鳥居に関しての覚書ノート(6) 結論 鳥居は神の依代
覚書ノート(5)で祖霊信仰のシンボルは柱だという推論を書いた。
ただ確定できないのが、縄文の信仰が現代まで続く神道の元になっているかという事だ。
諏訪大社では御柱という存在で確定できるのだが、諏訪以外の地の神社では見かけたことがないからだ。
諏訪大社は長野県で昔風に言えば東国である。大和政権が出来上がった時代、東国は蝦夷の地だった。
もしかしたら御柱は東国の特別な信仰だったかもしれないという思いがぬぐえないのである。
更に諏訪大社の祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)で、古事記の国譲りの際に、大国主神の御子神として登場する神様で、大和が飲み込んだ出雲の国の神というのも実に微妙だ。
しかし可能性もある。
古事記には、出雲の少彦名命と大国主というデコボココンビが、国を作るのに努力したという話が載っているからだ。
となれば諏訪大社の御柱の信仰も、諏訪を発祥として全国に知れ渡った可能性がある。
古代の縄文の信仰が、日本列島で統一されていたとは思えないが、諏訪の信仰が全国の自然信仰のベースになっていたとも考えられるからである。
御神木
神社には御神木がほとんどある。
この御神木信仰の存在が、諏訪信仰が全国的に広がった証ではないかと推測される。
もちろんこれは推測でしかないが、日本中の神社の御神木が、なぜ全国の神社にあるのかを説明できない限り、この説の確実性は高まると思う。
神社の場所
神社がある場所は様々だが、信仰の対象になるものが存在する場所にある。
その場所こそが神社の原点だという考えは間違いないだろう。
その場所は、地域の人たちの神聖な場所になり、次第に地域の人たちの共有広場になったのではないか。
更にその場所には穀物倉庫や武器倉庫らしき建物が建てられた可能性が高い。
もしかしたら豪族の住居がその代わりを務めたのかもしれないと思う。
そして、そこが神社になった。
現代でも、神社の境内が広く、土俵などもあり、縁日や秋まつり、季節の神事を開催しているところも多い。
つまり、神社は古代の公共的な役割を持っていたと考える。
そして私が考えるのは、その場所の門が鳥居。豪族の住居や穀物倉庫、武器倉庫が社、そして立柱が鎮守の森(御神木)になったと思うのである。
となれば、最初の命題である鳥居とは何かという答えは、やはり門だと確信出来るのだ。
そして現代の鳥居が結界だという説は、後年後付けで出来たのではないだろうか。
おそらく鳥居は結界ではない。
だがこの結論には説明がいる。
最初は結界ではなかったが、時代が進んでいき、神道が仏教と絡み合い、お寺の在り方に影響を受け、鳥居も結界となったと思うのだ。
なぜそう思うかと言えば、現場の神社へ多数参った時、山頂の神社などには複数の鳥居が建てられているからである。
一の鳥居、二の鳥居、それ以上の数の鳥居が、かなりの数で存在している。
現場を知れば、これば神社への道案内だと考えるのは当然である。
さらに、鳥居の数え方だが、最初の鳥居を一の鳥居と呼ぶ。
もし鳥居がもっと霊的な存在なら、神社の入り口を一の鳥居と呼ぶのではないだろうか。
しかし現実は、人々が通る最初の鳥居を一の鳥居と数え、その神社までの鳥居の数は特に決まりはないからである。
一とか二など数字がつくものは、メインのほうから数えるものである。
となれば、神社と人を比べた時、訪れる人間のほうがメインだったと考える。
鳥居の語源
これらの事を考えると鳥居の語源は、いろんな説がある中で、「通り入る(とおりいる)」を初期の語源としたい。
鳥が古代信仰の対象だったことは理解しているが、鳥居の原型は古事記の天岩戸伝説で、常世の長鳴鳥(鶏)の宿り木の形からきているという語源だと、複数の鳥居の場合ピンとこないのだ。
現に稲荷神社などは、鳥居は大量消費されている。
つまり、神聖な由来は後年付けられたものであり、元来鳥居は実用本位のものだと推測するのである。
神社は鎮守の森の中にある。
それ場所はおそらくわかりにくかったのだろう。
だからこそ道案内の鳥居が絶対必用だったのだ。
