ヤマトの祖は黒潮系縄文人

高天原はご存知、日本神話の神々の住む場所である。

 そしてその地から、人間の子孫が地上に降りてきたという天孫降臨伝説がある。

 古くは本居宣長の天上や、天より高い宇宙説があるし、ただの作り話という説も当然ある。

 それ以外は、高天原伝説のある地も多く、地名や伝説から色んな場所を比定している方も多い。

有名なのは九州宮崎の高千穂(たかちほ)や高原町(たかはるちょう)で、和歌山県の高野山、信州川上村の高天原、鳥取県の霊石山・伊勢ヶ平などもある。

 どこかという決定打はないが、やはり宮崎県の高千穂が一番知名度が高いようである。

 古事記の高天原が、架空ではなく史実を反映しているという説に私も賛成である。

 そこで、ある程度の場所の比定を行いたい。

湿地帯が日本?

高千穂といえばやはり天孫降臨である。

天照大神の孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)は葦原中国(日本)に降りてきて、統治する事になったという話である。

 葦原中国を直読みすれば、あし (葦) の群生する地上の世界のことを言う。

 ここがよくわからなかった箇所である。

あし (葦) の群生する地域は、河川の河口である。

 つまり、湿地帯だ。

 湿地帯以外にも、高原や平野はたくさんあるのに、なぜ湿地帯を日本といったのだろうか。

 日本書紀では日本を、「豊葦原千五百秋瑞穂國」と書いている。

 解説によると

 一般に、豊(とよ)の国は九州北部の国東半島(大分)

葦原(あしわら)は出雲地方(島根)

千五百は「ちいほ」で周防(すふぉ)

秋(あき)は安芸(あき)

瑞穂(みずほ)は美作の国とされている。

それ以外では

豊葦原 豊に葦が生い茂る原

千五百秋 限りなく長い年月

瑞穂国 瑞々しい稲穂が実る国という説もある。

いずれも水田の風景をさしている。

 逆に言えば、高天原の住人は、稲作を行っていない人々だったという事だ。

 神様だから、稲作なんかしないという反論は当然あるだろうが、日本らしい場所は他にいくらでもあるのに、わざわざ湿地帯を「日本」だと言い切るのは理由があるのだろう。

 一変した稲作の始まり

 最近の学説では、稲は縄文時代からあったという。

 縄文人は、稲の栽培は畑作にとどめ、水田というやり方は知っていたが、手を出そうとはしていないふしがある。集団で同じ事をする作業に、違和感があったのだろう。

しかし、結局北九州で水田をはじめ、そこから九州全体に広がっていった。

国立歴史民俗博物館の研究グループの研究結果を踏まえて言えば、かなり、ゆっくりとしたスピードで水田稲作は九州に広がったとされている。 

弥生文化の伝播

 従来の考え方

紀元前5~4世紀ごろに九州北部に水田稲作をもたらした南部朝鮮からの渡来人と、在来の縄文人とが融合してつくられた弥生文化は、100年強ほどで西日本一帯に一気に拡大し、短期間に急激な人口増加や階層分化をもたらした。

新しい年代感

水田稲作の拡大力は従来考えられてきたほど強力ではなく、その開始から数百年ほどかけてすこぶる緩慢に、日本列島各地に普及・定着していった。

二つの年代感を比べてみれば、真逆である。

北部九州から畿内へ水田稲作が到達・定着するのに、400~500年の期間がかかった可能性が高くなった。人口の増加もいままでより時間が長くなり、ゆるやかな増加になる。

