男系男子の話 崇神天皇が万世一系をスタートせた
日本の皇室は男系男子で、長い間続いてきた。それがこの頃、女性天皇ではなくて女系天皇を押す人が出てくる。
この議論の中には、男女平等というヨーロッパの新しい概念が下敷きになっているのは誰の目にも明らかである。
何千年も続いている伝統を皇族以外の人達がいいとか悪いとかいうのだ。民主主義の時代と言っても、場違いな議論だと思う。
何でもかんでも多数決っていう民主主義や、すべての権威を排除しようとする共産主義。
過ぎたるはなお及ばざるがごとし
もっと人間に即した考えがあると思うのだが・・・。
さて今回の男系男子の話は、そんな話ではない。
男系男子を推すという話でもない。
なぜ日本の皇室は何時から男系男子なのかということを調べてみたい。
まず手始めに世界王室を調べてみると、日本と同じ国があった。
ヨルダン・ハシェミット王国。
男子のみ、王の直系を傍系より優先。王の直系の中で、長男子及びその男子孫を次男子以下の男子及びその男子孫より優先。
国の歴史を見れば現在の王家は1946年に誕生したとある。かなり若い国である。
宗教はイスラム教が93%。なぜ男系男子になったのか調べてみたが不明だった。
ただ、国の位置が東西南北をイラク、サウジアラビア、シリア、イスラエル、パレスチナといった域内の強国や紛争当事国・地域に囲まれている事や65万人以上のシリア難民を受け入れていることを考えれば、王家存続のために、男系男子という厳しい道を選んだのかも知れないと思う。
この状態は参考になるような気がする。
それ以外では男子優先というのがある。
イギリス、スペイン、デンマーク王国である。王の直系を傍系より優先。王の直系の中で、男子及びその子孫を女子及びその子孫より優先とある。
ただし、現在、男系継承が残るのはスペインだけである。
ヨーロッパ王室は次々と男女の区別のない長子継承制に移行したのだ。
スウェーデンが1980年、オランダが1983年、ノルウェーが1990年、ベルギーが1991年、そして、前述のデンマークが2009年、イギリスが2013年である。
まあ、外国の話なのだが、ここにも男女平等の波が押し寄せている事はよくわかる。
王室の長さから言えば、一位は当然日本で125代続いている。次はデンマークで54代、3位イギリス40代
王室の長さランキングより
https://honkawa2.sakura.ne.jp/9570.html
日本の男系男子が何年続いていたのかは、いろんな議論があるので避けるが、短く見ても1500年は続いている。
これは戦争だらけの世界で稀有のことである。
万世一系を決めたのは誰
王室のある国はその後継者を決めるときに、その国の事情が考えられる。
どんな制度が優秀かといえば、長さを基準にすれば日本の男系男子がダントツ一位なので、男系男子が一番優れていると言える。
しかし男系男子の道はいろんな条件が備わっていなければ、かなり厳しい選択だ。
日本の場合、その男系男子は誰が決めたかといえば、それは当然天皇が決めたのである。
記録に残っているのは日本の第10代天皇、崇神天皇(すじんてんのう)である。
即位4年、詔を発して万世一系を謳ったとあるからだ。ウィキペディアより
なぜ、崇神天皇は万世一系を謳ったのだろうか。その理由を考えたい。
ここでDNAの話を一応しておく。
「神武天皇のY染色体」理論がある。
「父親のY染色体を受け継ぐのは息子だけであり、母親の父親のY染色体が受け継がれるということはない」という科学的な事実がある。
だから男系男子は正当であるという話が出てくる。
古代より行なってきたことだが、実は科学的根拠があったと、私も大興奮したものだった。
確かに面白い話だが、この話は近代の科学の話である。
古代の人が、現代の科学のことを知るわけがないし、騒ぐのは勝手だが、やはりやめた方がいいと思う。
科学はどんどん進化していき、この遺伝子の話も変わるかもしれないのだ。なのでここでは議論しないことにする。
初代の神武天皇と第10代の崇神天皇は同じ天皇だったという話がある。
そうかも知れないと思う。
いやもっと複雑なストーリーがあったのかもしれない。
どちらにせよ、第10代の崇神天皇は万世一系を謳ったのである。
なぜかといえば、それまでの時代が万世一系でなかったからだという事にならないだろうか。
崇神天皇以前
欠史八代(けっしはちだい)は、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代の天皇を指す、歴史学の用語。『古事記』や『日本書紀』にその系譜が記されている初期の天皇の系譜は、その多くが後世の創作によるものと見られ、欠史八代の天皇が実在した可能性は学術的にはほぼ無いとされる。ウィキペディア
