前方後円墳は海に浮かぶ神仙の壷
前方後円墳は何故あんな形なのか、何度も考えそのつど文章を書き殴ってきた。
しかし、今回の説はファイナルアンサーである。
なぜそう考えたのかには理由がある。
この記事を発見したからだ。
奈良の箸墓古墳 被葬者は岡山出身?カギ握る埴輪の祖先
https://www.asahi.com/articles/ASL8S574CL8SPTFC00R.html
2018年8月27日
箸墓古墳は3世紀中ごろ、最初に築かれた大型の前方後円墳だと言われている。
そしてこの古墳で多数見つかったのが壷を載せるための吉備の土器である。
吉備では弥生時代後半、儀式の際に使われる壺(つぼ)などを載せる「器台(きだい)」が発達し、複雑な文様を持つ高さ1メートル前後の円筒形の大きな土器がつくられました。
大体、高さ1メートル前後の円筒形の大きな土器を作ること自体が特殊である。
この器台(きだい)に乗せる壷があるとすれば、巨大な壷だ。しかしそんな壷は発掘されていない。
という事は、大きい「器台(きだい)」はこの前方後円墳の為に埋葬したと考えるべきである。
そうなると、前方後円墳は壷だという結果になるのだ。
簡単明瞭な推理である。
しかし、その壺型という簡単な推理が、世間的に認められないかというと、なぜ壺なのかという事が理解されないのだ。
道教
なぜ死者の墓がつぼ型なのか
これは、中国の道教の話が絡んでくる。
道教の言い伝えに
東方の三神山とは渤海湾の先にあるとされる島で神仙が住むとされ、蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことである。蓬壺・方壺(ほうこ)・瀛壺ともいい、あわせて「三壺」ともいう。
がある。
それ以外にも
海東のかなたには、亀の背に乗った「壺型の蓬莱山」が浮ぶ。ウィキペディア
等がある。
また壷中の天(こちゅうのてん)の話もある。
これは壷の中は俗世間とは異なった別天地、別世界であるという話だ。
東の海の果のユートピア、すなわち日本である。
道教では日本国は壺だったのである。
いろいろ調べていくうちに、前方後円墳がつぼ型だという説は、沢山あるという事がわかり、実はがっかりした。
前方後円墳が壺形の蓬莱山をあらわしている―――古くから唱えられてきた説であり、近年では岡本健一氏によって主張されています。
http://www.eonet.ne.jp/~yamataikoku/5910.html「前方後円墳=壺形の墓はまさに「壺中の天」である。古代人は永遠の来世を現世に創出したのである。」
古墳の思想―象徴のアルケオロジー辰巳 和弘 (著)
歴史秘話ヒストリア - NHKでも前方後円墳の形について、壺形起源が言われていた。
しかしいずれの話にも、副葬品が器台(きだい)だからという説明はない。
そこが今回の新しい部分であ。
また日本がなぜ道教なのかというのも説明が少なめだった。
それを確認したい。
道教と日本
道教と日本の関係は深い。
まず徐福伝説がある。
まあ伝説の域を出ないとされているが、秦の時代の徐福が日本に渡ってきたという伝説である。
徐福は紀元前3世紀頃の秦という国の人物である。
秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衡山列伝」ウィキペディア
徐福は道士という道教の学者だったという。
もう一つ卑弥呼の話がある。
これは有名で、卑弥呼が政治に使ったのが鬼道といわれている。
この鬼道をシャーマンとするのが一般的だが、それ以外の説も多い。
■卑弥呼の鬼道も道教と関係があるとする説(重松明久『邪馬台国の研究』 白陵社 1969年等)。がある。
■卑弥呼の鬼道は後漢時代の初期道教と関係があるとする説(黒岩重吾『鬼道の女王 卑弥呼』 文藝春秋 1999年等)。
■神道であるとする説。神道の起源はとても古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念であることから、縄文時代を起点に弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと考えられている。大島宏之 『この一冊で「宗教」がわかる!』 三笠書房
