鳥居に関しての覚書ノート(5) 神社の元型は立柱
この文章は「覚書ノート」として書いている。
なぜかといえば、歴史の中にある謎を考えていった時、確証がないけど直感で結論に達したと思う事がある。
私本人は真面目に書いているのだけど、回りから見れば「トンデモ説」なのかも知れないなと思うこともある。
そこで、普通にタイトルを入れて書く形式から逃げを打って、複数の可能性の中の一案として書くことで、私の気持ちが和らぐのだ。
私の書いてることはただのノートの覚書ですよって、追求を避けたい気持ちも十二分ある。
「覚書ノート」というタイトルは、ただの自意識過剰から出たものだという事を前置きとしたい。
神殿はなかった
現在の神社には拝殿と神殿がある。
しかし神道の基本は自然崇拝なので、本来仏教のような偶像がない。
神社ではどんな神様でも御神体として三種の神器の一つの鏡が置いてあるのが一般的だ。
その理由として、鏡に向かって祈ると、鏡の中に祈る人の顔が映る。つまり自分の顔を祈ることで、脈々と続く自分の祖先を祈ることになるのだ。
これは深い考えで、何千年も続いている神道の奥深さを示す事だと思っている。
本来は神殿はいらないはずだけど、なぜ神殿があるのかというと、やはり神仏混合の仏教の影響だろう。
仏教の形式美はカトリックとよく似ている。それに比べると神道は宗教と言えないほど質素である。
まあそれがいいと思うんだけど。
神社神道の確立は、やはり国がまとまってきた奈良時代(710年から784年)の時期からだと思う。この時期から仏教も栄えて、神仏習合の道をたどるからである。
私が思うのは、それ以前の神社のことだ。
例えば古代日本で稲作が行われ、人々が組織化された時期はどうだったのかという事である。
高床倉庫
現在でも神社でよく見られる高床式の建物は、前回書いた「倭族」と呼ばれる大きな括りの中で、アジアの中で共通する建築様式だった。
高床式の特徴は地面から家屋を離すことにより、湿気や寒さを防ぐことにあり、特別なことではない文化だろう。
古代は住居だったものが、神殿化していったようである。
吉野ヶ里遺跡
九州だと佐賀県の吉野ヶ里が有名で、私もよく行くので、吉野ケ里の復元を見て考えた。
弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)を復元対象にしている吉野ヶ里遺跡を見ると、入口に近いところに武器の倉庫があり、その近くに重要な穀稲の倉庫が復元されている。
また神の依り代となる祭りのための建物(祠堂)も復元されているが、これは現在の神社様式を参考にしているので、想像で建てられている。
さらに発掘では、吉野ヶ里地域一帯に村が誕生していたこともわかっているので、
周辺の村にも同じような建物があったことは容易に想像できる。
吉野ケ里の復元と解説を鵜呑みにすることはできないが、門、穀物の倉庫、武器の倉庫の存在は間違いないだろう。
立柱
さらにもう一つ、「立柱」と呼んでいる物がある。
発掘の時見つかったのは穴の跡で、径1.4~1.8m、深さ1.1mでその事から、立柱の径は50㎝、地上部は概ね7mであったと推定される。
そして諏訪大社の御柱などの民族事例を参考に、彫刻のないまっすぐな柱として復元したとある。
「立柱」祖先の霊が宿る柱と考えられており、シンボル的な役割を果たしていたようである。
あれっ。普通考えると「立柱」こそ、祭祀の対象のはずである。
だけど吉野ヶ里遺跡では、祭祀の場所を別の建物に想定しているが、「立柱」こそが神の依代ではないだろうか。
おそらく、この遺跡を復元した人たちは、ステレオタイプの古代人たちの儀式があり、例えば卑弥呼の鬼道という、シャーマンが踊り狂う映像などに、引きづられているんだなと思う。
