金比羅山 謎の天孫降臨伝説を追え(9)
瓊杵山(にぎやま)の「瓊」は、翡翠のことを指していたのだ。
長崎に、この「瓊」の文字を使っている高校がある。
瓊浦(けいほ)高校という。
校名の由来には、学校周辺地域の古い呼び名である「瓊ノ浦」(たまのうら)に由来する。とある。
「瓊」は美しい玉(宝石)を表し、瓊ノ浦とは「美しい玉(宝石)のように光り輝く海、港」という意味だからである。
この「瓊ノ浦」(たまのうら)という言葉を校歌に使っている学校がある。
稲佐地区にある朝日小学校である。
「たまの浦わにそそり立つ、稲佐の山のゆるぎなき・・」という歌詞である。
それ以外にも瓊の浦公園、会社名、アパート名にも使われている、長崎ではポピュラーな名称になっている。
長崎の観光案内などでは、珠のように美しい港だからと書いているが、これはやはり間違いだと思う。
長崎港は「珠のように美しくない」からだ。
美辞麗句の諾意だと言われても、珠のように美しい港、これは度を越している表現である。
となれば「瓊ノ浦」(たまのうら)という港名は美しい玉(宝石)を産出していたか、取引(貿易)をしていた港だと言えるだろう。
それは琴海で産出していた翡翠かも知れない。
また、長崎の古名の彼杵(そのき)は、古代の景行(けいこう)天皇が『この国を具足玉国(そないだまのくに)《玉が多くそろっている国》と名付けよ』ということから彼杵(そのき)になったとある。
この玉とは真珠の事である。
大村地方で取れたこれらの玉類を、中国大陸や熊本や鹿児島地域と交易をするのなら、長崎の港を利用しなくてはならない。
その事で「瓊ノ浦」(たまのうら)と呼ばれていたと推測できるのだ。
「いや長崎港は、1500年代にキリスト教の船が来て開港されたと書いているので、昔は港はなかったんじゃないのか」
そんな馬鹿な質問が来るような気がするが、キリスト教の船のために埋め立てたのは、長崎の小さな岬で、それはその当時の長崎氏の領地に近かったからである。
長崎はリアス式という海岸で、大きい船でなければ止める場所はいくらでもあったのだ。
少しまとめてみる。
天孫降臨伝説の、「瓊瓊杵尊」が降り立ったので、金比羅山を瓊杵山(にぎやま)と呼び、その港を「瓊ノ浦」(たまのうら)と呼んだという推論は、十分成り立つと思う。
ただ、一つ疑問がある。
それは肥前国には「土蜘蛛(つちぐも)」と呼ばれる一族がたくさんいたと古書には書かれている。
南九州の熊襲と同じような異種種族が住んでいたことになる。
「土蜘蛛」族は、熊襲ほど反ヤマトではなかったらしく、ヤマト側に協力した族もいるのだが、反抗して殺された部族もある。
日本書紀や各国の風土記などでは、「狼の性、梟の情」を持ち強暴であり、山野に石窟(いわむろ)・土窟・堡塁を築いて住み、朝命に従わず誅滅される存在として表現されている。
肥前だけではなく、陸奥、越後、常陸、摂津、豊後、肥前など、各国の伝説を書き出させた風土記でも「古老曰く」「昔」などの書き出しで伝説として語られている。
また、土蜘蛛族の酋長は、姫が多いのも特徴的である。
長崎地域にもいたとされていて、浮穴の郷(長崎)の浮穴沫媛(うきあなあわひめ)、速来の村(現・長崎県佐世保市早岐)の速来津姫(はやきつひめ)などが記されている。
今回の天孫降臨の伝説だが、前の説でも書いたが、古事記の「瓊瓊杵尊」の話しではなく、天孫族による、九州の異種族の制圧のために、色んな所に天孫族軍隊が出現したと考えたほうがスッキリ説明される。
例えば、伝説のある宮崎県の高千穂や、霧島の高千穂などは、九州のど真ん中にある。
ご存知のとおり、九州は反大和の集団のすみかである。
なぜ、そんな危険な地域に、天孫族はやってきたのかが、そもそも謎なのである。
まとめると
長崎港は、玉製品を輸出入する港なので「瓊ノ浦」(たまのうら)と呼ばれていた。
その長崎には、反大和の土蜘蛛族が住んでいた。
そういう事になる。