弥生時代の開始年代
http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/yayoi.htm

新しい科学的な年代測定は、弥生時代の考え方を一変させた。

これにより、弥生人がすべて渡来人という考え方は捨てなければならないだろう。

縄文から弥生時代に移った理由

超スローライフを続けていた縄文の人々にとって、変化を余儀なくされた理由に、気候や地形の変化がある。

暖かく食料が豊富な時代に縄文文化は存在していたが、縄文後期に入ると気温は寒冷化しはじめる。

さらに縄文時代の終わり頃から弥生時代の初め頃にかけて弥生海退と呼ばれる海水面の低下がおきはじめる。

その結果、西日本や東北では新たに低湿地が増加した。

これが、水田時代、つまり弥生時代の始まりだったのだ。

低湿地に適したのが水田だったのだ。

縄文は山の民の文化だ。

縄文時代には大きな石の建造物もなく、大きな国があった形跡も発見されていないが、独自の文化があったことは確かである。

例えば三内丸山の縄文遺跡は、大型の見張り台や、栗の木の栽培など、その文化性の高さを証明したものだ。

しかし、文化といっても様々である。

縄文時代の文化とは、海の道を最大限に生かした交易である。

そして、それは日本だけではなく、中国大陸にまで絡んでいたのだ。

一例を挙げると、縄文時代には様々なアクセサリーや装身具が使われていた。

そのアクセサリーの中に耳飾がある。

これは中国との交流によって縄文に移入された文化と学会でも推察されている。

縄文人は、山の中で細々と暮らしていたわけではない。

海辺の民は活発に動き、我々が想像する以上に中身の濃い文化があったのだ。

三内丸山遺跡が発掘されて、縄文時代の見方が大きく変わり、世間が大騒ぎしたが、縄文をかいかぶりしてはいけないという学者もいる。

たしかに、そうかもしれない。

しかし、原始人と変わらないという見識も想像でしかないのだ。

弥生時代の幕開け

海が後進し、湿地帯が多く出来た。

そこで稲作を始めた人たちがいた。

山や高台から川辺、海辺に住む地域を移して、新しく出来た湿地帯を水田として活用し始めたのだ。

しかし、急速ではなく実にゆっくりとしたスピードで弥生時代はスタートした事を忘れてはいけない。

神武天皇即位紀元

日本書紀には日本の初代天皇とされる神武天皇の即位は、日本書紀に辛酉の年とあり、紀元前660年1月1日と比定されている。

もちろん、史実とは考えにくい。

紀元前660年といえば弥生時代である。

これまでは、まったく問題にもされていなかったが、今回奇妙な信憑性を帯びてきた。

日本が稲作をスタートさせた時期から、ヤマトの芽生えはあっったはずである。

もしかすると、まったくの出鱈目ではないのかもしれないと思った。

天孫降臨の話は先にも書いたが、高天原から葦原中国(日本)に降りてきた話である。

弥生時代のスタートは、上述の通り「弥生海退」という自然現象からスタートした。

弥生海退で出来た湿地帯こそ、葦原中国なのだ。

水田地帯は、新しく出来た土地である。

まさに国の始まりとも言える。

当然長江付近の人々や、朝鮮半島経由でやってきた人たちも混じり、ゆっくりではあるが水田の国になっていく。

しかし、当然水田に参加しない縄文の民たちがいる。

その山の民こそが、古事記に残る高天原の住人たちであったのだ。

南九州の古代文明

神武天皇が初代の天皇といわれている。

日本書紀では、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦(神武天皇)は東征を開始した。

その時、大住隼人と阿多隼人は同行している。

東征の理由は、

「東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。よって、この地を都とすべきだ」

である。

何故、神武天皇は、隼人と共に東征を開始したかは、わからない。

そして、東に同胞がいると何故知っていたのか。

このあたりが、大きな謎である。

日向国の地、高千穂宮とは九州の宮崎あたりだという事は、一般的に認知されている。

なぜ、南九州に、大和の故郷があるかというと、南九州は縄文文化が栄えていただからである。

鹿児島の上野原縄文遺跡に弥生時代と同じ土器

鹿児島には、日本列島で最古の大規模な定住集落跡が発掘されている。

それが上野原遺跡である。

縄文文化というと東日本がメインと思われているが、九州にもハイレベルな集落があったのだ。

これまでの調査によれば9500年前、定住集落があり3000年間続いていたとされる。

あの三内丸山遺跡より前の時代だ。

さらに、世間を一番驚かせたのは、弥生時代と同じ土器の出現である。

7300年前に作られたと思われるかなり大きな「つぼ型土器」が見つかったのだ。

出土した壺形土器

その用途は、稗、あわなどの雑穀貯蔵ということが判明した。

これは事実である。

上野原縄文遺跡人はどこから来たのかというと、フィリピンあたりの南洋の民たちが黒潮に乗ってやってきたらしいと推理されている。

これに関しては、NHKの番組、日本人はるかな旅 第2集 「巨大噴火に消えた黒潮の民」で映像化されている。

ユーチューブにアップされているので、興味のある方はごらんいただきたい。

黒潮文化圏といわれる太平洋側には、各地にその痕跡が発見されている。

高知県四万十川付近や和歌山県には、南九州と同じ、磨製石斧が発掘されている。

和歌山県では、約1万3000年前の石製の槍先(有茎尖頭器)が各地で出土する。このことから、縄文時代草創期より狩猟・漁撈・採集を生活基盤とする縄文人が活動していたことがわかる。

なかでも興味深いのが、子どもの墓と推定される2基の埋甕。甕自体は西日本で多数出土する船元式土器を使い、埋葬様式は東日本の祭祀形式で行われている。

紀伊半島を拠点とした縄文人像がくっきり – 和歌山県

http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000200/ren/pdf/ren1/p20_p21.pdf

