いいかげん書き直して欲しい「朝鮮半島からの影響」という注釈

私は古代史が好きである。

最近は縄文時代にはまっている。地元長崎県にも、いろいろ興味深い古墳や遺跡がある。

カーナビを頼りに、休みの時に島原に行く。雲仙に登り散々さがして、やっとの事でたどり着く。目的地は「原山ドルメン」だ。

日本最古最大の支石墓群はこの島原の山の上に眠っている。立て札には紀元前4世紀頃(繩文時代晩期)この支石墓を築造した「原山人」がいたと書かれている。

原山支石墓群の写真素材 アートワークス フリーフォト
http://freephoto.artworks-inter.net/harayama/kaisetu.html

縄文の支石墓 原山ドルメン
http://artworks-inter.net/ebook/?p=2626

原山支石墓群

 

この支石墓は繩文文化の伝統のなかで生活した人々の墓制に朝鮮半島からの影響が明らかにあらわれているものとして、繩文時代から弥生時代への転換期の動態を知るうえで重要な遺跡である。
文化遺跡オンライン http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/192062

 

とあるHPの文章があった。

カチンとくる。

 

「墓制に朝鮮半島からの影響が明らかにあらわれているもの」という解説は明らかに時代遅れだ。

どんな影響なのか、確証があるのなら述べて欲しい。

 

碁盤式の支石墓というだけで朝鮮式と書いてしまう無神経さに今でも腹がたっている。

島原には、それ以外にも遺跡がある。

 

礫石原遺跡(くれいしばるいせき)だ。

礫石原(くれいしばる)環状石組遺構

http://rekisitannbou.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-47cc.html

雲仙岳北部の標高230~300mの火山麓扇状地に所在する縄文時代早期から晩期にかけての複合遺跡。

縄文時代晩期終末には、支石墓と呼ばれる墓制が朝鮮半島から伝来しますが、縄文時代晩期中頃の礫石原遺跡はその直前の墓制の様相を示していると言えるでしょう。

また、籾(もみ)の圧痕が付いた土器片や農耕に関連する石製の鍬先(くわさき)と考えられている扁平打製石斧なども出土しました。このように礫石原遺跡は、大陸起源の農耕文化の伝来を考える上で重要な遺跡です。
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/publications/annual_exhibitions/WAJINDEN2004/02-14.html

「大陸起源の農耕文化」という文章にもぴりぴりする。

もうそろそろ、色んな雑誌やホームページに載せている解説を、書き直して欲しいと切に思う。

わたしが、しつこく書くのは

AMS炭素14年代測定に基づき、水田稲作の開始は従来よりも500年早かったとした国立歴史民俗博物館の研究発表

に強く信憑性を感じるからだ。

この発表によると弥生時代のスタートは紀元前10世紀頃である。

さらに、鉄器は水田稲作が始まってから600年ほど経ってからようやく出現。

水田稲作そのものの日本列島への浸透も非常に緩やかなものだった。

それ以外にもたくさん言いたい事はあるが、専門家の受け売りなのでこのくらいにする。

しかし、ここは紀元前10世紀から紀元前4世紀の大陸の状況をはっきり知る必要がある。

紀元前10世紀の世界の情勢

やはり、朝鮮半島の歴史が大切だ。そこから始める。

朝鮮の考古学的な時代区分では、櫛目文土器時代 紀元前8000-紀元前1500年という時代からスタートする。

縄文土器と同じように土器の模様として櫛目がついている。

土器が作られ始めた時代で、朝鮮における新石器時代ともされるが、日本の縄文時代と同様、農業はまだ小規模で、狩猟や採集が中心であった。
ウィキペディア

 

日本の縄文時代は紀元前1万5000年である。

長崎県佐世保市には泉福寺洞窟(せんぷくじどうくつ)がある。

泉福寺洞窟

http://freephoto.artworks-inter.net/senpukuji/kaisetu.html

ここには世界最古の豆粒文土器が発見された。日本人は12000年もの昔に土器をつくっていた。

朝鮮半島に土器が登場する4000年も前に、日本の長崎では土器が作られていたのだ。

 

いかん。

どうしても自慢げになってしまう。

反省しつつ先に進める。

 