なるほど。欠史八代がなかったとすれば、神武天皇の次が第10代の崇神天皇となる。
神武天皇と崇神天皇が同一だったという説もある。
神武天皇と崇神天皇が同一だった場合
つまり崇神天皇が神武東征を行なった人物となる。その逆もあるか。
となれば古事記の話が全部作り話だったという事が第一前提なので、自由に考えていいだろう。
神武東征がなかったとしたら、最初から崇神天皇は大和にいたことになる。
そうすると、万世一系を言い出すのは普通か。
つまり自分自身の子孫を後継者にすることで、王権の安泰を図るためである。
それにしても男系男子は少し厳しすぎないだろうか。
なぜ万世一系という考えに至ったのだろうか。
崇神天皇が考古学上実在したとすれば治世時期は3世紀後半と推定される。
もし崇神天皇の考えに影響を与えるとしたら、それは中国大陸の王朝だろう。
歴史を見れば、三国時代(220年~581年)となる。
歴史書に残っている事実だけを記す。
『晋書』泰始二年(266年) - 倭の遣使が入貢。邪馬台国からの最後の入貢。
『三国史記』新羅本紀
287年 - 倭軍が新羅に攻め入り、一礼部(地名、場所は不明)を襲撃して火攻めにした。倭軍は新羅兵千人を捕虜にした。
こんな時代である。
注 ここでは邪馬台国の卑弥呼の存在に関して議論しない。面倒くさくなるからだ。
崇神天皇は女性王国(邪馬台国)の存在を知っていたと仮定する。そうすると、私の国は男系で行くぞって考えたのかもしれない。
邪馬台国のことは知らないでも、中国王朝の噂は知っているはずだ。
崇神天皇の治世時期は3世紀後半と言われている。
となれば中国王朝は西晋である。初代皇帝の司馬炎は三国時代を終焉させ、後漢末期以降分裂していた中国を100年振りに再統一している。
ただ、この英雄は統一事業を完成させると急に堕落している。その後も一族の混乱は続き、結局、司馬炎系の西晋の皇統は断絶している。
まあ、大和の国で中国王朝の西晋の内情は深く知る由もないが、世代交代で国が乱れていったことぐらいは知っていたかも知れない。
まあ崇神天皇の考えを知ろうとするほうが無理かなと思う。
ただ、皇統を続ける方法として男系男子というのはどうだろうか。
結構大変だと思うし、色んな権力者が存在した場合、男系を続けるのはよほど力と信念がなければ、無理だろうなと思う。
となれば、崇神天皇の時代はある程度、天皇家の権力と権威が抜きん出ていた時代だったと考えたい。
そうでなければ、無理だからだ。
崇神天皇の前に神武天皇の存在がいた場合
記紀には神武天皇が色んな女性に手を出して、政権が困難だったという話はない。
ただ、宮崎にいた頃、隼人系の女性と結婚している。
そして東征を成功させると大和関係の后をもらい子供もある。
隼人系と大和系の後継者がいたのだが、大和系の後継者が隼人系の後継者を処刑している。
自分の子孫を残す場合、日本人同士なら、男系だけで事足りるような気がする。
ただ男系男子になると、他の権力者の侵入をかなり制限できるという利点がある。
男系男子の厳しさは、前の天皇を参考にして、決めたという線は大きいと思う。
神武天皇の場合、隼人系の流れだろう。
神武天皇は隼人系の嫁さん(吾平津媛)がいて、子供(手研耳命)も出来た。
しかし神武が東征を成功させると、大和の女性(事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命)と結婚する。
ここでも男子の後継者(神八井耳命、神渟名川耳尊)が出来たのだが、隼人の息子を謀反人として陥れ(タギシミミの反逆)、隼人排除に成功している。
なぜ隼人を排除したかといえば、隼人族は日本民族ではなかった可能性が高い。
崇神天皇はそのことを大いに参考にして、他民族を後継者から排除することで、争いを極端に防ぐことを決めたのである。
やはり先代の神武天皇死後の争いは、十分参考にしたはずである。
欠史八代の天皇が存在していた場合
これは欠史八代の天皇たちがどんな治世を行なったか気になるところだ。
ところが記録に載っていないし、全くの不明である。それどころか、すべてが後世の創作によるものと見られ、欠史八代の天皇が実在した可能性は学術的にはほぼ無いとされている。
まあ、古事記だって偽物扱いされているのだ。学術的に否定されても、後にひっくり返った例はたくさんあるし、ここでは、それを議論しない。
古事記にとりあえず書かれているので、神武がスタートした大和王朝は順調に続いたとする。
前にも書いたが、崇神天皇はかなり聡明だったらしい。それなら、これまでうまく言っているのに、改めて即位4年に詔を発して万世一系を謳うだろうか。