なぜなら、穀物を狙った盗賊が来た時、村人は武器で武装しなくてはならない。
そして穀物倉庫を賊から守るため、夜でも大至急その場所に集合しなくてはならないからである。
神話にも道案内の話がのっている。
八咫烏は、日本神話に登場するカラス(烏)であり導きの神。 神武東征の際、高皇産霊尊によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる。ウィキペディア
鳥居という文字には、神話の八咫烏の影響もあるのかも知れないと思う。
鳥居の意味
しかし鳥居が単なる道案内だけの門だとは言えない。
それは鎮守の森に囲まれた、神の依代「立柱」があるからである。
しかし唯の柱である。例えば吉野ヶ里遺跡に復元された「立柱」は、それが祖先を祀るシンボルとなっていると言われてもどこかピンとこないと思う。
しかし世界を見れば同じようなものがあるのだ。
オベリスクという。
オベリスク(方尖塔)は、古代エジプト(特に新王国時代)期に製作され、神殿などに立てられた記念碑の一種。ウィキペディア
古代オベリスクの起源は、太陽信仰のヘリオポリスのベンベンを模式化したものと考えられている。
ヘリオポリスとはギリシャ語で「ヘリオスの町=太陽の町」という意味。ベンベンとは、古代エジプトのヘリオポリスにある丘のことで、「ベン」は「何回も生む・生まれる」という意味であり、「ベンベン」は「何回も何回も」、つまり「永遠」を意味する。
ギリシャ神話と日本神話
日本神話とギリシャ神話がよく似ていることは、様々な人が指摘している。
そのギリシャ神話はエジプト神話やメソポタミア神話の影響を受けていることも事実である。
つまり西洋のオベリスクと日本の「立柱」は決して無縁ではないだろう。
さらに日本では神様のことを柱と呼んでいることも重要である。
吉野ヶ里遺跡のような平地には、人工の柱が必要なのだが、鎮守の森では、大木が「立柱」となる。
だから現代でも、神社には御神木が必要だったのである。
鳥居の二本の柱はすべて丸太
鳥居の構造で注目したいのは、二本の柱はすべて丸太だという事である。
鳥居は道案内の門だとしても、神域を目指すので、鳥居そのものに神性がなくてはいけない。
なので鳥居の構成要素は、丸い柱が必要だったのである。
丸い柱は「立柱」と同じ神の依代なのだ。
更に日本の柱は貫で固定されている。本当はこれで完成のはずなんだが、鳥居はその上に島木と呼ばれる柱が渡されている。
これも又「立柱」なのだ。
島木は方形に加工されているものも多いが、神明鳥居(しんめいとりい)は、もっともシンプルな作りで、原則、笠木・貫・柱のすべてが円形のもので構成されており、貫も柱の外を突き出ていない。
これが神明鳥居の基本的な型である。
しかしあの伊勢神宮も笠木、貫は方形である。
全部丸太と言えば「黒木鳥居」がある。これは最も原始的な鳥居の形であるとされいるが少数派である。
なぜかと推測すれば、円柱の柱は長野にある諏訪大社に根源があり、近畿の大和政権の神道は完全に模倣することを避けたのだと感じる。
古代に鳥居を立てるなら、わざわざ一部を方形に加工する手間はとらなかったと思うし、円柱こそ神の依代だからである。
鳥居は神の依代
そうなると、鳥居自体が神の依代と呼んでもいいだろう。
前述したが、神社には基本的に社は必要ないし、山や岩などを祀る場合、社がなく鳥居だけの神社もある。
ウィキペディアにも社がなくても鳥居だけは昔から建てられていたとある。
時代が進み神仏混合の時代になると、仏教形式の山門と入り混じり、屋根のような笠木がついたりしてくる。
鳥居の意味も形も、後年進化していったと考えたい。
鳥居に関しての覚書ノートはここで一旦終了とする。
鳥居そのものが道案内をする神の依代だいう結論になんとかたどり着いた。
偶然にも神話の八咫烏と同じ意味となってしまった。
しかし不明な点も多々ある。
ギリシャ神話と日本神話のつながりの件もあるし、思考をすべて中止したわけではない。
新しい事実がわかった時、また性懲りもなく書き始めるだろう。
覚え書きノートだからである。
鳥居に関しての覚書ノート(3) 三本柱鳥居とパンドラについて