その頃の朝鮮半島にはウラル系民族が住んでいたとある。

ウラル系民族はユーラシア北方の針葉樹林またはツンドラ地帯において狩猟採集とトナカイ遊牧を生業にする民族である。ウィキペディア

また櫛目文土器文化(くしめもんどきぶんか)は、新石器時代のヨーロッパ北東部、現在のヨーロッパロシア北部とフィンランドを中心とする地域に広まった文化である。

簡単に言えば、北極に近いロシアとヨーロッパあたりがその文化の大元といえるようだ。

 

ウラル系民族はシベリアを経て、モンゴル経由で朝鮮半島に住み着いたと思える。

その後にやってくるのが無文土器時代(むもんどきじだい)である。

百済の旅-松菊里遺跡-

表面に模様を持たない様式で紀元前1500年から300年といわれている。

時代的には日本の弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

このあたりから、朝鮮半島の文化が日本にやってきたと、学者の人たちはいったのだろう。

弥生式土器は明るく褐色で、薄くて堅い。

これは縄文土器が野焼きで作られるのに対して、弥生土器が藁や土をかぶせる焼成法だった。

朝鮮半島の無文土器の製作技法も、縄文土器よりも高温で焼くため、強度が高い。

 

これまで弥生時代の始まりが、紀元前4世紀だといわれていた。

朝鮮半島の無文土器時代が紀元前15世紀からとなっているので、時代的に遅い弥生時代が朝鮮半島の影響を受けたという事だったのだ。

しかしAMS炭素14年代測定により、弥生時代の始まりが紀元前10世紀くらいという新事実が発表され、すべてが大きく変わり始めたのだ。

朝鮮半島の無文土器時代前期は紀元前1500年から850年頃とされている。

この時期には農耕のほか、漁労、狩猟、採集が行われた。

農耕にはまだ石器が用いられていたという。

 

中国の黄河文明もそうだが、朝鮮半島も畑作が主流である。

朝鮮半島に水田稲作が始まったのは李氏朝鮮(1392-1897)後期だ。

どう考えても、弥生時代に稲作を伝えられるはずがない。

最近の調査でわかったのは、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明した。

なぜ稲作が朝鮮半島から伝わったと考えたのか。

研究の遅れといってしまえば実もふたもないが、「朝鮮半島渡来説」を唱え続けていた学者の人たちは、総て「考古学者」で「農学者」「民俗学者」がいないという特徴がある。

「稲」は日本から朝鮮に伝わった
http://www.asyura2.com/12/bd61/msg/170.html

朝鮮人研究者はすべて朝鮮が日本に「稲」を伝えてやったという。

悪口ではないが、感情的な朝鮮人研究者の意見に、自虐的な日本人考古学者が同調したとも受け取れる。

 

ここで、稲作の伝来という従来の説は終焉したと断言する。

 

そうすると、稲作を伝えるために、大勢の朝鮮人が日本にやってきたという説も、その根拠が消滅した事になる。

そうなると弥生式土器の誕生も違った見解が必要となる。

薄くて堅い土器は、縄文土器とは違い、生活一辺倒の土器である。

生活の必要に応じて、土器は改良されたと考えたほうが納得がいく。

どんなに便利で進んだ道具でも、必要がなければ浸透しない。

 

なぜ、薄くて堅い土器が必要になったのだろうか。

弥生土器は女性用

下右田遺跡で見つかった弥生土器

一つは食生活の変化だろう。

気候の変化により、穀物の比重が大きくなった。つまり、農耕時代の幕開けだ。

現在の日本の水田地帯の家族を見れば、一家全員が労働者である。

狩猟採集生活の人たち、たとえば漁業や狩猟中心の家族は、男性が主に労働する。

この違いが、縄文後期から弥生時代にも適応されると思う。

縄文土器と弥生土器の大きな違いは、その製法による重さだ。

軽くてシンプルな弥生土器は女性用とも考えられる。

農耕時代は女性が活躍する時代である。重たい縄文土器では、女性が持ち運びするには負担が大きい。

だから、うすい土器が発明された。

もしかしたら、土器を作る人たちも、男性から女性へと変わっていったのかも知れない。

 

あくまでも推論だが、「必要は発明の母」のことわざどおりだと思う。

 

この事を裏付けるように、稲作のゆっくりとした伝播に従い、軽い土器もゆっくりとしたスピードで広がっている。

弥生土器の広がりは九州から関東まで時期差があり、弥生土器の出現が東に行くにしたがって遅くなるのは、生活様式の変化によって初めて、使用する土器が作り出されていったという事の証明にもつながると思う。