ここで、前述の神武天皇の文章を思い出していただきたい。

「東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。よって、この地を都とすべきだ」

という内容である。

「東に同胞がいると何故知っていたのか」という謎はこれで解消される。

古代から続いている黒潮文化圏の民たちが、九州、四国、和歌山に定住をしたのは間違いない。

つまり太平洋側の縄文集落は同胞だったのだ。

しかし、6300年前、鬼界カルデラの大爆発がおこり、南九州の文化は壊滅してしまった。

この未曾有の大噴火は、南九州だけではなく、日本中に大きな影響を与えたとされている。

火山灰は東北まで届き、大津波が九州を襲った。

西九州に縄文の遺跡が発見されにくいのは、このせいである。

噴火後1000年ほど、九州は死の土地だった。

これもまた事実である。

鬼界カルデラが破局的噴火するとこんな感じ ツイッター Ryo@mania34

いろんな本には、縄文文化は根絶やしになったと書かれているが、それでも九州は復活したのだ。

黒潮文化圏は復活し、大噴火の生き残りたちも長い年月を経て再生していく。

九州の、熊襲、隼人、ヤマト一族はその生き残りが祖となっているのだ。

ヤマトの祖は黒潮系縄文人

復活を遂げた九州縄文人たちは、それ以降にも火山に悩まされ続けている。

阿蘇山や長崎の雲仙、霧島、桜島など現在でも健在である。

阿蘇山の噴火

そしてその後、ヤマト族は少人数の一族を引き連れて、九州を離れ東に向かう。

九州を離れた理由は、北部九州勢力、つまり邪馬台国の台頭と火山噴火の脅威だ。

そして東には、同胞の黒潮系民族存在していたからである。

それが神武東征だ。

その後は、様々な歴史書に書かれている通り、ヤマトは大きな勢力となっていったのだ。

縄文の記憶と古事記

古事記は上皇の命によって、詩文を選び、書物を編纂されたとされている。

そしてその内容は、不思議と縄文の記録とシンクロしているのが読み取れる。

もしかすると、天皇家だけに伝わる真実を選んで、編集したのではないかと思えるくらいだ。

縄文終わりから弥生を含めると、はるか昔の話である。

そんな時代の歴史が、語り継がれるはずはないと思われるだろう。

しかし、それは現代人の思い込みではないだろうか。

今、記録といえば文字である。

文字が日本に伝わり常用されるようになったのは、飛鳥時代以降である。

文字による記録は確かに、概要を伝えることが出来る。

しかし、文化は文字だけによって伝わったのではない。

石器にしても、土器にしても、農業にしても、文字がなくても確実に伝わっている。

文字がなくても、海洋民族の航海技術は進歩してきた。

私たちは文字の便利さを過信し、過大評価をしているのではないだろうか。

文字の伝える情報は、それほど多くない。

絵や創作物、音楽は、文字の何百倍の情報をもてるのだ。

文字を持たなかった文化は、中国四川の三星堆文化やアンデス文明などがある。

しかし、優れた文化が引き継がれいるではないか。

現代のように、個人が地域の関係も持たず、暮らしているのではなく、古代は家族や一族が暮らしていた小集団が主であった。

そこで伝えられる事は、何百年も何千年も正確に伝わっていったのではないだろうか。

伝えるのは、時間ではなく一族の歴史である。

伝える事実は変わっていったかもしれないが、真実は伝わっていくはずである。

もう一つのみんなの疑問は、縄文の文化の度合いである。

現在、弥生時代に渡来した民族がヤマトを作ったとよく言われている。

