鳥居に関しての覚書ノート(1)
鳥居とは、あの神社の鳥居の事である。
私は対馬の和多都美神社や京都の木嶋蚕の社の三つ柱鳥居を見て以来、鳥居の不思議さに心を奪われていた。
それからいろいろ考え続けてきた。
例えば神道の魔力的なものなのか、閉ざされた結界を意味するのかなど、想像し空想を膨らませる日々が続く。
現実に様々な鳥居を見て歩く。それでも結論はなかなか出ないのだ。
そこでノートをつける事にした。
結論を急ぐあまり、変なこじつけで強引な論理を展開する気がなかったからだ。
神道と鳥居
この関係は現在では当たり前とされている。
しかし本当に深い関係があるのだろうかとさえ疑問に思えている。
九州の佐賀には吉野ケ里遺跡という大規模な遺跡がある。
そこには何度も行って写真もたくさん撮ってきた。
ただ、この復元した集落の姿を鵜呑みにする事は出来ない。
やはり設計した人の思い入れが強く表されている可能性があるからだ。
吉野ケ里の鳥居
復元された古代集落に門らしきものがあり、その門の上に木製の鳥が乗っけられていた。
私はこれを見たときまさに鳥居の原型かと思い、説明してくれるしつこく質問を浴びせた。
本当にこの形で出土されたかを確認したかったからだ。
学芸員と思われる人の話によると、この門の上に鳥が乗っかている形ではなかったという。
ただ、木製の鳥は確かに出土したという。関係がないことはないと感じる。
展示室の木製の鳥の上に鳥が載っている写真があった。
朝鮮半島のソッテというものだった。ソッテはてっぺんに鳥が止まっている柱である。
ソッテは仏教文化渡来以前の朝鮮にあったという。
ただ、漠然と朝鮮半島にあったといわれても、様々な国が乱立しているし、国の出自が様々で何とも言えない。
木製の鳥の展示物のそばにこの写真があるという事は、明らかに吉野ケ里が朝鮮半島に由来しているといいたいのだろう。
この手の人たちの言い分は稲作も朝鮮からと適当なことを言い続けている人たちである。
倭人が住んでいた南朝鮮半島の遺物なら、日本由来のほうが正しいと思うのだが。
壱岐の原の辻遺跡
壱岐に行った時にも再現された古代の集落があった。
魏志倭人伝に記された一支国の王都に特定された遺跡の復元である。
ここにもソッテ風の柱が復元されていた。
此処を復元した人たちは吉野ケ里と同じ考えなのだろう。
明らかに意図的だと感じる。
実は中国にも鳥の竿はあり、中国東北部でソモ(索莫)といい、シベリアにもある。
依田千百子氏は、この鳥竿はシベリアやモンゴルにもあるが、東南アジアにもあり、朝鮮のこの習俗は南北両文化の中間の環ともいうべきものであると言う。
まあアジア全体に広がった素朴な民俗信仰だったのだろう。
鳥竿と鳥居の関係
これが不明である。
神道は日本独自の信仰だが、その形式の成立は日本に伝わった仏教とシンクロしている。
つまり、仏教の形式美に対抗して、神道の形式が形作られたからだ。
形式的な神道以前の信仰は自然信仰や祖霊信仰であり、社も鳥居もなかったはずである。
だが鳥の信仰はアジア全体にあったのだろう。
日本にも日本書紀や古事記に天岩戸の長鳴鳥、神武東征の八咫烏、日本武尊の白鳥が登場している。
日本の地名にも鳥取、鳥栖、鳥羽などの市があり、それ以外にも日本の自然や地形から鳥という字を使った場所が多かったのだろう。
古代日本に鳥信仰があったとわかるのだが、それが神道の鳥居にどう結びつくのか、その決定打が見つからないのである。
鳥居に関しての覚書ノート(3) 三本柱鳥居とパンドラについて