 

またこの無文土器時代、朝鮮半島南部と北部では色んな違いが生じてくる。

葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、石槨墓や甕棺墓が見出されている。

朝鮮半島の変化

なぜ、この時期から急激な変化が朝鮮半島に起ったのか説明はない。

中期無文土器文化は、中部の遺跡名から松菊里文化(ソングンニ)とも呼ばれている。南部へ行くほど異なった要素が増える。

石槨墓(せっかくぼ)とは中国の東北部を中心に構築された墓であるが、石棺墓、石室墓との区別はない。日本の弥生期は甕棺・石棺・木棺など埋葬用の棺の使用が中心となっていく。

日本では、縄文時代以降に甕棺墓が見られる。

縄文後期・晩期の遺跡からは、日本各地で甕棺墓の風習があったことが判っている。

 

アジアでは、まず黄河文明期の中国に現れている。

ほとんどが乳幼児のものであり、成人のものは華北西部のみに分布する。また、東南アジアでも紀元前数世紀の頃から、ジャワ島やベトナム中部(サーフィン文化)を中心に甕棺墓が行われていた。

なぜ、朝鮮半島の南部では、日本の特徴的な甕棺墓がみられるようになったのか。

その答えは一つしかない。

倭人の朝鮮半島移住が始まったからなのだ。

弥生時代の朝鮮半島移住

朝鮮式墓といえば支石墓(しせきぼ)が有名である。

支石墓(しせきぼ)は、ドルメンともいい、新石器時代から初期金属器時代にかけて、世界各地で見られる巨石墓の一種である。

支石墓は西ヨーロッパが発生の場所だといわれているが、自然発生的に世界各地で個別に行われていたと思われる。

 

紀元前500年頃、支石墓は朝鮮半島(無文土器時代)へ伝播した。遺構は半島のほぼ全域で見られ(約4-6万基とされる)、世界の支石墓の半数が朝鮮半島にあるといわれている。

南へ伝播するに従い、支石は地下へ埋設されるようになり、天井石が地表近くまで下りている。

大韓民国では、高くそびえるもの(テーブル式)を「北方式」、低いもの(碁盤式)を「南方式」と分類しており、両形式のおおよその境界は全羅北道付近とされる。

 

なぜ支石墓の形式が、朝鮮半島の南北では違いが顕著になっているのか。

これらのことを考えると、おのずから答えは出てくる。

倭人たちが朝鮮半島南西部に住みついていたからである。

 

北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

そして朝鮮半島の南部では、日本の特徴的な甕棺墓がみられるようになった。

 

対馬の縄文時代の遺跡からはごく微量であるが、朝鮮半島の櫛目文土器が出土している。

ソウル市岩寺洞遺跡出土の櫛文土器、紀元前4千年頃

釜山の東三洞遺跡からは、櫛目文土器に混じって九州の縄文土器も量は少ないが出土し、また西北九州産の黒曜石およびその製品である石鏃が見つかっている。
http://www.bell.jp/pancho/travel/korea-7/history.htm

それらの中に含まれていた豆粒文土器が、我が国の 長崎泉福寺洞穴や福井洞穴などから発見される日本最古の豆粒文土器と類似している。

(韓国陶器の歴史より)
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n406370

つまり弥生時代とは、朝鮮半島南部に倭人の文化が北上していった時代だったのだ。

こう考えると、さまざまな疑問がすっきり解消される。

かなり後の時代になるが朝鮮半島南部の前方後円形墳などはその典型である。

 

さらに任那日本府の存在もある。

倭(古代日本)が朝鮮半島南部に設置した統治機関として日本書紀に言及されているものである。

「新羅・百済・伽耶の勢力圏内で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土」に至るまで、ガッテンである。

反韓ではない

 

遺跡にしても古墳にしても、すべて韓国の影響と書かれている資料だと、日本の中の文化が見逃されてしまうからである。

島原にある支石墓が、日本独自か中国やベトナムの影響を受けたものなら、その場所に大きな新しい文化の存在が必要とされる。

となれば、いままで韓国→北九州→島原となっていた文化の流れが、正反対だった可能性が強くなる。

島原→北九州→韓国だった可能性が限りなく事実に近いといえるだろう。

日本の九州北部と韓国南西部は、文化の交じり合いの場所だったのだ。

朝鮮半島には、中国、モンゴル、中央アジアの文化が流れ込んでいる。

お互いに行ったり来たりしていたのだ。

色んな遺跡がそれを如実に物語っている。

 