「鬼道」についてシャーマニズム的な呪術という解釈以外に、当時の中国の文献では儒教にそぐわない体制を「鬼道」と表現している用法がある(神道#由来と教義も参照)ことから、呪術ではなく、単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味するという解釈がある。ウィキペディア
鬼という概念は道教である。これは化け物という鬼ではなく、死者や霊魂をさす。
当然中国では理解出来ていると思うので、儒教的価値観にそぐわない政治体制だったという事だろう。
この頃すでに中国では道教という確立されたものがあるのだけど、倭の邪馬台国は、道教のような政治体系だったのだ。
中国の道教ではない倭の体制を、道教の中にある「鬼」の概念をつけた鬼道と呼んだと思われる。
古代邪馬台国を訪れた人はこう思ったのだろう。
「この国の考え方は道教みたいだけど違う。違うけど道教みたい」
徐福伝説と卑弥呼だけを取り上げて、日本は古代より道教だったというつもりはないが、ある程度の状況証拠になると思う。
神道
それでは、縄文時代以降、仏教が正式に国教になる前は、どんな宗教だったのだろうか。
それは神道だという人も多いだろう。
まあ、神道が社を持ち体系化されたのも、仏教が伝わった時期と同等と見て間違いない。
また、神道イコール道教とする説も多い。
まず神道という名前だが、天上の神仙世界を理想として説く道教のことを、中国で古くから神道と呼んでいたらしい。
■道教において天皇大帝(天皇)とは、もともと北辰の星、すなわち北極星を神格化したものです。
■道教では宇宙の最高神である天皇大帝の聖なる権威を象徴するものとして、鏡と剣の二種の神器があるとされています。
■日本では古くから紫色が尊重され、紫色が現在に至るまで皇室の色とされています。道教では、天皇大帝は天上世界の宮殿である紫宮に住んでいるとされ、紫色は中国→日本で重用されるようになっています。
■元旦に天皇が宮中で行っている四方拝の儀式は、中国における道教の宗教儀礼をそのまま日本の宮廷に持ち込んだものとされています。
なるほど。
神道は、古来あった神々への信仰が、仏教、道教、儒教などの影響を受けて展開してきた宗教である。神道には、最初から明確な教義があったわけではなく、長い時間をかけて神学が形成され、とりわけ近世になって体系化が進められた。知恵蔵の解説
また
神道という語は、古代の中国でも使用されているが、いずれも日本における語意とはまったく別の用例であり、「神道」はそれとは関係なく、日本で独自に使用された語とみられる。
『古事記』で「本教」「神習」、『日本書紀』で「神教」「徳教」「大道」「古道」などとも称している
という事で、神道の概念は多分縄文や弥生時代からあったもので、平安、鎌倉時代にかなりかっちりしたものになったということだ。
道教も中国三大宗教といわれているが、「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などという言葉があり、それぞれニュアンスが違うらしいので、一つの教えにまとめられたのはかなり後の事である。
そして老荘すなわち道家の思想と道教とには直接的な関係はないとするのが、日本及び中国の専門家の従来の見解であった。
つまり、道教や神道というかっちりとした宗教の影響は、前方後円墳の製作者はなかったということである。
箸墓古墳が一番古いとされているが、まだ発見されていないもっと古い古墳は存在するだろう。
陰陽思想
そして出雲には「四隅突出型古墳」という独自の形の古墳がある。
時代的には卑弥呼の時代で、解説には「この当時はまだ陰陽思想などは日本に伝わっていません」とある。
しかし、どう見ても風水のような考えで作られているのは確かで、中国の陰陽思想が伝わっていなくても、日本の陰陽思想がすでにあったと解釈したほうが正解だと思われる。
