていたことも知られています。古墳の石室には人骨が残ることが少ないため、赤く染まった人骨は甕棺(かめかん)などから出土した弥生時代のものが多く知られています。

辰砂は古代から採掘・精製されており、縄文時代から使われていたことがわかっています。特に西日本では弥生時代の終わり頃から赤色の顔料として辰砂が多く使われるようになり、古墳時代初めには辰砂が古墳の石室に多く振りまかれるようになりました。

頬は赤く塗られている。首や手首や額や髷にも赤。和歌山の埴輪http://hanitona.web.fc2.com/mg2018004wakayama.htm

 

この解説を読むと、赤色の顔料を使うのは西日本で一般的な風習といえる。

という事は、隼人や熊襲だけの風習ではなかったという事になる。

さらに富雄丸山古墳の被葬者の身元は、西日本出身となるのだろう。

また、隼人や熊襲が特別な存在ではなく、西日本、特に九州では各地に存在していたともとれるのだ。

 

原口耕一郎による2018年の論文によると、9世紀初頭以降、南九州の住民を「隼人」と呼称する例は、史料上ひとつもみられなくなることが確認されている。よって南九州の人々が隼人と呼ばれたのはわずか120年間ほどのことにすぎないことが指摘されている。

隼人の楯 - Wikipedia

 

この事は、大和政権が隼人イコール異邦人といった、わかりやすいレッテル張りをしていたともいえる。

まあ、九州の佐賀、長崎の現地人を土蜘蛛と呼び、成敗したと書いているので、熊襲、隼人も同列だったのかもしれない。

さらに、『肥前国風土記』に「五島列島の海士は容姿が隼人に似ており、騎射を好み、言葉も俗人と異なっている」という記述がある。

五島と熊本、鹿児島は距離があるが、海で渡ればそれほど無理がなかった距離だったのかもしれないと思う。

 

地下式横穴墓

「地下式横穴墓」や「板石積石棺墓(地下式板石積石室墓)」から蛇行剣の出土が比較的多いことに由来する。

やはりこれは重要な手がかりだ。

 

地中に空洞の墓室を穿つ墓制については、地下式横穴墓を起源とすること、殊に24基が群集して検出された丹芝里遺跡(公州市)の構造には、地下式横穴墓や初期横穴墓に近いものが見られる。ただ、前方後円墳の存在と大きく異なる点は、公州・扶余という都に近接する立地であり、その造墓は家族単位で遂行しうる墓制であることなどである。

地下式横穴墓の模式図

 

ここで公州・扶余とといった地名が出てきた。

蛇行剣は日本だけでなく、朝鮮半島でもは新羅や伽耶の古墳からも出土している。

となれば、朝鮮半島に繋がってくる。

 

4世紀以前の朝鮮半島

朝鮮半島とかけば、現在の韓国人の祖先が住んでいた土地と思われる人も多いが、事実は違う。

別文でも書いたが、5000千前の朝鮮半島には、倭人が住んでいたと考えられている。

それなら韓国人の祖先はいつから朝鮮半島に住み始めたかといえば、正確な歴史は不明だ。

朝鮮民族の始祖は檀君で、檀君は王国を建てたとされ、韓国・朝鮮の教育に取り入れられているが、これは神話で根拠はどこにもない。

 

AI HLA遺伝子による調査では、朝鮮民族は日本人、満洲族、漢民族と近いことが示されています。また、韓国人とベトナム・台湾人の遺伝的祖先はほぼ同じです。

その中でも特に古代朝鮮人や高句麗、新羅、百済などの古代王国の人々が韓国人の祖先と見なされます。

 

こんなAIの回答だ。

ならば高句麗以前はといえば、ワイ国、貊(はく)という民族も存在している。

高句麗は古代満州(中国東北)東部~朝鮮北部に建国した満州系の王朝で、 別名に高麗,貉,狛などがあり、そして扶余は貊(はく)の一派だという。

 

AI 一般的には朝鮮民族の祖先は扶余されているが、鮮卑族の一派が建てた国家の首都として知られています。

鮮卑(せんぴ)は、紀元前3世紀から中国北部と東北部に存在した遊牧民族です。モンゴル系とツングース系の混血や、トルコ系民族などの説があります。

鮮卑族

 

さてだいぶ複雑になって来たので整理したい。

●蛇行剣は南九州から多く出土されている。

●南九州には熊襲、隼人が住んでいた。

●隼人は言葉が違い、異邦人とも書かれている。

●蛇行剣は朝鮮半島でも、数は少ないが出土している。

とりあえずこんな所だろうか。

この事からどこまで推理できるか考えてみたい。

 

コメントを残す