中国の古代史

一言に中国といっても、広大で一つの国にまとまったのが、「夏」(紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)の国からだといわれている。

日本の縄文時代でいえば晩期(約3,300-2,800年前)となる。

この時代から水田稲作をはじめ、ゆっくりと弥生時代に移っていく過程である。

縄文時代晩期、地球の気温は再び寒冷化に向かいはじめる。

関東では従来の貝類の好漁場であった干潟が一気に縮小し、貝塚も消えていくこととなった。

一方、西日本や東北では新たに低湿地が増加したため、低湿地に適した文化形式が発達していった。

そしてこの時期に縄文人の人口も停滞あるいは減少に転じる。

日本は生き残りのために、水田稲作に手を出し始めたと思われる。

中国に関しては、その時代の歴史書もあり、日本とはまったく違った歴史を歩んでいる事は、みんさんご存知のとおりである。

 

日本は悠久の時間を、日本という島の中で熟成させてきた。

争いもあったと思うが、アジア大陸のように血で血を洗う乱世を経験した事がない。

戦争は飛躍的に文明を発展させていく。

そういう意味では、中国は最先端の技術をもつ大国であった事は間違いない。

 

今でもそうだが、中国では日本の事は秦始皇帝の時の徐福や越人が日本人の子孫だと本気で思っている。

もう一つ日本の稲作にかかわりのある長江文明の存在もある。

長江文明は黄河文明と共に中国文明の代表である。

この文明はふるい。

長江文明

時期として紀元前14000年ごろから紀元前1000年頃といわれている。

縄文時代と大体同じである。

最初は中国の文明の発祥は黄河流域であり、その広がりが長江と思われていたが、河姆渡遺跡(かぼといせき)の発掘でその説は覆された。

紀元前6000年から紀元前5000年頃の大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見され、その住居は高床式だった。

長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。

そして日本の稲作もここが源流と見られる。ウィキペディア

 

日本式の神殿は高床式である。

このつながりは大きい。

 

また、一つの大きな国家ではなく複数の古代文明の集まりである。

黄河文明は長江文明と敵対しており、結局征服された。

そして後の楚・呉・越などの祖になっていると考えられる。

 

ちなみに中国では倭人を「呉の太伯の子孫」とする説がある。

日本の和服を呉服といったり、漢字の読み方に呉音があったりする。

呉音は漢音を学び持ち帰る以前にすでに日本に定着していた漢字音であり、いつから導入されたものかは明確ではない。

『古事記』の万葉仮名には呉音が使われている。

たとえば「日」という読み方で「じつ」が漢音で、「にち」が呉音である。

 

ライバルとして呉と越は存在していた。

結局、越の勾践は、呉の夫差の命だけは助けようとしたが、夫差はこれを断って自害し、紀元前473年呉は滅亡する。

この話は、日本人の武士道に通じるところもある。

さらに臥薪嘗胆、呉越同舟などの言葉もある。

呉人が日本皇室の祖先だという説に腹を立てたのが水戸光圀だ。

水戸黄門像

彼はその結果「大日本史」の編纂を開始したのは有名な話である。

呉が滅亡し、日本に逃亡して大和を作ったという話は信じられないが、日本に影響を与えた渡来人だったことは、間違いないと思われる。

越もまた日本とのかかわりが大きい。

 

越は紀元前600年頃から紀元前334年に存在していた。

稲作、断髪、鯨面(入墨)など、百越と倭人の類似点が中国の歴史書に見受けられる。

言語にも共通性があるという研究がある。

私は鳥越憲三郎氏の、もっと大きなくくりの倭族の説をとっている。

呉も越も同じ倭族であり、長江に残ったものたちと、日本に渡ったものたちがいたと思われる。

日本に渡った倭族は日本人となり、中国の長江にとどまったものたちは呉、越になったと解釈する。

 

最近、話題になっている四川の三星堆遺跡にも倭人の文化のにおいがする。

三星堆遺跡

鳥飼行博研究室
http://www.geocities.jp/torikai007/china/history/sanseitai.html

青銅神樹と呼ばれる青銅製の扶桑樹。

 

