前方後円墳 台形の謎(1)

古代史で一番分かり易い謎が前方後円墳という古墳である。

クフ王のピラミッドより巨大な古墳がなぜあんな形なのか。

みんな興味津々である。

いろんな説はあるのだが、自分なりに推理をしてみたい。

日本最大の前方後円墳

日本最大の前方後円墳

一番有力な説は、弥生時代の墳墓から独自に発展したものであるという学説である。

従来より存在した円形墳丘墓の周濠を掘り残した陸橋部分(通路部分)が発達し、墓(死の世界)と人間界を繋ぐ陸橋として墳丘と一体化したと考えられる。

「円部は墓、方部は祭壇」

確かに、おっしゃるとおりである。

主に日本列島で3世紀中頃から7世紀初頭頃(畿内大王墓は6世紀中頃まで)にかけて築造され、日本列島の代表的な古墳形式として知られる。ウィキペディア

突然、日本に登場してきた感がある。

墓は、基本的に死んでから作ってもらうものである。

だから、墓を見ればその人の生立ちや素性がはっきり出てくる。

 

墓地は素性

私の地元は長崎で、実家の近くに外人墓地がある。

稲佐国際墓地

稲佐国際墓地

私の家の墓もその外人墓地の日本人区域にあり、墓参りには必ずそこを通る。

中国人、韓国人、ロシア人、イギリス人とその墓の形は様々である。

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ロシア人の墓には、モスクのような聖堂がある。そして「ロシアン・クロス」という十字架が墓石の上に掲げられている。

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短い横棒は、聖書に書かれているところの「罪状書き」の札を表しているのだそうだ。

中国人の墓は大きいし立派である。

たぶんオランダ人と思うが、墓に墓碑が建っていない墓も多い。

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長崎の日本人の墓は、中国人の影響だと思うが、低い石の塀で囲ってあり、必ずベンチがついている。

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つい最近まで、お盆の墓参りは墓地で飯や酒を飲み、花火をしていた。

この話を東京の奴に話すと、必ず驚く。

 

つまり、日常的に「墓は素性」という感覚がある。

だからこそ「前方後円墳」が気になっているのだ。

 

古代の墓は色んな形がある。

実に様々だが、やはり地域の慣習や思想を反映している事は間違いない。

 

瀬田遺跡

古墳群の墓は大きい。

個人の墓もあるが、規模が大きくなればなるほど組織の墓といえる性質を帯びてくる。

奈良県橿原市の瀬田遺跡では弥生時代終末期(2世紀頃)の前方後円形の円形周溝墓が発見されており、前方後円墳の原型である可能性が指摘されている。ウィキペディア

奈良県橿原市の瀬田遺跡

奈良県橿原市の瀬田遺跡

 

いわゆるホタテ型という奴で、直径約19メートル、溝が彫っていて丸い円墳に台形の場所がついている。

 

 同県の大和盆地東南部には、最古級の前方後円墳・箸墓古墳(桜井市、3世紀半ば)があるだけでなく、その前段階とされる纒向型前方後円墳も確認されている。今回の周溝墓は、さらに古く、前方後円墳の原型だった可能性がある。

陸橋を持つ弥生時代の大型円形周溝は四国や近畿に多いが、同県内では見つかっていなかった。 ウィキペディア

丸い円墳だけだと、理解できる。

しかし、余計なものがくっついている。

それがなぜついたのかわからないのである。

 

邪馬台国が1~3世紀だから、その時代の古墳である。

古墳の形が、日本国の勢力図と比例するのは当たり前のことで、その勢力範囲の変動は、古代史の先生達に任せたい。

まだまだサンプル数が少なく、仕事として考古学に携わっていない私の意見は、想像の域を出ないからである。

今回は、その部分には触れたくない。

古墳の形に触れたいのだ。

 

 

