伊勢神宮に注連縄がない理由
縄文という名称は
「縄文」という名称は、エドワード・S・モース(Edward S. Morse 1838年 - 1925年)が1877年(明治10年)に大森貝塚から発掘した土器をCord(ひも、縄)Marked Pottery(陶器) と報告したことに由来する。ウィキペディア
縄目の文様を何故付けたのかいろいろ説が有るが、縄以外も使っていたようで、縄だけではなかったということも大切だと思う。
また土器を作る際の雛形に縄を使ったからとか、焼く時に割れにくくするため凹凸をつけ土の中の空気を抜くという説も信憑性が高いと思う。
ただ縄が実用品であることは間違いないので、どんな時に縄を使うか考えてみる。
まずモノを縛る。
まず狩猟した獲物を持ち運ぶ時使ったのだろう。小さい獲物なら纏める時にも使えるし、これは外せない。
家を作る時や作業用にも使えるだろうし、細い縄でポシェットも作っていたという。もっと細くして、縫い糸として使っていたというのも有る。
とにかく、役に立つ道具であることは間違いない。
しかし、その縄に神秘性があり古代人がその思いを込めていたという説が有る。
うーん。確かに縄は蛇を連想させ、そこから再生の神秘性を得ていたという話だが、理屈と情熱はわかるのだが、どーも納得しがたいものが有る。
それは、土偶や土器に使った縄文以外にも、竹べらや貝殻など多彩な道具を使っていた事実から、縄だけを神秘化するのに抵抗が有るからである。
ただ、縄が後世にしめ縄という神道に欠かせないものになった理由が、神秘性以外に有るのではないかと思っているのだ。
神社のしめ縄
これも又説が多く結界という説が大多数だ。これは間違いないと思う。
ただ、人と神を分ける結界になったのは後世でないかと思っている。
神道が形式化したのは仏教が盛んになったからである。
それまではもっと素朴で、庶民的だったのではないかと思う。なぜなら記紀にも、縄の神秘性を記述している箇所が少ないからである。
記紀の中に縄(しめ縄)を使ったという箇所がある。
それは、アマテラスが岩戸に隠れるシーンである。
引きこもったアマテラスを他の神々の策略で岩戸から引き出した後、
古事記
すぐにフトダマが注連縄を岩戸の入口に張り、「もうこれより中に入らないで下さい」といった。日本書紀
そこで天児屋命と太玉命が注連縄を張り渡し、「再び入ってはなりません」と申し上げた、とある。
これがしめ縄の由来という。
しかし、これはもう岩の中へ入るなというタブーの表示で、神と人を分ける結界という神秘性はない。
縄を張るというのは、古代縄文の世界から使われている縛るという行為と同じだからだ。
そう考えると、現在の神社のしめ縄の意味は、天の岩戸に入るなというタブーの表現と同じではないかと思うのだ。
スサノオは縄文人
河合隼雄氏という心理学者、思想家がいる。専門は分析心理学(ユング心理学)である。
ユングで特に有名なのは「集合的無意識」の存在を提唱したことである。
その河合氏がアマテラスは弥生人で、スサノオは縄文人じゃないかといったという。
なるほどと思う。
日本の原住民と言える縄文系の人々は、弥生や古墳時代でも存在していた。
現在の説では、縄文人は容姿も性格も遺伝子も違う別民族といってもいいだろう。
ただ日本の二重構造説のとおり、縄文人は弥生人中心の大和政権の中にも、しっかり存在していたと思う。
その代表選手がスサノオというのだ。
スサノオの狩猟民族的な性格と、破天荒な行動力、多重人格さは、縄文人の多様さを表現しているとも言える。
なにせ縄文は1万年以上も続いた時代である。そう簡単に縄文の性格は変わらないのだろう。
しかし日本は共存の国である。うまくやって行けたのである。
縄文系の人々は日本の国の中で、強烈なスパイスとして存在し続けたのだ。
しめ縄のない神宮
一般の神社と神宮は性格が違う。
神宮とは天皇の祖先神を祀る神社である。そして日本にとって重要な場所である。
だから一般の神社とは違う様式を持っている。
まずそでは、鳥居にも拝殿にも注連縄はない。何故ないのかは不明とされている。
さらに伊勢神宮に狛犬はいない、賽銭箱がない、鈴(鈴緒)がない、おみくじがないのだ。
他の天孫系神社はというと、霧島神社(ニニギノミコト)、青島神社(ニニギノミコトの子供、山幸彦)、宇佐神社(渡来系秦一族の本拠地)、宮崎神宮、明治神宮にはしめ縄はない。
しかし鵜戸神宮(ニニギノミコトの孫)と宗像神社(アマテラスとスサノオの子供)には有る。
