前方後円墳は女性である

夫婦と思われている古墳がある。

男狭穂塚(おさほづか)古墳と女狭穂塚(めさほづか)古墳である。

九州の宮崎にある、たくさんの古墳の中でひときわ大きく、二つが寄り添うように存在している。

地域では瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が眠っているという伝説もある。

いろんな古墳があるが、夫婦という伝説がある古墳はめずらしい。

この古墳の事を知った時、ある考えが浮かんだ。

西都原古墳群

宮崎県西都市に西都原古墳群がある。

この西都原には300基以上も古墳があり、9割が円墳でその中には、わが国最大の円墳もある。

その中に、二つが寄り添うように作られていたのが男狭穂塚(おさほづか)古墳と女狭穂塚(めさほづか)古墳である。

[奥が、男狭穂塚古墳、手前が女狭穂塚古墳 四角い古墳(方墳)は171墳]

西都原古墳群 http://www.pmiyazaki.com/saitobaru_om/


両古墳は5世紀初めころに作られたとされているが、西都原古墳群は3世紀前半~3世紀半ばから7世紀前半にかけてのものと「推定」されているに過ぎない。


古墳の年代測定の困難さ

古墳の年代測定は、古墳形態・埋葬施設・副葬品の組み合わせから推定されている。

そして学者の人が丁寧に調べるのだが、それでもいろんな意見が出るものである。

それくらい難しいといえる。

たとえば最古の古墳は、有名な奈良県桜井市の箸墓古墳で3世紀末から4世紀初頭といわれている。

箸墓古墳は最初古墳時代中期といわれていたのが、いつの間にか最古級にまで古くなっている。

しかし、橿原考古学研究所に関川尚功という学者の人が言うには「どうやったら箸墓古墳の土器が3世紀という事になるのかまったくわからない。どう観てもあれは古墳時代の土器で、卑弥呼の時代のモノではない。3世紀の墓に4世紀の土器をどうやって埋葬するのだろうか」と言っています。

学会発表前の、国立歴史民俗博物館による新聞発表
http://inoues.net/study/uso_rekihaku.html


西都原古墳の男狭穂塚(おさほづか)と女狭穂塚(めさほづか)はは5世紀初めころに作られたとされている。

しかし西都原古墳で最も古いと古墳と言われるのは、81号墳で土器棺が出ていて、弥生時代まで遡るのではないかと言われている。

となれば、男狭穂塚と女狭穂塚古墳の年代も大きく変わってくる。

箸墓古墳の年代測定の変化

最近、国立歴史民俗博物館の「炭素14年代法を用いた年代の推定」が出てきており、あの衝撃的な「弥生時代の始まりが500年近く古くなる」という発表をした。

この方法で調べると240~260年という年代が出た。

これにより、卑弥呼の墓という議論がいっそう高まったのである。

しかし、学者によっては、それでも説がある。

箸墓古墳の推定年代

国立歴史民俗博物館 240~260年
広瀬氏       3世紀中頃
白石氏       3世紀中葉過ぎ
石野氏       3世紀後半の第4四半期 (西暦280~290年)
奥山氏       4世紀
橿考研、安本氏   4世紀半ば(350年頃)
他の説       5世紀初頭(一昔前までは箸墓は五世紀と言われた)
たっちゃんの古代史とか
http://tacchan.hatenablog.com/entry/2012/11/03/133647

 箸墓古墳を270年ごろの築造とみる兵庫県立考古博物館の石野博信・館長も 「科学的な炭素年代を頼りにしたいが、まだまだデータが不足している」 と慎重な立場だ。

被葬者像については 「箸墓のような巨大古墳は、戦乱をおさめ、卑弥呼の後に女王になったとされる臺与(とよ)(=壱与)こそふさわしい」
産経新聞 別報(関西版)2009年5月29日

