ヘトマトの謎-3
「ヘトマトの謎」を調べていく内に、ネットの限界も感じていた。
ネットは大図書館並みの膨大な資料があるのだが、どうしても個人の方のブログが多く、キーワードを入れてヒットしていくHPが、すべて、ある資料のコピペだった事もあった。
そこで、図書館通いを始めた。
新・肥前風土記、長崎県謎解き散歩、五島物語、五島雑学事典、五島列島をゆく、拓かれた五島史、九州の名字を歩く
とりあえず、これらの本を読んでみる。
ネットではどうしても解らなかったものもあり、さすがは本だと思う。
現在ネットにあふれているものは、一般的な知識がほとんどで、古代史のような内容の濃ゆいものは、ほとんど掲載されていない。
という事は、ネットで解ることには限度があるということである。
ところが本は様々な知識の宝庫である。誰か物好きがいてテキスト化しなければ、永久にネットには載らないだろう。ここの所を履き違えないようにしないといけない。
この本の知識は、謎解きに役立てたいと思う。
少し謎解きの方向を変えてみる。
「ヘトマト」は複数の行事で成り立っている。
その行事の年代で、ある程度は時代が見えてくるのではないかと思う。
まず「宮相撲」 これは神代からあるようで、時代の指針とはなりにくい。
また、「相撲は最も寒い時期の行事のため体を温める意味もあって付け加えられたという。五島雑学大辞典」とあり、後からヘトマトの行事に取り込まれたようだ。
次の「羽根つき」
前にも書いたが、羽子板の歴史は7世紀頃から宮中で行われていた『毬杖(ぎっちょう)遊び』が起源とも言われている。 これが鎌倉時代になると羽根つき遊びになったらしい。
古くても7世紀である。
ヘトマトの羽根つきは、普通の羽根つきではない。
木の樽に乗って行うのである。
この写真ではわかりにくいが、女性は木の樽に乗っている。
こんな羽根つきは日本中何処にもない。
謎は深まるばかりである。
「綱引き」と「玉蹴り」
「綱引き」や「玉蹴り」は本来小正月の年占行事であり、浜側地区と陸側地区の1年の豊穣を占う勝負が目的であったので、真剣勝負の行事であったとある。五島雑学大辞典
ここにある「小正月」だが、「年神や祖霊を迎える行事の多い大正月に対し、小正月は豊作祈願などの農業に関連した行事や家庭的な行事が中心となる」とウィキペディアにも載っており、時代を推定できない。
ただ「綱引き」と「玉蹴り」が下崎山の浜側地区と陸側地区の勝負だったという。
それならば、単独で行なっていても良いそうだが、ヘトマトに取り込まれたようだ。
大わらじ
この件は重要だと思う。
まずわらじが大きいという事。
次にそのわらじを神輿のように担ぐという事。
そして道中女性をわらじの上に乗せて、ワッショイをするという事である。
わらじの行事で有名なのは福島のわらじ祭りである。
大きなわらじを作るということだが、これは全国的にあるが、わらじの上に女性を乗せることはない。これはありそうでない事でヘトマト独特と言っていいだろう。
またヘトマトは牛の祭りとあるのだが、わらじと牛ではつながりが希薄すぎると思う。ヘトマト自体、牛に関係するものもなく、何処かとってつけた感がある。
祭りのクライマックスとすれば、見た目から言っても楽しさ満開であり、わらじの上の女性の嬌声が聞こえるようで面白いと思う。
が、神事とすれば意味不明であり、これもまた大きな謎である。
それなら宗教関係はどうだろうか。
「へトマト」は白浜神社境内から出発、山城神社へ奉納とある。
白浜神社と山城神社だが、古来からの神道らしい。
白浜神社の祭神は宗像三神とあったが、宗像三神は宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られている。
宗像三神は海の神様である。五島は島なので、海の神様を祀るのは不思議ではない。
調べてみても、宗像三神に対しての特別の伝説はなかった。
この神社の由来は1427年とある。意外と新しい。
という事は、ヘトマトは1427年前後に始まったということかも知れない。
その時代は室町幕府の時代である。
特別な発見はない。
あと不思議なのは、通常神社の行事は、その神社の神様に奉納するために行われる。
ところが「ヘトマト」は出発が白浜神社で、大わらじを納めるのが山城神社という。
いったい、どちらの神社のための奉納なのかわからないのだ。
これは、絶対おかしいのだ。
また、奉納する山城神社だが、写真で見るとただの祠である。
出発地点の白浜神社と比べて、ハッキリ言って小粒である。
奉納場所にしても、ただの置き場のようだ。これは絶対おかしいのだ。
もしかしたら「ヘトマト」は、神事じゃないのかも知れない。
とんでもない方向に謎解きは進むのかなという予感がしてきた。
もっと謎を解くには、福江島の歴史を調べたらいいかも・・
更に調査をつづけた。