中国と日本の中の道教
つまり道教的思想は中国大陸や日本で自然発生的に生まれた考え方だったのだ。
だからこそ、日本は、中国の道教的なしきたりや逸話をすんなり受け入れることができたのだろう。
道教は漢民族の宗教だといわれているが、前漢(西漢、紀元前206年 - 8年)、後漢(東漢、25年 - 220年)の時代、またその後の魏、蜀(蜀漢・漢)、呉の戦国時代には、日本への移民も多くやって来たのだろう。
日本の特色は、文化は受け入れるが思想は受け入れないという日本フィルターを持つ文化である。
邪馬台国から大和政権にいくまでの間、日本道教というのが浸透し、前方後円墳を作った人達が、中国の逸話から壺型の墓を思いついたというのが正解ではないだろうか。
初期道教の中にある日本
初期道教には日本と思われる話が多い。
わざわざ初期と書いたのは、老荘思想でない神仙思想などの始まりの道教だからだ。
東の海の遠くにある蓬莱山がその典型である。
初期の道教は日本に対するあこがれから始まったとも言えるのではないか。
それは縄文時代に中国大陸との交流を含め、弥生時代には日本の土着宗教として、道教的考えと中国における道教の発展の際、日本とリンクしていたのだと考えたほうが自然だと思えるからである。
なので、日本には中国道教は入ってこなかったが、それ以前のアジアの初期道教的思想は充満していたのだ。
だから卑弥呼の時代に鬼道などという言葉を使ったのだと思われる。
吉備の国という存在
話はもとに戻るが、古代吉備の国は筑紫、出雲、大和などと並ぶ有力な勢力の一つだった。
4世紀からこの内海の近くに多数の前方後円墳が造られた。この地方独特の特殊器台・特殊壺は、綾杉紋や鋸歯紋で飾られ、赤く朱で塗った大きな筒形の土器で、弥生時代後期の後半(2世紀初めから3世紀中頃まで)につくられ、部族ごとの首長埋葬の祭祀に使われるようになり、弥生墳丘墓(楯築弥生墳丘墓)や最古級の前方後円墳(箸墓古墳・西殿塚古墳)から出土しており、後に埴輪として古墳時代に日本列島各地に広まった。ウィキペディア
「立坂型→向木見型→宮山型→都月型」と変化してきたものとされています(下図を参照ください)。都月型は特殊器台型埴輪と呼ばれており円筒埴輪の原型とされ、壷の形式によってA,B類の2種に分類されています。」
特殊壺を見ても、後半の都月型は前方後円墳そのもののような気がする。
堀の存在
前方後円墳になぜ堀があるのかというと、あの堀は海なのである。
海東のかなたには、亀の背に乗った「壺型の蓬莱山」が浮ぶ。ウィキペディア
なので壺は海(水)の中に無くてはいけなかったのだ。
特殊器台
前方後円墳には壺を乗せる特殊器台が多数埋まっていた。
そして特殊器台は埴輪となったという。
埴輪にもいろいろ種類があるが、踊る人々と呼ばれている埴輪を見れば、これは明らかに死者もしくは別世界の人達の顔である。
古墳時代前期初頭(3世紀中葉から後葉)には、吉備地方において円筒形または壺形、少し遅れて器台の上の壺を乗せた形の朝顔形埴輪などの円筒埴輪が見られた。
その後、器財埴輪、鶏形埴輪などの形象埴輪、そして(5世紀中ごろ)からは、巫女などの人物埴輪や家畜である馬や犬などの動物埴輪が登場した。
何故かと言うと、壺の中は別世界だからである。
秦始皇帝の兵馬俑と同じく、被葬者の死後の霊魂の「生活」のために製作されたものであることは間違いない。
別世界にある壺の中の世界に暮らす生活必需品を墓の中に入れたのである。
吉備の国
特殊器台は吉備の国独特のものである。
吉備の国には、温羅(うら/おんら)と呼ばれる鬼伝説がある。またそれを退治する桃太郎伝説もある。
鬼も桃も中国道教では重要な登場人物である。
吉備の国が前方後円墳が盛んに作られたのは、日本道教に中国道教が流れ込んだからである。
大和政権確立後、前方後円墳が無くなったのは、道教的なものより国家宗教のなった仏教の影響だろう。
すべての証拠が壺説を裏付けていく。
前方後円墳は海に浮かぶ神仙の壷。
これがファイナルアンサーである。