この記事を読めば、卑弥呼の次の女王臺与(とよ)の墓といった、憶測にはめ込もうとしているのが強く感じられる。

以上の事を考えれば、年代に関しての推理はやめることにする。

前方後円墳の謎

前方後円墳はその形と存在が謎である。

この西都原古墳群は円墳と帆立型古墳、前方後円墳と古墳の推移を一箇所で見れる。

南九州は、これまでヤマト文化と違う道を歩んできたといわれている。

この古墳群が近畿にあれば、学界は大喜びするはずだ。

ただ、宮崎には天孫降臨神話がある。

その場所に最古の前方後円墳があるのは、学界にとって都合が悪すぎるのだ。

となればいよいよ、この場所には大きな謎があるはずである。


古墳のそもそも論

いろんな形の古墳があるが、そもそも古墳は何のために作られたのかということが実はわかっていない。

古墳(こふん)とは、古代の墳墓の1種。土を高く盛り上げた墳丘を持つ墓を指し、特に東アジアにおいて位の高い者や権力者の墓として盛んに築造された。
日本史では一般に、3世紀半ばから7世紀代にかけて日本で築造された墓を指す(弥生時代の墓は「墳丘墓」、奈良時代の墓は「墳墓」と呼び区別される)。


古墳は墳丘に石棺があるので、墓であることは間違いない。

しかし、大きさや形に墓以外の意味があることは明白である。

それはいったいなんだろうか。


日本で古墳という形が出来たのは3世紀半ばから7世紀代だといわれている。

古墳が終焉を迎えたのは、大化の改新のなかの薄葬令が規定されたからといわれている。

薄葬令
中国の故事に習い、民衆の犠牲を軽減するため、王臣と庶民の身分に応じて作ってよい陵墓を制限し、人馬の殉死殉葬を禁止し、天皇の陵にかける時間を7日以内に制限するなどの制限が加えられた。 墳陵は小型簡素化され、前方後円墳の造営がなくなり、古墳時代は事実上終わりを告げる。
ウィキペディア

なぜ大化の改新では薄葬令を発布したのかというと、中国の故事に習ったということだが、「同時代の天皇の中に、薄葬された人とされていない人がいる」という事もあり、「後からこの時代のこととして史書に書き加えられた」という説もある。

このことを考えれば、薄葬令でなくなったのではなく自然と大規模な古墳は消滅したと思える。

大化の改新(646年)は律令国家建設と天皇への中央集権化を目指すものであり、推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子が活躍している。

聖徳太子といえば仏教である。

仏教は日本に突然やって来たわけではないが、積極的に国の施政に活用されたのがこの時期である。

古墳は墓である。

墓というのは、日本人の宗教的死生観が大きくかかわっている。

となれば古墳が消えた理由と仏教の間に何か関係があるはずだ。


古墳とピラミッド

日本の巨大古墳は、エジプトのピラミッドと比較してもかなり大きい。

エジプトのピラミッドも謎が大きく、死者のよみがえり装置とまで言われている。

日本の古墳にそんな意味はないのだろうか。

ギザの三大ピラミッド

古代日本の埋葬文化については、あまり詳しいことはわかっていない。弥生時代以前に、すでに甕棺や木棺を用いて土葬していたことはわかっているが、その詳細までは明らかでない。

また、古墳時代には、大小さまざまな古墳がほぼ全国規模でつくられたが、これらはみな、支配階級のものであって、民衆の埋葬とはかけ離れたものだったようだ。
日本の埋葬文化(埋葬の諸形態と歴史的変遷)
http://japanese.hix05.com/Folklore/Burial/burial02.cremation.html


日本の死の概念は、古事記に出てくる黄泉の国が最初である。

死んだ人間が復活するのを「黄泉帰り」というのも、黄泉の国があるという信仰によって言葉が作られている。

古代のお墓を見れば、小さな石棺であったり、甕棺だったりと小さなものが多い。

なので棺に入れる時、死後硬直した体を力任せに折り曲げたりしていたという。

つまり、死体は信仰の対象ではなかったことがわかる。

古代エジプトなどの死者の復活の信仰は、日本にはなかったのだ。

外国映画に出てくるゾンビが日本にないのはその理由からだろう。


チベットの鳥葬のように、死んだ肉体は、信仰の対象ではないことははっきりしている。

日本は伝統的に土葬なのだが、江戸時代には急激に庶民も火葬になっていく。これもまた、死んだ肉体を信仰していない表れだろう。


古墳は日本が中央集権になっていく過程で誕生している。

各豪族が、自分たちの勢力を誇示するために、ことさら大きい墓を作ったとされている。

しかし、豪族の勢力の誇示のためだけにしては、数が多すぎる。

所在地・数
日本の古墳所在件数が最も多いのは兵庫県で16,577基にのぼる。以下、千葉県13,112基、鳥取県13,094基、福岡県11,311基、京都府11,310基とつづき、全国合計では161,560基となる(平成13年3月末 文化庁調べ)。ウィキペディア