吉野ヶ里遺跡の復元では、墓の前に「立柱」、そして祠堂があったとしている。
これを現代の神道に当てはめると、立柱は祭神で祠堂は拝殿ということだろう。
つまり立柱こそが信仰の最重要なモニュメントなのである。
この事を念頭に国内の神社を顧みれば、確かに有名な諏訪大社にも、立派な御柱が立てられている。
もう一つ印象的なのが縄文の三内丸山遺跡の六本柱跡だ。
復元では見張り台のように仕上げてしまっている。
これに関しては、考証と施工は小山修三の監修の下、大林組のプロジェクトチームが行ったが、様々な説のある中、結局、中間を取って屋根のない3層構造の建物になった。
当然、ただ柱が立っていただけなのではないかと意見もあった。
私も諏訪大社のように、御柱だけがあったと思う。
まあ、縄文時代前期と弥生時代の吉野ケ里では時代がかなり違うので、確証はないが、神道では神を柱と呼ぶので、一貫した様式があっても間違いないと思う。
やはり柱は最重要なことだと思うのだ。
神社の元型
こう考えると、神道と名前がつく以前の信仰は、古代集落の場合「柱」だけだったのではないかと思う。
現代の感覚では、木の丸太が一本立っている場所を祖霊信仰の場所とは誰も想像しないだろう。
あまりにも簡単すぎるからである。
しかし現に古代集落からは、柱の跡とされる穴が発掘されていて、吉野ケ里遺跡では祖霊の宿る「立柱」と解説さえつけられている。
諏訪大社では、神社を作るための柱とされているが、それならわざわざ立てて置く必要はない。
諏訪地方では、大きい神社から小さい祠に至るまで、諏訪大社にならってこの御柱を設ける社が多い。
御柱の由来の説も様々だが、古代神殿がなかったとするならば、神霊降臨の依り代説が一番妥当だろう。
神殿は祭祀が始まれは必要だと思われるが、諏訪大社で祭祀がいつ始まったかは不明とされている。
ただ上社本宮付近にあるフネ古墳(5世紀前半築造)には蛇行剣や呪術性を持つ副葬品が発掘されたため、祭祀は5世紀前半からという年代が出てくる。
記紀に由緒が記された日本最古の神社の一つの宗像神社では、沖ノ島の発掘調査が行われ、4世紀から9世紀までの古代祭祀遺構が発掘されている。
つまり4世紀以前には祭祀の形跡がなく、神社には社殿がなかった可能性が高いのだ。
環状木柱列
謎とされているものに環状木柱列がある。
解説では、円を描くように巨木柱を配置した縄文時代の祭祀施設らしい遺構とある。
全国で十数例見つかっている遺跡だが、言葉より写真で見れば巨大な柱の集合体というのがひと目で分かる。
深堀りすれば、古事記の際の国生みでは、イザナギ・イザナミは巨大の柱を廻りまぐわいをする。
古事記は奈良時代の8世紀に完成したもので、柱が神であるという伝承を元にしたとも言える。
そもそも神を柱と数えるのだから、柱は神そのものであることは間違いない。
オベリスク
世界を見れば同じようなものがある。オベリスクという。
オベリスク(方尖塔)は、古代エジプト期に製作され、神殿などに立てられた記念碑の一種。ウィキペディア
古代オベリスクの起源は、太陽信仰のヘリオポリスのベンベンを模式化したものと考えられている。
ヘリオポリスとはギリシャ語で「ヘリオスの町=太陽の町」という意味。ベンベンとは、古代エジプトのヘリオポリスにある丘のことで、「ベン」は「何回も生む・生まれる」という意味であり、「ベンベン」は「何回も何回も」、つまり「永遠」を意味する。
柱が神の依代というのは、日本独自ではないことの証である。
話を神社に戻すが、現代でも御神木というのが神社の境内にある。
この御神木が祖霊の宿る「立柱」であることは間違いないだろう。
つまり一本の柱が神社の元型だったのだ。
鳥居に関しての覚書ノート(3) 三本柱鳥居とパンドラについて