扶桑は東方のはてにある巨木である。

後世、扶桑・扶桑国は、中国における日本の異称となったが、それを受けて日本でも自国を扶桑国と呼んでいる。

中国の四川という地域になぜ扶桑があるのかは、大きな謎である。

中国はまだまだ研究が進んでおらず今後の成果が期待されている。

モンゴル

モンゴルといえば、あの元寇が知られている。

しかし、古代日本とのかかわりに関してほとんど資料がないが、近年発見もあった。

日本とモンゴルの文化交流は古代から!?オルドス式銅剣発見!

日本とモンゴルの文化交流は古代から

産経EXPRESSより記事抜粋引用 2013.8.9

中国の華北や内モンゴルに分布したオルドス式銅剣の特徴を持つ双環柄頭短剣の鋳型が国内で初めて滋賀県高島市の上御殿遺跡で出土し、県文化財保護協会が8月8日発表した。弥生中期-古墳時代前期(紀元前350~紀元後300年ごろ)のものとみられる。
http://mongol.blog.jp/archives/51764246.html

まあ、今回の鋳型は純正のオルドス式銅剣ではなく、かなり簡略化されたもので、単純な短剣の鋳型だと専門家は見ている。
http://www.rekitan.co.jp/styled-2/styled-20/blog-2/files/7cfd6efc9e6a80999fbf5037218267da-23.html

 

しかし、朝鮮半島や北九州で発見されていない、モンゴル青銅器の鋳型が、日本のど真ん中、琵琶湖の滋賀県で発見された事は一つの驚きである。

朝鮮半島経由以外の中国大陸(長江文明)とのつながりの可能性があったという証拠になりそうなのだ。

しかしその年代は紀元前350~紀元後300年ごろと600年も幅を取っている。

これだと何もわからないのと同じである。

モンゴルは、現代の相撲界に燦然と光を放っている。

白鳳などモンゴルの横綱は、日本人とまったく変わらないように見える。

古代モンゴルとの接点は不明だが、今後の研究で大きく変わる可能性があると思う。

ロシア

この国と日本の関係は深いと推測されている。

出雲風土記の「国引き神話」に、ウラジオストック(ロシア)と推測される可能性があるからだ。

八束水臣津野命が、四方から国を引き寄せたという。「四方」とは

(一)志羅紀の三崎──新羅
(二)北門の佐紀の国──ムスタン岬(北朝鮮)〈大社町鷺浦。岩波〉《北門》
(三)北門の良波の国──ウラジオストック〈八束郡島根村農波。岩波〉《北門》
(四)高志の都都の三崎──能登半島

古田史学会報 歴史の曲り角(一)
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou54/furuta54.html

これは仮説だが、出雲の国際性を考えれば可能性大とおもう。

また、北経由で来た日本人の元になる人々の事もあり、関係は大である。

しかし未研究な部分も多く、推測の域を出ていない。

東北地方は稲作時代といわれる弥生時代がなかったとされていて、中国の影響は少なかっただろう。

だが縄文時代中期の三内丸山遺跡の事もあり、ロシアが東北地方に大きな影響力があったことは容易に推測される。

 

長文となったが、日本に影響を与えた国は色々あった。

これらの文は、色んな文献やホームページに書かれている事をまとめたものである。

遺跡や古墳のホームページや印刷物の注釈も、読む人は読む。

 

ほったらかしにしないで、現在の研究の成果を基にした解説を更新しなくてはならないのだ。

日本人の税金を使って運営されているページは、常に更新しなければならない。

なぜかというと、日本の歴史を考える事は、とても大切な事だからである。

 

いいかげん書き直して欲しい「朝鮮半島からの影響」という注釈” に対して2件のコメントがあります。

  1. 末岡幹夫 より:

    面白いです❗
    シェアします

  2. artworks より:

    コメントありがとうございます。古代史ファンの皆さんは、こう思っているのではないでしょうか。朝鮮半島という地域はたしかに、中国文化の通り道だったのは間違いないのですが、歴史を見れば様々な国が興っては消え、統一されたのはかなり後になってからです。古代に朝鮮半島文明が栄えていた的な文章を見るたびに憤りを感じており、この文章を書きました。

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