全国で16万も古墳がある。

これは驚くべき数字である。

当然大小が混在しているので、大き目のものだけだと、数が減ると思うのだが、数を検証してみると

現在、全国の神社数は、ほぼ8万社。

現在のコンビニの数は約5万件位。

16万という数字は、単純にコンビニの3倍である。

この数からわかるように豪族の勢力の誇示の為だけなら、数が多すぎる。

たとえば、二つの拮抗する豪族がいた場合、墓の大きさだけを競い合うのは、少し大人気ないし、子供のけんかではないのだから、これだけの数の古墳がすべて、大きさ競争だとする説は信じなれない。


古墳は基本的に1人が埋葬されている。

古墳が発見されるのは、およそ1500年後なので、状況が普通なら骨も残っていない場合が多いという。

わかる範囲で調べてみると、大型古墳の主体部に単独で埋葬されている被葬者のうち、ほぼ半分が女性だと言う。

古代は女性の首長が多いとも言われているが、女性が首長だとすれば、国を治めていたのは武力ではなく、卑弥呼のように巫女的意味合いが強いはずである。

女性の骨が古墳に納められていたとすれば、力や組織の大きさではなく、その地域の守り神として、存在していた可能性も残る。


円墳と呼ばれる丸い古墳は、古墳時代一貫して作られていて、規模は中・小型のものが多い。

これらは、一族の記念碑もしくは守り神として存在していたのだろう。

問題は前方後円墳である。

かなり特殊である。

以前なぜこの形になったのかを書いた事がある。

前方後円墳 台形の謎(1)(2)
http://artworks-inter.net/ebook/?p=2240

前方後円墳は円墳であるという説明なのだが、今回はもう少し踏み込みたい。

これまでの説には下記のようなものがある。

明治時代末期になり、ウィリアム・ゴーランドは円墳と方墳が結合

清野謙次は主墳と陪塚が結合して前方後円墳になった

壺形土器の形や盾の形を模倣したという学説

前方部は、弥生墳丘墓の突出部が変化したもので、もともと死者を祀る祭壇として発生・発達とする説

葬列が後円部に至る墓道であったとする説


いろいろな説はあるが、どれが正しいかは判断できない。

記録がないのだからしょうがない事である。

前方後円墳の特徴

前方後円墳の特徴はあの形なのだが、その作られている場所にも特徴がある。

大型の前方後円墳の周りには、小型の前方後円墳、あるいは円墳・方墳が寄り添うように建造されているという事である。

ただ、全国にある前方後円墳がすべてそうなっているわけではない。

ここでは、宮崎県西都市にある西都原古墳群をその原型として推理したい。


古墳は石棺がある以上、墓である。

しかし、一般の墓ではなく意味のある墓標である。

その形が円墳や方墳という事は、回りからよく見えるように作られたモノである。


奈良県の前方後円墳もある地域に集まっている。

共通するのは、水田開拓地の平野などに作られている事と集まって作られている事が共通している。

水田地域に前方後円墳の水が張られた周濠となれば、前方後円墳は灌漑用施設とも取れる。

確かに灌漑用施設の可能性もあるのだが、墓の役割もあるので、後年の利用方法だと思う。


前方後円墳は女性

西都原遺跡の中にある男狭穂塚(おさほづか)古墳と女狭穂塚(めさほづか)古墳だが、種類が違う。

男狭穂塚は日本最大の帆立貝形古墳、女狭穂塚は九州地方では最大規模の前方後円墳である。

並んで作られているので、後年男狭穂、女狭穂と名づけられたのだろう。


普通、やや大きい女狭穂塚は、男の塚だというイメージが現代の私にはある。

だから、男狭穂塚を女性名、大きい女狭穂塚を男性名だと思う。

しかし、現実には大きい前方後円墳が女性名である。

これは、古代、前方後円墳が「女性」だと認識された事の証である。

箸墓古墳も倭迹迹日百襲姫命という女性の墓であるという伝説がある。


だた、前方後円墳に必ず女性が埋葬されたわけではない。

女性の墓というわけではなく、女性の持つ命を生み出す力の象徴という事である。


もうひとつ、古墳群が平野の水田地に多く作られている事も大切である。


女性は豊穣の象徴である。

水田の近くにある前方後円墳は豊作の象徴形だといってもいい。

回りの堀は、やはり灌漑用ため池という役目も当然あるだろう。


