ヘトマトの謎-4
五島の歴史は不思議の連続である。
だがこれだけ大陸が近いのに、壱岐対馬に比べてその注目度は低い。しかし、古事記の国産みにも、大八島国生成の国生み神話にも「値嘉島」として出てくる。古代の重要な場所であったのは間違いではない。
しかし、縄文時代の遺跡は多いのに、それ以降弥生時代や古墳時代の遺跡が少ないという。
まさに、謎の時代があったようだ。
そんな五島である。一筋縄でいくはずがない。
今回は、ヘトマトの名前の謎を追いかけている。
五島の方言の凄まじさは類を見ない。
その言葉のルーツが、韓国語であったり、漢語であったりと自由奔放である。
長崎生まれの私でさえ、その変化は不明で有り、不思議である。
例えば「みじょか(かわいい)」は、美女から来たと思っている。
昔から食べていた「かんころ餅」は甘藷(かんしょ、サツマイモ)で丸い(ころころしている)というのは何となく分る。
何故そんな風に変化したのかは不明だが、感じはわかる。
日本人が「中国の漢字の文化」に「ひらがな」を大胆に持ち込んだように、五島人は言葉を自由に変化させていったのだろう。
それは、まるで女子高校生の「仲間言葉」のように、原型をとどめていない事もある。
五島弁 あっぱか=怖い
えずらしか=きもちわるい
びっしゃっ=たくさん
しょしゃくれ=なさけない、みっともない
これらは分らない。
うんが=あなたが
ぎらはる=カッコつける
しょしゃくれ=なさけない、みっともない
これは何となく分る。
「ヘトマト」に似ている音を持つ言葉探しはひと休止し、やはり文化や現地の風俗に目を向ける事にした。
古代五島には誰が住んでいたかというと、アイヌ語を話す縄文人であろう。
これは、定説のようだ。 肥前風土記には、「土蜘蛛」として載っている。
もちろん「土蜘蛛」達だけではなく、大陸からの者達もいただろう。 「
宇久島と小値賀島には、大耳族と垂れ耳族がすんでいる」という記述もある。(耳飾をしていた一族だろうか)
他の記述には 「この島の民は、顔かたちは隼人に似ている。いつも馬上で弓を射るのを得意として、その言葉は俗人と異なる」 という文がある。
さらに、時代が進んで遣唐使船が福江島美彌良久(みみらく)から出発するようになる。
その時代の五島は、松浦郡の一部になっている。
それでも、福江島には「原日本人」が住んでいたのだろう。
福江には牛が沢山いて、住民が大切にしていた事は明白である。
牛は食べるものではなく、重要な働き手である。つまり「農耕」が盛んだった証である。
農耕が盛んで、そして隼人たちもいる。福江島とは、そんな島だったのだ。
時代が進み、五島に「武士」達が権力闘争を始める。
「宇久氏」「五島氏」「青方氏」など争いは激烈であり、決して穏便ではない。
五島には、当然沢山の島がある。
驚く事に、そんな多くの場所の様々な場所に名前がついているものが多い。それは、どんな場所にも人が踏み込んでいる証拠である。
五島の戦闘方法がわかるような気がする。
「チャンココ」という念仏踊りがある。
盆の供養として夏に行われる。一説には「田の神祭り」として始まったとも言われる。
素朴な鐘の音を聞けば、やはり死者の供養と思う。
踊り手の衣装は、頭に色髪の飾りをつけた花笠をかぶり、帷子(かたびら)を着て、腰みのを付けている。
腰みのが南方系の匂いがする。
だが、長崎人とすれば、あの精霊船も「みよし」というむしろで囲ったラッパ型の大きな穂先があり、胴体の下の部分、船尾にもわらをたらしたものが昔はよくあった。
わらを腰に巻くか、船につけるかだけの違いのように思える。
わらは、南方系であり、稲作を行っている農耕民族の祭りの象徴であろう。