ここのところを注目すると、やはり問題があったと推理したい。
ただ、記録にはないので、崇神天皇の治世を見てみたい。
ここで大注目したいのは、天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出すことにした事である。
その理由は疫病が流行して人口の半ばが失われたからだとある。
代わりに大物主神と大田田根子にさしかえる。
大物主神は三輪山で祀られている神である。
これを具体的な例で考えてみる。
大物女優がいて、その人の人気で盛り上がっていたのだが、勢いがなくなり悪評判が立つようになった。あるいは大物女優の関係者が、制作サイドに口を出す様になったとしよう。
だからスポンサーは大物女優を切り捨てた。
そんな裏話が聞こえてきそうである。
もともと天照は大和朝廷の神ではなく、世間一般の伝承による女神(阿麻て留・あまてる)だった。それを大和国をまとめるために、その事を利用していたのだ。
これも又賛否両論があるだろう。
対馬にある神社で、神の名前は「天日神命(アマノヒノミタマノミコト)」と言う。
もう一つ有名なのは、「木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社」で京都市右京区太秦にある。
渡来系氏族の秦氏の本拠地でもある。
さらに太陽信仰(お天道様)は、自然宗教の日本とすれば、日本中にあったと考えても不思議ではない。
また崇神天皇の時代は古事記も日本書紀もなく、天照大御神が皇統の祖先という考えはなかったはずである。
だから、崇神天皇の宮中に祀られていたのは、古事記の天照大御神ではなかった。
なので国をまとめるために歴代天皇が、一般の太陽信仰を利用して、宮中に祀ったものだと推測する。
だから、崇神天皇は思い切って、大和にゆかりの深い大物主(男性神)に切り替えて、天皇家を大和で固める決心をしたのだ。
そうすると、女系の神様の存在は、邪魔になってくる。
つまり女性天皇を容認することになるのだ。もしくは女系天皇を生み出す元になる。
先程も書いたが、天照は汎用的な神様で、色んな所に伝説が残っている。
その事を利用して、大和の天皇家にすり寄ってくる可能性が高い。
崇神はその事を避けたかったのである。
なので最初、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に都を移す。
大物主を引き入れる伏線である。その後、詔を発して万世一系を謳う。天照を宮中から出すという手順を踏んだのだ。
万世一系の男系男子の流れは、権力者の天皇家混入を防ぐためである。
崇神にはそれが出来るパワーが有ったのだ。
日本が男系男子である理由は、日本の危機を考えて実行したシステムだったのである。
もちろん崩壊する恐れもあるが、崇神は断行した。
ただ一つ疑問なのは、天照を追い出すと神の直系という錦の御旗を手放すのではないのかということである。
しかし、これは後年の古事記の話でもある。
その当時は天照系は、国の存亡を脅かすほど駄目だったのかと思う。
まあ日本にもよくある話である。
おごる平家は久しからず、藤原家の没落、栄枯盛衰は世の常である。
結局、男系男子の系譜は権力と権威を切り離すことに成功している。
世界中に男系男子の系譜が根付かなかったのは、権力の攻防に王権が左右されていたからである。
日本は島国である。他国の干渉も極端に少なかった。
だからこそ、貫けたのである。
ただ、いや天照大御神は天皇家の祖神だったという説も当然ある。
たとえそうだとしても、崇神天皇の時代の悪災を天照大御神にすべて肩代わりしてもらったと考えたい。
そして、女性の絶対神の存在を弱めたとも言える。
これまでの天照大神(女性)と倭大国魂神(男性)のコンビを大物主(男性神)と大田田根子(巫女)に差し替えた事には、イザナミ、イザナギの女性が誘うと不具の子が生まれるという神産みの伝説に倣ったのかも知れない。
いずれにしても、女性を介して他民族が宮中内部に入ることをシャットダウンしたことになる。
この文章を男女平等主義の人やジェンダーフリーを盲信する人たちが読めば、烈火の如く怒られるかも知れない。
まあいい。
男女平等が成立するには、まず国が安定しているから出来る議論である。
男系男子という日本の皇室の選択が、世界の中でまれに見る権威の継承が出来る制度で、群雄割拠して国が乱れた時代でも、天皇の権威が日本国を外国から救ったという実績がある。
崇神天皇が万世一系、男系男子をスタートせたという推理はこれで終了する。
だが、崇神天皇の話も後世の作り話だったら・・・
これは永久に謎になるだろう。