あの鍵型は、豊作の象徴形だとすれば、当然人型である。

つまり、子宮の中の赤ちゃんを意味しているのだ。

堀の水は羊水でもある。

羊水の中の赤ちゃんは、まさに命の誕生であり、水田の祈りに一番ふさわしい。

前方後円墳


縄文時代の土偶には妊婦と思われる像が多い。

古代の人々は平均寿命が短く、幼児が出生して丈夫に育つ割合が特別低い時代である。

女性の出産は、やはり自然の不思議さを強く感じたはずである。


前方後円墳が子宮だというと、ぎょっとする人も多いと思うが

あの人型は、空からしか見えない。

天の神様のみ見えるのだ。

この事も大切である。

前方後円墳の胎児の姿は人間に見せるものではない。

これが一番重要なのだ。

一般の生活の中では、平地からしか見えないので、普通の丘であり、ため池に過ぎない。

しかし、空の上にいる神様に、ここには命がありますよというサインを送っているのだ。


これは死生観でもある。

古事記にも穀物は、死者から生まれてきている。

日本書紀には保食神(うけもちのかみ)という神様がいる。

天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。


オオゲツヒメ 古事記
高天原を追放されたスサノオは、空腹を覚えてオオゲツヒメに食物を求め、オオゲツヒメはおもむろに様々な食物をスサノオに与えた。それを不審に思ったスサノオが食事の用意をするオオゲツヒメの様子を覗いてみると、オオゲツヒメは鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。スサノオは、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、オオゲツヒメを斬り殺してしまった。すると、オオゲツヒメの頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。


死は生の始まりである。

これを具現化したのが前方後円墳といってもいい。

円墳も方墳も同じ意味で、穀物の守り神だったのだろう。

前方後円墳はそのなかのニューバージョンの守り神として誕生したのである。

円墳と方墳を合わせたより強い祈りの力を持つ、おまじないのようなものだったのだろう。

ただ、世紀が進むとその発想の思想は少しづつ変貌を遂げて、意味合いが大きく変わっていったのだ。

埴輪は欲しいものリスト

東京国立博物館 – コレクション

前方後円墳には埴輪が埋められている。

殉死者の代わりといわれているが、円筒埴輪もあり、身代わりの意味合いがぼやけている。

初期の前方後円墳には円筒埴輪が埋められている。

殉死者の代わりではないのだ。

円筒埴輪


円筒埴輪には小さな穴があけられている。

それはかまどの形であり、煮炊きをする道具である。朝顔形円筒もあり、前方後円墳が、穀物の生育の祈りだからこそ、食べ物を煮炊きする食器の模倣品を一緒に埋めたのである。

さらに家形埴輪、器財埴輪、動物埴輪、人物埴輪などもある。

殉死者の代わりというより、生まれてきて欲しいものを作り、埋めたといったほうがいい。

死者は黄泉の国にいくので、物は必要ない。死者への貢物という考え方は最初はなかったはずである。

さらにあの埴輪の顔を見れば、穏やかで素朴な顔をしている。

全体につるりとしていて、まさに胎児の特徴を持っている。

赤ちゃん


前方後円墳がヤマトの勢力の広がりだというのも間違いでないと思うが、これまでの経緯を考えれば、自然宗教の産物だと思われる。

ところが6世紀になると、仏教が国の中心となっていく。

仏教の死生観は、転生輪廻である。

古事記や日本書紀の死生観とは大きく違う。

仏教では、死者の墓は、ただの墓であり再生の場所ではない。


だから、前方後円墳は消滅して行ったのだ。

死が生の始まりという古代の思いが消滅したのである。


そして、権力という信仰に代わっていったのでだ。


信仰は時代とともに変わり、権力はあらゆるものを利用しようとする。

形を変え、その意味の原型は薄まっていく。

そして、本当の意味はわからなくなってしまうのだ。

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