隼人の謎-2つのヤマト(1)

日本の歴史に隼人という一族が登場する。

調べれば調べるほど、謎に満ちている。

そこで、隼人の一族を調べてみる。

隼人
隼人(はやと)とは、古代日本において、薩摩・大隅・日向(現在の鹿児島県・宮崎県)に居住した人々。
風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した。
ヤマト王権の支配下に組み込まれ、律令制に基づく官職のひとつとなった。

隼人の盾

隼人の盾

ウィキペディアに載っている解説はこのとおりである。

古く熊襲(くまそ)と呼ばれた人々と同じといわれているが、地域によってさまざまな呼び名がある。

一番不思議なのは、言語・文化に関しては、他の地方と大きく異なっていたとされる事だ。

どうな風に違っていたのか、明確な解説がないが、断片的な事は記録に残っている。

大和民族以外の人々

大和国が大きくなっていった過程に、大和族以外の人々が日本には結構いた。

「アイヌ族」「琉球族」「サンカ」「隼人(ハヤト)」「熊襲(クマソ)」「肥人(クマビト)」「土蜘蛛(ツチグモ)」「国栖(クズ)」「古志(コシ)」「粛慎(ミチハセ)」「毛人(エミシ)」「蝦夷(エミシ)」
などである。

有名なのはアイヌ族や琉球族である。

遺伝子の調査では、縄文人の血が一番多く残されているといわれている。

南九州では隼人(ハヤト)、熊襲(クマソ)の名前が有名である。

大和側にしてみれば、すべて平定するべき異人たちである。

大宝令や養老令で「夷人雑類」に分類されている。

しかし、当然の事だが、すべて大和側の記録である。

 

縄文の人々

弥生時代と呼ばれる頃に、日本ではさまざまな勢力が国を作っていた。

稲作の浸透が、富の蓄積を増進させて「くに」という形をとり始めた。

たとえば邪馬台国であり、大和である。

混沌の時代は何百年も続いた。

そして5世紀頃に大和という国が大きくなっていった。

アメリカインディアンの例を出すまでもないが、成敗などの言葉は、勝った連中が記録に残しているだけで、公平な視点に立てば、侵略の歴史である。

体制に従わないというだけで、侵略されていったのだ。

ただ、皆殺しではなく融和政策だったのが救いである。

長い時代を経て、縄文の人たちは大和側に溶け込んでいった歴史も確認されている。

 

縄文と弥生

これらは研究が進んでいて、「渡来系弥生人が縄文人を駆逐した」というこれまでの説は退けられている。

世界でも類を見ない縄文時代は紀元前1万5000年にスタートしたという最近の調査もあり、弥生時代とはその長さにおいて比較にならない。

また、稲作が始まったという弥生時代に、大量の弥生人たちがやってきて、日本の文化を担ったという、「渡来人大量移民説」も大きく揺らいでいる。

「少数渡来」「先住民との融合」「列島人の稲作民化」「継承された縄文文化」「稲作民の人口爆発」

新潮社フォーサイト
http://www.huffingtonpost.jp/foresight/jomon-man-dna_b_7601964.html

などの仮説は、信憑性が高く限りなく真実に近い。

つまり、日本に渡ってきたさまざまの民族が、縄文時代という超長期間の中で独自の文化を守りながら、繁栄したと思われるのだ。

大陸系のDNAが日本の主流といわれているが、弥生時代に突然やってきたわけではなく、中国大陸系の人々も縄文時代に日本にわたってきて、大陸系縄文人というグループを作っていたと推測されている。

「アイヌ族」「琉球族」「サンカ」「隼人(ハヤト)」「熊襲(クマソ)」「肥人(クマビト)」「土蜘蛛(ツチグモ)」「国栖(クズ)」「古志(コシ)」「粛慎(ミチハセ)」「毛人(エミシ)」「蝦夷(エミシ)」

これらの民族は、そんな人たちの集団だったのだ。

大和とはどんな集団か

大和族が日本に台頭した時、秦氏などの新渡来人の手助けは大きい。

新渡来人の働きは文献にも多く残っている。

しかし、「一番最初の大和」はどこからスタートしたのかは神話となっており、さまざまな憶測と研究が乱立している。

大多数は記紀に載っている南九州発祥となっている。

それは「神武天皇の東征」というストーリーが記紀にしっかり書かれていることである。

『日本書紀』
45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、長い時間が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。

東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。

そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。諸皇子はみなこれに賛成した。

これは「神武東征」が行われた動機だが、なにせ大和の本なのでまともにとるには無理がある。

そこで、事実と思われる部分だけを取り上げてみる。

神武天皇は九州の日向国の高千穂宮に住んでいた。

神武天皇の妃は吾平津姫(あひらつひめ・あいらつひめ)といい、手研耳命と岐須美美命という子供がいた。

神武天皇は、わずかな一族を連れて、日向国を出発した。

以上である。

しかし、事実と言い切るには不確定で、神武天皇が存在していたということすら不明である。

すべては記紀の文からの推測でしかないことは承知している。

しかし、後年の歴史から推測すれば、大和のスタートが南九州の日向だとする説は多数派である。

私もそこから話を進めて行きたい。

神武天皇と隼人

神武天皇

神武天皇

やはり神武天皇の話が重要である。

ここで、神武天皇の后が吾平津姫ということが重要になる。

吾平津姫(あひらつひめ)= 阿比良比売(あひらひめ)は阿多小椅(あたのおばしのきみ)の妹とある。

九州、大隅国の郡名に阿比良という地名がある事から、吾平津姫はその地域の姫だと推測されている。

その地に住んでいたのは「隼人」である。

「天皇家自らが編纂した国史(帝記)」に『先祖は隼人と同じ薩摩・大隅の出で、墓もそこにある』と書いている。
笠沙路探訪
http://www4.synapse.ne.jp/yatusiro/newpage33.html