その考えのもとには、縄文の文化のレベルを疑っている事にある。

しかし、縄文と弥生時代の文化の差はどれほどあるのだろうか。

弥生時代、米を貯蔵するために、外来由来の土器が作られたといわれているが、7300年前に作られたと思われるかなり大きな「つぼ型土器」が鹿児島の上野遺跡で発見されている。

形も大きさも、弥生土器とそっくりである。

出土した壺形土器

弥生土器後期(こうき)の土器

逆に考えれば、弥生時代といわれる紀元前10世紀と、縄文時代の文化程度は同じといえるのだ。

古事記とシンクロしている縄文、弥生の歴史

古事記にある、天照大神の太陽が隠れた話やヤマタノオロチの話など、災害に関係しているのは間違いないだろう。

スサノウは高天原の住人の癖に、乱暴者である。

これは、高天原が山地に存在していた事であり、スサノウの乱暴は、高天原である山地でたびだびおこる火山の噴火をさしている。

古事記の海幸彦、山幸彦の話も示唆的である。

この話は、最終的に山幸彦が海幸彦を懲らしめるという話だ。

話では山幸彦はヤマト族の祖先で、海幸彦は隼人族の祖先ということになっている。

やはり、ヤマト族は山側の一族なのである。(渡来人と呼ばれている民は稲作民族なので、山には住んでいない)

ここでも、ヤマト族は高地出身といえる内容をはらんでいる。

ヤマトという名前も、隼人などと同じく山の人や山の台地に住む人、山の入り口の山門という意味合いを持つ名前だろう。

高天原は天上界となっているが、なんとか原はとてもありふれた地名である。

つまり、高天原の名前もヤマトの名前も、とてもありふれているのだ。

ありふれているからこそ、事実の匂いがするのだ。

住み分けの構造

縄文の生活様式は、自然が生み出す食料を採取することが主であったため、山側の高地や海沿いに住んでいたとされる。

縄文時代、様々な文化を持つ他民族が住み分けして暮らしていた。

海の民、山の民である。

貯蓄のない文化なので、住み分けが可能なのだ。

原山支石墓群

例えば、島原には日本国内の支石墓遺跡としては最古最大級のの原山ドルメン(支石墓群)は、丘というより山に近い高地にある。

山の民であったのだろう。

同じ島原の南部の海岸近くには大規模な縄文後期の大野原遺跡遺跡がある。

こちらは海の民だったと推測される。

縄文王国説

縄文から弥生への稲作文化様式の移行は、これまで定説だった急激の変化ではなく、かなりゆっくりとしたスピードだった事は前述した。

気候の変化による、森の木の種類の変化、海岸線の後退などにより、一部の縄文の民は湿地帯での水田稲作へ手を染めていった。

その時から、九州内で富の蓄積が起こり、権力意識が発生し王権が誕生したと思われるのだ。

この変化に伴い、稲作文化を持つ中国南部の長江の民たちが少しずつ、九州に根付いていったのだ。

これまでの考え方は、縄文人は原始人のようで文化の程度も低く、狩や魚を取ることぐらいしか出来ない、遅れた民だったという先入観が根付いている。

これまで三内丸山の遺跡がどんなに素晴らしくても、鹿児島の上野原遺跡が縄文時代早期に集落を作り、弥生土器と同じような壺形土器を作っていたという事実があっても、一般の学者の人たちの縄文のイメージは変わってはいないだろう。

しかし、「日本語」が変わっていない以上、弥生時代の九州を支配していたのは、日本人である縄文の民が主流である事は間違いない事実である。

縄文人主導の稲作文化

今までの説のように、弥生人と呼ばれるほどの大量の稲作文化の渡来人が九州を席巻したなら、もっと高速で水田は広がるはずだし、言葉だってその渡来人の言葉になっているはずである。