古墳には溝が作られている。

これは境界線という事はわかる。

幅1~2m,深さ 1m前後の溝を埋葬部分の周囲にめぐらした墓を周溝墓(しゅうこうぼ)という。

弥生時代前期中頃に出現し、前期の間に伊勢湾に達した。その後中期中頃に南関東、後期には北関東・東北南部へと拡がった。

近畿地方で木棺埋葬地の周囲を一辺6~25mほどの方形に区画するように幅1~2mの溝を掘り、さらに土盛りして墳丘を築く墓が登場した。平坦な丘の頂、沖積地の微高地などにおいて集落のちかくに営まれることが多く、これを方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)という。

方形周溝墓は特定の個人墓ではなく、複数の被葬者が見られることから、家族の墓だったと考えられる。ウィキペディア

この溝は結界でもあり、溝の中は霊域だという考えは理解できる。

それなら、溝の中には墓だけでいいはずである。

 

前方後円墳と呼ばれているのは、石棺だけではなく、方形の部分が祭祀をする場所だという説明が気に入らないのだ。

古墳内に墓外のものを作る感覚がピンとこないのだ。

霊域に祭祀場所をわざわざ作らなくても、溝の外に作ればいいではないか。

そうすれば、盛大に出来るし余計な手間も入らない。

つまり、ピラミッドのように墓だけを盛大にすればいい。

エジプト、ピラミッド

エジプト、ピラミッド

そう思うのは私だけだろうか。

 

 

今回発見された瀬田遺跡だが円形に小さな台形がくっついている。

奈良県橿原市の瀬田遺跡

奈良県橿原市の瀬田遺跡

この台形が肥大化して、後期の前方後円墳に進化していったと学者の人達は言っている。

 

この台形みたいな部分は何だろうか。

円形墳丘墓の周濠を掘り残した陸橋部分(通路部分)が発達し、墓(死の世界)と人間界を繋ぐ陸橋として墳丘と一体化したと考えられる。

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うーん

通路部分や祭壇というのがやはり納得できない。

 

土地神の場所

あの吐出した台形部分も墓のうちとすれば、一つ考えられるのは霊とともにその墓を守る神様を祀った場所ではないかという事である。

長崎には先祖の墓のそばにもう一つ神様を祀る。

それは土地神様である。

土神

土神

調べてみると后土(こうど)様と言うらしい。

后土(こうど)は、四御の唯一の女神であり、中国道教の最高位の全ての土地を統括する地母神。土地・陰陽と生育を司る墓所の守り神であり、主に女性や死は陰と位置づけられる事から、墓所の神は女性神となった。

城隍神や土地爺と共に土地の守護神の一種に位置づけられていた。

邪馬台国の卑弥呼に関しても鬼道という言葉がでてくる。

この鬼道は道教と関連があるというのも定説だ。

となれば、その当時の墓には道教の影響が深く関わっていたはずである。

長崎の墓のように、祖先の墓のそばにちょこんと土地神を配置するというのは不思議ではないと思う。

それが、あの出っ張り部分ではないだろうか。

 

山陰地方の四隅突出型墳丘墓

山陰地方の四隅突出型墳丘墓

そう考えれば出雲から北陸の日本海地域には、四隅が突出した独特の方丘墓だが、あの四隅には土地神、もしくは五行思想の神を配置したものとすれば納得できる。

五行の色、四季、方位を表した図

五行の色、四季、方位を表した図

 

それ以外にも弥生時代に墳丘墓には、突起のような余計な部分が多い。

それらはその墓を守る土地神ではないかと推理する。

 

弥生時代の墳丘墓

弥生時代の墳丘墓

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前方後円墳は丸い円墳と四角い方墳が合体したという説もある。

一理あると思うのだが、四角いほうが台形の形をなぜしているのか謎が残る。

 

四角いほうが土神の場所としても、なぜ長方形ではなく台形なのかわからない。

謎は残ったままである。


前方後円墳 台形の謎(2) 完結
https://artworks-inter.net/ebook/?p=2257

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