現在の天皇家も宮崎には何度もおとづれている。

宮崎の日向は重要な場所なのである。

「隼人」は、後年「夷人雑類」とされている野蛮人だ。

その隼人出身の妻を娶っといる神武天皇。

彼もまた「隼人」だったと考えても何の不思議もない。

大和族

大倭と書いてヤマトとよむ。

いつからそうなったのかは知らないが、ヤマトという名称は日本書紀に出てくる。

日本書紀に「大日本豊秋津洲」と記し、その後に注記があり日本、此をば耶麻騰(ヤマト)というと書かれている。

このヤマトだが、邪馬台国からヤマトになったという説が多いが、その逆もありうるはずだ。

つまり、邪馬台国の時代より前にすでにヤマトという一族が九州にあったとすれば、スッキリする。

隼人という呼び名は大和側がつけたようだが、実際にもハイトなどと呼ばれていたとある。

ある書籍には、南風のことを「はえ」というので、ハヤトの語源は「はえ」だと書いているものもある。

ヤマトとハヤト

ヤマトとハヤト

読み方がそっくりである。

古事記にある海彦、山彦と同じパターンである。

邪馬台国という名前が登場する以前に、このハヤト、ヤマトが九州にいたのではないか。

更に、神武東征も紀元前か1世紀くらいの出来事だったのかもしれない。

そう考えると一つの仮説が成り立つ。

徐福である。

徐福とヤマト

徐福伝説

徐福伝説

徐福の話は秦の時代(紀元前221年 - 紀元前206年)である。

いままで、邪馬台国=ヤマトという説が有力で、序服の影響がヤマトに影響を与えたとするのは時代が違いすぎるとして一蹴されてきた。

しかし、「アイヌ族」「琉球族」「サンカ」「隼人(ハヤト)」「熊襲(クマソ)」「肥人(クマビト)」「土蜘蛛(ツチグモ)」「国栖(クズ)」「古志(コシ)」「粛慎(ミチハセ)」「毛人(エミシ)」「蝦夷(エミシ)」たちは、縄文の末裔と言われている。

この中に「ヤマト」も入ってたとしたほうが理屈に合う。

つまり、「ヤマト」も縄文の末裔だったとする説である。

日本が中国の書物に登場するので邪馬台国などが、日本最初の国みたいに言われているが、それ以前は中国の書物に載っていないだけで、縄文時代から、日本には集団があり、国があったとか考えても良いのではないか。

となれば、秦の時代の徐福が日本に渡ってきて、九州のヤマト族と関わりを持ったと考えても問題ないと思う。

伊那の谷から古代が見える より抜粋
http://utukusinom.exblog.jp/10935668/

日本中にある 徐福伝説

日本中にある 徐福伝説

日本中にある徐福伝説の地図があった。

その地域は、九州筑後近辺、宮崎、鹿児島である。

見事にハヤト、ヤマトの地と重なり合う。

ハヤト、ヤマトは元は同族であれば、神武天皇の嫁(吾平津姫)がハヤト一族だということも理解できる。

神武の婚礼は2つの族のキヅナを深めるための政略結婚だったのかもしれない。

秦始皇帝の中華思想

ヤマトが徐福とかかわり合いを持ち、力をつけていったとしたら、なぜ神武東征が行われたか説明がつく。

それは始皇帝の中華(中夏)思想というものである。

中華(中夏)思想とは、みずからを夏,華夏,中華,中国と美称し,文化程度の低い辺境民族を夷狄(いてき)戎蛮とさげすみ,その対比を強調するので,華夷思想ともよばれる。

どうだろうか。

大和朝廷とそっくりである。

更に日本書紀にも「天孫降臨以来、長い時間が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。」と書かれている。

自分たちがいる南九州の地を「西辺」とよんでいる。

「西辺」と呼ぶということは、日本列島全体が見えていて、中心は奈良県や大阪あたりであるという事になる。

こんな考え方は、外部の影響ではないか。

だから、ヤマトは日本の中心の地を目指したと考えられる。

もしくは、九州の大和族が分裂し、神武天皇側が追い出されたのかもしれない。

いずれにしても九州のヤマトは邪馬台国以前に、2つに別れたという考えがでてくる。

2つのヤマト

中国の史書に「楽浪海中、倭国有り。分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う。」

この倭国の紹介とワンセットになっている、もう一つの勢力についての記述がある。

「会稽海外、東是人有り。分れて二十余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う。」

http://d.hatena.ne.jp/mayumi_charron/20100206/1265435131

東是人とは、東の端っこに住む人という意味である。

(あとから知ったのだが古田武彦氏もこの説を唱えている)

日本には2つの勢力があり、九州にはヤマタイコク

東の奈良にはヤマト

十分ありうる仮説である。

そして東に向かった「ヤマト」についていった「ハヤト」がいたのだ。

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