神道も時代を経て、いろいろしきたりが変わったのかもしれないし、民主化したのかもしれない。
おしなべて言えば、ほとんどの神宮にしめ縄がない場合が圧倒的に多い。
もっと理屈を言えば、鵜戸神宮は神様の存在が疑問視されている神社だし、宗像神社は縄文系のスサノオが関わっているからと言えないこともない。
またすべての神社が神代から存在していたわけでもないし、比較的新しく作られたものも有るので、若干ばらつきがあると解釈している。
そしてこの違いは何かというと、天孫系と国津神系の違いである。
八百万の神(国津神)の神社にはしめ縄がある
日本は多神教である。
しかし多神教の神々と天孫系の神様はきっちり別れている。
それが、神社と神宮の違いである。
日本の暦に神無月というものがある。神無月には日本中の神様が出雲へ集まるという言い伝えが有るからだ。
伊勢神宮はその事を認めていない。その理由はアマテラスは最高神なので出雲大社へ行くわけがないからである。
この話は、中世以降の後付けで出雲大社の御師が全国に広めた語源俗解であると言われている。
しかし、その言い伝えもなにか大元があったとも推測されるのだ。
八百万の神は皆さんの街にある神社の神様である。
ギリシャが多神教と言っても、日本ほど多くはないだろう。
その普通の神様たちの神社には、必ずしめ縄が有る。
そして、その注連縄は天岩戸のしめ縄と同じ、タブーなのだ。
縄文系の神様はしめ縄で縛って表に出さないのだ。
ご丁寧に、神社から出ないための番犬の狛犬もいる。
縄文の神々
今思えば縄文というネーミングは卓越だったのかもしれない。
縄文のパワーあふれる土偶達は、殆どが民間の神様になったのだろう。
これが八百万の神様の本当の姿である。
神無月の時、日本中の神様は出雲に集まるとされている。
出雲は縄文の神々の総本山なのだ。
だからこそ、神々を大和に出さないために巨大な縄が必要だったのだ。
それでも日本人は共存をしている。
やはり、大きな和の国なのだ。
そして縄文は日本に脈々と息づいているのだ。
鳥居は神を封じ込める結界
http://artworks-inter.net/ebook/?p=162
「縄文の神々と注連縄」というタイトルを2021/1/22に変更しました。
出雲に神々が参集する。の元々は、まさしく神々=出雲王国の分家や各地の豪族やらが正月=春分の日と秋分の日の二回(半年が一歳)に王宮に参集してお祝いや祭儀(マツリゴト)を行っていた事の名残です。
出雲王国が中国人(秦人/物部)、朝鮮人(天日戈命)らの子孫ら(天皇家)により壊滅的打撃を受けて滅亡した後も、
元王家が熊野大社で主宰する大祭に出雲王国縁故の物たちが変わらず参集してマツリゴトを行っていたとか?
縄文土器で、一つ重要な情報として縄目模様がその名の由来とされますが、
と言う事は、なにがしらの素材を元にして縄が作られていた事。その素材が何であったか?
を余り言わない、研究しないのは何ででしょう。
出雲神(カモ)族(王家、王族の事)の伝承では、彼らはインド先住民のドラビタ族(シュメール人の子孫)でアーリア人の侵攻による迫害、抑圧を避け、
クナ国のクナト王に率いられてゴビ砂漠を越え北回りで日本列島に渡来したと言う。
その際、案内役のブリアート人(キャラバンを組んで交易する民?)の故郷モンゴルからシベリア高原に自生していた蕎麦を持ち込んだとか?
また、彼らはシバ、サラバスティ(后神)、御子神のガネーシャの三柱の神々と龍蛇神を信仰しました。
それが後には人格神のクナト大神、サビメ大神/幸(サイ)姫之命(后神。水神、太陽の女神、豊穣の女神)、サルタ彦大神(サルタは大きな鼻のドラビタ語らしい)へと変容。それぞれの神奈備山が伯耆大山/火之神山/大神山。サビメ山/三瓶山。鼻高山。
(後に、クナト大神がイザナギに、幸姫之命がイザナミに改変させられた)
龍蛇神の原型はインドの河川に棲息するワニと、大蛇のコブラがそれぞれ畏怖されて神格化、習合した物であると言います。
シメナワはその雌雄の龍蛇神が絡み有って交合(交尾)するめでたい姿(生命の創世、繁栄、豊穣)を表した物であったという。
宇佐族は出雲族らが渡来するよりも速い時期に渡来して定住化して勢力を持っていたとか。
彼らは月神を信仰していた事から月に住むウサギを一族の名称としていたところ次第にウサギがウサに成ったとか?
(八幡神社や宇佐族に由縁の神社ほかにはウサギさんがいらっしゃる理由)