祭・イベント詳細: カケ|(一財)都市農山漁村交流活性化機構(まちむら交流きこう)
■カケとは玉之浦町に伝わる盆踊りで、往古士族の先祖祭りの一行事でした。鎧甲をつけた様相で、踊りは武士がまさに戦場に出て発たんとするさまを表しています。
しかし、玉之浦のカケは念仏踊りだが「往古士族の先祖祭りの一行事」とあり、鎧甲をつけた様相で、踊りは武士がまさに戦場に出て発たんとするさまを表しています。
「往古」とは昔という意味である。
「玉之浦のカケ」は実際見た事がないが、ネットの動画にあったので見たが、格好は、花笠に腰蓑姿で、他の念仏踊りと変わりはないが、鉦の打ち方とリズムが違う。
「チャンココ」、富江の「オネオンデ」、玉之浦の「カケ」が念仏踊りで同系列と言われている。
確かに、形態は同じなのだが、各地に個性がある。
場所的に言うと、福江島の右側(南側)のほうが、荒々しさがある。
つまり鬼岳に近い方が、武士っぽいのだ。
五島の文化は、長崎より複雑になっているのだ。
今まで、「ヘトマト」の文字にばかり目がいき、散々寄り道をしてきた。
古来からの言い伝えが有り、それが元で「ヘトマト」が発生したという、自然発生論が頭から離れなかったのだ。
ここで、もっと客観的な視点に戻ろうと思った。
ヘトマトの姿
「へとまと」は、念仏踊りではないというの事は間違いない。
五島の古い行事とは一線を引かなければならないと思う。
ヘトマトの行事の中に、他の地域でも行われたものを調べてみる。
まず「綱引き」がある。
この綱引きは、玉之浦町の幾久山の綱引きとして現存している。
幾久山の綱引き(玉之浦町)
今から400年以上前、築山城城主宇久善助盛重公は、人心の平安を祈り、豊凶を占うため綱引きを行わせました。
これがこの綱引きの始まりとされ、日本で最古の綱引きではないかと言われています。
その綱は、中央部の周囲は1mはあろうかという大きなもので、その中に山から切り出したツタを芯として入れ、中央に古来よりおめでたいとされる椿の花を一輪差し勝負の目安とします。
この綱を男と、女子供が分かれて引きます。
■開催日時・場所:毎年1月23日・ http://gt.kouryu.or.jp/detail/42211/6099.html
玉之浦という場所は、下崎山の真反対にあり、福江島の西側の地域である。
「玉蹴り」は 元々は白浜海岸に潮水を溜めて泥沼をつくり、大津八幡神社で正月15日に行われていた泥沼の中での玉蹴りや高田郷松吟寺であったゲチョと同じく、わら玉を相手陣営に蹴り込んで勝負を争っていた行事という。
大津八幡神社は下崎山町より北にあり、それほど遠くはない町である。その神社で玉蹴りという行事があったのだ。
同じく松吟寺(現在は宇迦山慈光院)というお寺にも、わら玉を相手陣営に蹴り入れる行事があり、それをゲチョというらしい。
これらはヘトマトと違い、単独の行事だったようだ。
「大草履の奉納」は隣の長手地区でも稲わらで編んだ大きな足半(かかとのない草履)を長手神社に奉納するが、ここに牛の神様の大日如来が祀られている。五島雑学大辞典
なんと、隣の地区でも大きなわらじを長手神社に奉納していたのだ。
このわらじは足半といい、ヘトマトのように完成形ではない。つまり似ているけど違うものである。
これらの事を総合して判断すれば
ヘトマトは、他の地域の行事を集めた合体祭りという事になる。
なぜ、各地域の祭を取り入れた、人為的な祭が下崎山地区に必要だったのだろうか。
だれが、プロデュースをしたのだろう。
それは、やはり歴史の中にあるだろう。 ここまで書いて、はたと思い当たった事がある。
人為的な総合イベントとしての「神事」が、身近にあったのだ。
長崎市の「おくんち」である。