鳥居に関しての覚書ノート(4) 倭族トラジャと遺伝子Dグループについて
鳥居の起源に関して、世界各地のいろんな写真がある。どれも魅力的なのだが、大切なことは日本神道と、どう関わっているかということである。
その門の奥にあるのが仏教の寺院だったりすると、神道の鳥居の起源ではなく、日本仏教の山門の起源かなと考えるのだ。
日本の古代の神道を考えると、自然が信仰の対象である事が重要になってくる。
さらに、鎮守の森と巨大な木の存在も重要だと思う。
それらの事を考えると、単純な構造の門はそのバリエーションも豊富なので、似ているだけで即起源とは考えられないのである。
倭族トラジャ
これは鳥越憲三郎、若林弘子氏が書いた本である。かなり昔に読んだ本なのだが、この本の中にあった1枚の写真に目が釘付けになった。
倭族トラジャ
スラウェシ島内3地域に住むトラジャ族の世界初調査の成果。稲作農耕と高床式建物という倭族の顕著な文化的特質をもつトラジャ族の、とくに「左」を尊重する思想や「殯」の遺風などの重要な習俗全般と、高床式木造建築の構造・工法や成立過程などを初めて解明する。初公開の写真や建物の構造図などを満載。
かなり昔に読んだ本なので、実は内容は詳しく覚えていない。
衝撃を受けたのは帆船の形をした住居「トンコナン」である。この形は日本の家形埴輪にそっくりなのである。そして辞典には地方豪族の住居構成を示しているとある。
今城塚古墳(6世紀前半 前方後円墳 大阪府)の出土品の家形埴輪には、千木を備えた高床式の家屋埴輪もあり、現代の神社建築にかなり似ているのである。
千木だが、天皇の家だけができた建築様式で、鰹木を上げて舎屋を作っている家を見た雄略天皇が「誰が家ぞ(誰の家だ)」と激怒してすぐにその家を焼いたという記述がある。
しかし、千木は日本建築に限ったものではなく、中国雲南省のワ族やタイ王国のラワ族・ラフ族・アカ族・カレン族などの高床式住居にも千木はあり、彫刻もされており、伊勢神宮の千木の「風口」と同様の切りこみも施されているとある。
つまり、日本では首長のみができた建築様式は中国南部やタイ王国の流れと同じだと言えるのだ。
ここで、よくよく考えないと、すぐに日本人の祖先は中国南部やタイだと言ってしまう。
そうじゃなくて、もっと大きな日本人を含めたグループがあり、その中の建築様式だったと考えたほうが理にかなうのだ。
その大きなグループのことを鳥越憲三郎氏は、倭族と呼んでいる。
倭族とは「稲作を伴って日本列島に渡来した倭人、つまり弥生人と祖先を同じくし、また同系の文化を共有する人たちを総称した用語」であると述べている。
そして鳥越氏の見解は、アジアには倭族のグループがあり、日本はその中で枝分かれした民族だとある。
確かに中国大陸南部の少数部族には日本人に顔も似ているし、風習も日本の古代を思わせるものも多いのは事実である。
分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族 (古代での和夷に比定。またタイではアカ族、タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある。
これらの民族間では高床式建物、貫頭衣、注連縄などの風俗が共通するとしている。ウィキペディア
この考え方は遺伝子の研究でも裏付けされていて、遺伝子のDグループの分布を見れば、倭族のグループに重なるのだ。
中国の少数民族であるミャオ・ヤオ語族と同様に、チベットビルマ語系の言語を話し、チベットに近い四川省・雲南省のいくつかの少数民族の中にD系統が低頻度で見られる。
朝鮮半島では、ハプログループD系統が見られるが、これは近世にチベットからモンゴル経由で入ってきたD1a1や、弥生時代に日本列島から朝鮮半島へ北上したD1a2aの系統であろうと推測されている。
ハプログループCと異なり、ハプログループDは、南北アメリカ大陸(ネイティブ・アメリカン)の中では全く見つかっていない。ウィキペディア
共通の文化を持っているグループから、日本に根づいた倭人は、古代神道と神社様式を独自に発展させたものだと思う。
その中の日本の鳥居も、おそらく日本独自の形を持って変わっていったのだと思うのである。
いろいろ考えていくうちに、重大なことを見逃していたことに気づく。
日本の神道は偶像崇拝はない。
自然を祀るので本来神殿は必要ないものである。
これは現代でも、拝殿も持たない檜原神社や湯殿山神社などもあるくらいだ。
となれば、神殿と呼ばれる建物は別の用途があったはずである。
さらに、鳥居だけしかないとなれば、鳥居自身に神殿の要素があるはずじゃないのかと考えた。
鳥居自身が神様の憑り代だとすれば・・・。
そうあれしかない。
鳥居に関しての覚書ノート(3) 三本柱鳥居とパンドラについて