第1次戦国時代。卑弥呼は織田信長
長崎市から、毎週金曜日、諫早市の教室に行く。
もう18年も続いている。 長崎市の山を超えていくバイパスで出る。
山を越えると諫早平野に出る。
大きくない平野だが、坂と山に囲まれた長崎とはやはり違う。
地平線がある。
そして毎週金曜日は、40分のドライブになる。
9月に入り、いつの間にか、秋が道ばたに現れてくる。
線路沿いの土手に黄色やピンクのコスモスの花が咲いている。
真っ赤な曼珠沙華も、仲良く咲いていたりもする。
秋に近づくにつれ、線路際の土手は、急に華やかになる。
夕方授業が終わると長崎に戻る。 行きとは逆の風景だ。
同じ道なのに方向が違うと、全く違う景色になるのは不思議だ。
今は日没がだいぶ早まって、平野なので運転席の真正面に夕日が落ちていく。
かなりまぶしく、運転も要注意だ。
秋になりかけの、夕日も又色鮮やかだ。
黄金色と赤とが混じり合った、美しい夕日だ。
しかし、これは特別なことではない。
地球が誕生し、人類が生れ、この地に人が住み着いてから 何千回も、美しい夕日が出現していた。 諫早の地は、長崎と違い平野なので、稲作が広く行われていた。
いつから稲作が始まったかというと、弥生時代とからと、僕たちは教科書で教わっている。
縄文の次の弥生である。ちなみにその次が古墳時代という。
およそ紀元前3世紀中頃~紀元後3世紀中頃と言われていて、この600年を弥生時代と呼んでいる。
教科書によれば、水田の技術を持ってきた集団が弥生時代を作ったとある。
本当だろうか。
実は、この弥生時代の定義が、今は大きく揺らいでいる。
実は稲作は、縄文時代からあったとか、紀元前10世紀ぐらいに、九州北部で水稲耕作がスタートというのが最近の研究のようだ。
あれあれ?
「水田の技術を持った、大陸の弥生人が、朝鮮経由で大量に九州にやってきた」ではないんだ。
弥生時代は、戦争が始まった時代だ。
有名な「邪馬台国の卑弥呼」は、この時代の有名人である。
『三国志』という歴史書の『魏志』倭人伝に、倭国が紹介されていて、邪馬台国は連合国家で、30もの国を従えていた。
現在日本は、47都道府県である。
九州に邪馬台国があったとすれば、北部九州に国が30以上もあったということだ。
まさに群雄割拠。 密度の高さは、必ず争いを生む。
小さくても、国という単位を持っていたということは、この時代、様々な人々が九州に集結したということである。
集結と書いたのは、すでに九州に主要な倭人の国家があったからである。
時代が、再構成を求めていたのだろう。
中国の人は、その国を「倭」と呼んでいる。
「倭」族は、おなじアジア人でも、ちょっと違う。
何が違うかというと、言葉が違うのだ。
日本に集結した人々は、「倭族」の言語を持っていた人たちだ。
日本語と中国語は違う。
もちろん韓国語とも違う。
当然、中国語の影響は受けたのは間違いないが、学問的にいっても『孤立した言語』と考えられている。
つまり倭族とは、日本語族の事をいうのだ。
倭族はどこにいたかというと、これは「鳥越憲三郎の倭族仮説」というのが、一番共感が持てる。
倭族は中国大陸の南部に広く分布していて、弥生時代に日本に集結した。
そして、散らばっていた地域単位などで、国を形成した。 倭国大乱を制したのが、あの「卑弥呼」なのだ。
歴史は繰り返す。 信長は明智に討たれ、秀吉が天下を取る。
そして家康が最後に登場し、安定した国家を作った。
それと同じ事が、古代におこった。
いや侍の戦国時代は、古代の戦国時代の再現と言えるかも知れない。
「卑弥呼」が統一国家の基礎を作ったのだ。
そして最後に「ヤマト」をつくった。
秀吉が大阪を中心にしたが、徳川家康は江戸に幕府を開く。
「ヤマト」を形成したのは天皇だ。
九州から離れ、本土に政権を打ち立てる。
大きな倭の集合体で大和と書き、それを「ヤマト」と呼んだ。
諫早市の美しい水田は、日本人の原風景だ。
美しい夕日は、黄金色の光を放ちながら、遠くの山に消えていく。
もうすぐ長崎だ。
40分のドライブがもうすぐ終わる。