桃太郎考 モモは纏向遺跡、百襲姫のモモだ!!
日本の昔話で、色んな意味でナンバーワンなのが「桃太郎」だろう。
僕たちの頭の中には、物語が歌とともに刷り込まれていて何の違和感もない。
しかし、考えてみればいろいろ突っ込みたくなる内容だ。
桃太郎の原話の発祥は不明だ。
室町時代にこの物語は生れ、全国に伝わった時期は江戸時代のようだ。
有力説はある。
岡山の吉備津彦命が3人の家来と共に、「温羅 うら」と闘った話しが元になったという説である。
ちなみに吉備津彦命は第7代孝霊天皇の子で、姉に倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)がいる。
倭迹迹日百襲媛命は卑弥呼という説もある。
この温羅は吉備の外から飛来して吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして鬼ノ城を拠点として一帯を支配したという。 大和朝廷は、吉備津彦命に退治を命じ、見事退治したという。
この伝説については、様々な歴史学者が様々な見解を述べているので、詳しくはネットを参考にして欲しい。
235年続いた室町時代に桃太郎の話が始まったというが、室町時代は長い。
まだ、発祥は不明である。
古代、大和では一大事件が起こった。
纒向遺跡:大量に出土したコダイモモの種の謎
中略
纒向遺跡の発掘調査で、桜井市教育委員会(市教委)は大型建物跡を発見した。
その建物の復元規模は、3世紀中頃までの建物遺構としては国内で最大規模を誇る。
当時の新聞各紙は勝手に卑弥呼の宮殿跡が見つかったと紙面を賑わした(平成21年11月15日付け橿原日記参照)。
市教委は、今年度の調査区を大型建物跡の南に設定して発掘を続行してきたが、一昨日、建物跡の約5メートル南で3世紀中ごろの土坑が発見され、そこから全国最多となる2千個以上のモモの種が出土したと発表した。
モモの種は2センチ前後で果肉が付着したままの保存状態の良いものもあり、果実のままだった可能性が高い。
竹製のカゴ6点も一緒に出土し、カゴに盛られたまま投棄されたと推測されている。
モモの種は今までも近くの箸墓古墳や東田大塚古墳などで見つかっているが、一カ所から出るモモの種は多くても数十個程度だった。
2千個以上ものモモが一度に捨てられたとなると、異常な数と言わざるをえない。実はモモの数はもっと多かったかもしれないのだ。
発掘を担当した市教委の橋本輝彦氏は、「土坑の上部が破壊されており、モモの種は実際は出土した数の倍以上あったのでは・・・」と推測されているという。
つまり纏向遺跡は対抗勢力から襲撃を受けたのである。
その敵は、宮殿に保管していた祭祀用の4000千個もの桃を土坑の中に投げ捨てていたのだ。
さらに、人為的に割られた土器片や黒漆塗りの弓、ヘラ状木製品、剣形木製品、木製横槌(よこづち)、獣骨数点なども一緒に出土している。
単純に破壊されていただけではない。
とんどのものは鉄製の刃物で寸断されされたり、たたき割られて穴に投げ込まれていたという。
しかも、壊した祭祀用の製品のを意図的に一部分だけを捨てた可能性が高い。
明らかに怨恨の臭いがする。
それも、祭司を司っていた場所と人物を葬ったのではないか。
その祭司と祭壇は何のために破壊されたのか。
祭祀用の道具を壊して、わざわざ1部分のみを捨てた。
丸ごと捨てたほうが手間がかからないのに、手の込んだことをしている。
桃の実など、ほおって置いても、敵には問題ないはずである。
ところが4000千個もの桃の実を、わざわざ捨てている。
凄い量の桃を、わざわざ大人数で捨てたことになる。
通常の襲撃事件ではないことは明白である。
さて、ここからが推理である。
犯人は、祭壇を壊さなければならなかった。
そして、その祭祀用に使われていた道具を破棄し、祭祀そのものを葬りたかったという動機が見える。
纏向遺跡の桃をC14年代測定法で測定した結果、今から1720~1730年前のものだったことが報告されている。
つまり、西暦280年から290年頃に捨てられたモモの種だったことになる。
この時代というと、日本史では邪馬台国の時代である。
邪馬台国には、強力な女性シャーマンがいた。
卑弥呼である。 卑弥呼は鬼道を使うとある。
鬼道は中国の道教の流れをくむ。
果樹の話3・桃
古代中国では、桃は魔除け、不老長寿の効能があると信じられていた。
桃は道教が盛んになった古代中国の後漢時代(西暦25~320年)のころに、全土で栽培されるようになったという。
中国の明時代の長編小説「西遊記」で、孫悟空は、猿であるが好物は桃で、以前は桃を窃盗する常習犯であったが、三蔵法師に諭され、師の従者になって桃を食べ、飛行術を身につけ、九千年も生きたという。