そうならなかったのは、縄文人主導の稲作文化だったからである。

水田稲作を縄文人が始めた証拠がある。


佐藤 そうなんですよ。確かに見掛けは水田ですが、やっていたことは焼畑などの雑駁農耕だったんです。

これは曲金北遺跡だけでなく、全国の弥生遺跡に共通する特徴です。

そうしたことから私は、ひょっとすると縄文晩期から作られたごく初期の水田は、縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで目にした水田を見よう見真似で作ったものではないかと思っているんです。

縄文人というのは、もともと流浪の民ですから、フットワークはかなり軽くて、朝鮮半島まで行くのなんて朝飯前だったんじゃないかと(笑)。

だからこの曲金北遺跡のように、水稲も陸稲もごちゃ混ぜの農耕を行なっていた可能性があると思うわけです。


教授対談シリーズ こだわりアカデミー
静岡大学農学部助教授 佐藤洋一郎氏
http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_all.html


縄文人は、稲の栽培はしていたが、水田の方法は知らなかった。

ここまでは、従来の説と同じなのだが、渡来人がやってきて稲作を教えた、もしくは渡来人が稲作を始めたという考え方はおかしい。

海外ボランティアでもあるまいし、そんな事をするわけがない。

もし日本にやってくるなら、命がけである。

日本には縄文の民がいる事も、海外の民たちは知っているのである。

殺されるかもしれないし、戦争になるかもしれない。

稲作というのは、食料となるには1年間かかる。

その間の食料も必要である。

こんな事を考えれば、ボランティアまがいの渡来系民族がひょこひょこやってくるはずがない。

水田稲作の稚拙さや、雑駁農耕がかなり長く続いていた事を考えれば、ためしにやってみた程度のスタートだったのだ。

高地性集落が高天原

日本の弥生時代中・後期に、平地と数十メートル以上の標高差がある、人間が生活するには適さないと思われる、標高100メートルを超える高地の山頂部や斜面に形成された集落である。

この集落は山城やのろし台ともいわれるが、長期間居住した痕跡もあり、狩猟用とは思えない大きさの石鏃(石の矢尻)も高地性集落の多くから発見されている。

高地性集落の分布は、弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸に、弥生後期に近畿とその周辺部にほぼ限定されている。ウィキペディア

高地性集落

http://hirohabe.cocolog-nifty.com/tiger/2009/09/post-4248.html

この高地性集落は、縄文系の民が支配者として住み着いた場所である可能性が高い。

そして弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸におおい。

これは、神武東征とシンクロしている。

弥生時代の集落は周囲に濠をめぐらして外敵の侵入を防ぐ環濠集落であり、水田に近い平野部や台地上に作られている。

つまり、環濠集落が「葦原中国」であり、高地性集落が「高天原」という結論に結びつく。

古事記の天孫降臨は、一箇所の話ではなく、邪馬台国などで飽和状態にある北部九州を離れ東を目指した、縄文系ヤマト族の物語なのだ。

これは、突拍子もない説ではない。

今までの、弥生時代に進んだ大陸文化と人々がやってきて、稲作と日本文化を作ったと言う説のほうがよっぽどおかしい。

朝鮮半島では紀元前4000年頃に櫛目文土器が出現しているが、日本は約1万6500年前、青森県大平山元(おおだいやまもと)遺跡から土器が出土している。

文化の古さでは桁が違うのに、騎馬民族征服説がもてはやされたり、教科書では縄文時代の記述がなくなったりしてきた。

これは、縄文時代の過小評価でしかない。

そしてその低評価は、まちがった理論を導き出してしまっている。

日本国が日本語を話す民たちで構成されている事実。

遺伝子の構成が、中国や朝鮮半島の民族とは違う事実(他の説もあり)

こんな基本的なことを無視しては、正しい過去を洗い出せないのだ。

もちろん渡来人の人たちの力も大きいし、大陸からの影響は大きかった。

しかし、日本古来の民、縄文人主導ではないと日本は成り立っていなかった。

これは事実である。

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