卑弥呼は桃の効用を信じ切っていた形跡がある。
別の証拠が発見された。
飛鳥の真弓丘で牽牛子塚古墳の発掘調査によって、この古墳が八角形の墓であることが判明した。八角形古墳は道教の影響を受けた7世紀末の大王家の墓で、被葬者は斉明天皇ではないかと報道された。
卑弥呼他殺説
卑弥呼が死亡したのは、『魏志倭人伝』などの文献によって、3世紀中ごろの247年か、248年とわかっている。
そして、シャーマンとしての霊力が衰え、狗奴国との戦争に勝てないことを理由に、彼女を女王に共立した各国の王によって殺害されたとする説すらある。
卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当する)もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、葬者奴碑百餘人)。ウィキペディア
纏向遺跡は卑弥呼の宮殿で、箸墓は卑弥呼の墓であるという説が多い。
書物には箸墓は倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)とある。
三輪山伝説・箸墓伝説によると 百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。
不思議な話である。 箸が陰部を突いた為死んだ百襲姫の話しは本当だろうか。
これに反論している文がある。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1095321700
この墓の主は、ホトを箸で突く神事を担当していた日の巫女の王だった
本来は「この墓の主は、ホトを箸で突く神事を担当していた日の巫女の王だった」 この話しは信憑性がある。
百襲姫の死因はやはり他殺の疑いが強い。
この祭祀襲撃事件は、手の込んだ犯行現場の遺留品をみても、身内の仕業であり彼女を女王に共立した各国の王の誰かの指図によって殺害されたとみるほうが筋が通る。
祭祀襲撃事件の目的は、被害者、卑弥呼?(百襲姫?、天照?)の殺害とその祭祀に使われた、鬼道の道具一式だった可能性が高い。
注、この推理は、「纒向遺跡:大量に出土したコダイモモの種の謎」とかなりかさなってしまった。さらに多くの文を引用させて頂いている。この文を再度読んだが、共感するところ大である。引用、参考にしたことを再度記する。
その後邪馬台国は、男子王が立つがうまく収められず、台与という女性が党首になった話しは、歴史書の通りである。
話しはスタートに戻る。
桃太郎の桃は、纒向遺跡の捨てられた桃の生まれ変わりとしての物語ではないか。
纒向遺跡襲撃犯人はわかったとしても、名指して非難できない。
だから、桃太郎の敵は鬼なのである。
現実の歴史の中で、大和政権と張り合っていたのは、葛城王朝といわれている。 (これには他説あり)
そして大和葛城山は鬼の山なのである。
鬼の親分でもある役小角は葛城山で修行を積んでいる。
桃太郎には3匹の動物が登場する。
雉である。雉は、今では日本の国鳥だ。
古代と雉の関係だが、650年から654年の元号「白雉」がある。
この時穴戸(長門)国より献上されたのが白い雉である。
日本各地に生息し食用でもある。オスのキジは繁殖期の春になると、縄張り争いのため赤いものを攻撃する習性がある攻撃性もある。
3匹の中に空軍として雉が登場するのは理解できる。
犬も猿も大和には沢山いる動物である。 この3匹達は、大和の正当性を主張し、地域に住む動物代表だともいえる。
桃太郎は、纏向遺跡の事件でもわかるように、桃の化身でもある。
勇者なのに、なぜ柔らかく、女性的なイメージがある桃が選ばれたのかという疑問がここで解決した。
百襲姫ももそひめ(卑弥呼)の「もも」が桃太郎の「もも」なのである。
纏向遺跡の敵討ち話が「桃太郎」の原型だ。
相手は反勢力の魑魅魍魎達である。
もともと見目麗しき女性の「桃太郎」である。
その助太刀は、忠実なイヌ、利口な猿、日本の象徴、吉兆の雉だ。
http://yottyan.blog.so-net.ne.jp/2011-05-23
このシュチエーションは、中国の西遊記のアレンジだろう。
鬼道を取り入れた卑弥呼ならではの発想だ。
それ以外のモモから生れるや、きびだんごは後世のアレンジだと思われる。
きびだんごは新しい商品である。
モモから生れるの話しだが、邪馬台国は正史から拒絶されている。
纏向遺跡襲撃事件も、身内のクーデターみたいなものだ。
面と向かって復讐論をかざすのは出来ないのだ。
その後、誰かが室町時代に、伝承をまとめて桃太郎を作り上げ、江戸時代にアレンジを繰り返しながら、日本に浸透したと思われる。