ヘトマトの謎-5

長崎市の「おくんち」は全国的にも有名だと思う。 「じゃおどり」の知名度は高い。

長崎くんち <長崎伝統芸能振興会>

http://nagasaki-kunchi.com/

このおくんちは、幕府の要望で始まったと言える。

鎖国方針で、長崎の出島が、外国への公式の窓口となった。

そこで幕府は、派手な「おくんち」を求めたのだ。

貿易で儲かっている長崎の商人達は幕府の空気を読んだ。その結果どんどん派手になっていく。

更に、キリシタン対策でもある。

神社やお寺の行事が盛んに行われることは、禁止令がでているキリシタンへのアピールになるからである。

毎年行っているおくんちを見ている人なら解ると思うが、おくんちの出し物は、年々変化している。

新しい趣向をどんどん取り入れているのだ。

例えば、本来蛇踊りは1匹だけなのだが、3匹を一度に登場させる演出をした踊り町があった。

また、本踊りも、歌を歌ったり、新しい現代的な踊りもプログラムの中に入れている踊り町もある。

これは、イベント型の神事とも言える。

元来奉納神事は変わらないものである。それをどんどん変えていくのが長崎くんちなのである。

五島のヘトマトも、この長崎くんちの影響を受けていると思う。

イベント型の行事をどんどん付け足しながら、今のヘトマトの形になったのではないかと推測されるのだ。

長崎くんち 撮影アートワークス

長崎くんち 撮影アートワークス

五島の「ヘトマト」も重要無形民俗文化財(国指定)である。念の為、文化庁の登録内容を調べてみた。

ネットで出回っているヘトマト祭の由来は、これが元ネタで、コピペの情報が氾濫している

名称:下崎山のヘトマト行事

種別1:風俗慣習 種別2:

年中行事 その他参考となるべき事項:公開日:毎年1月16日

この行事は昭和53年1月31日にヘトマトとして記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択されている。

(一)由来、内容等において我が国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので典型的なもの 保護団体名:下崎山町内会

詳細解説

この行事は、その呼称由来は定かでないものの、『崎山村郷土誌』(大正7年)に記載があり、古老たちの口承によれば明治20年代まで遡ることができる。

現在では、当日までに使用する大草履、小草履、玉を作り、大通寺で御祈願してもらってきた御幣などを準備し、町民が役割分担して参加する除災招福的内容の濃厚なものである。

ヘトマト 撮影アートワークス

この行事は、エンマゴヘイ(閻魔御幣)と呼ばれる御幣を捧持するハタモチ(旗持ち)の巡行から始まり、ハゴイタツキ(羽根突き)、タマゲリ(玉蹴り)、綱引きが順次なされる。

ハゴイタツキに先がけ、氏神白浜神社境内で青壮年男子によってなされる相撲は、行事の前座の意味があるものの、従来、正月14日に行われていたのが、昭和30年頃から、この日に統合されたものである。

ハタモチ巡行に加わるのは、御幣を捧持する役を代々務める家の当主と町内会長(郷長)、隣保班長(組頭)である。鉦を打ち鳴らしながら大草履などを安置してある白浜海岸に近い町の辻まで行き、御幣を大草履の台先に立てる。

これが、合図となり、その辻で新嫁2人が各々の樽の上にあがり向き合い羽根突きをする。

続いて、白浜海岸に出た青壮年男子が、若者組と壮年組とに分かれて玉の奪い合いを展開する。往時はワッカモン(若者組所属者たち)が大里地区と白浜地区とに分かれて激しく対抗し、玉を奪って背後に広がる麦畑を駈け廻ったと伝えられ、それを海中に投げ入れて一段落する(現在は、家屋が密集し、麦畑を駈け廻れない)。

次いで、晒の褌に手拭をつけた男たちは、2組に分かれ、路上で3度綱引きを場所を交替して行い、終了後、全員で大草履などを担ぎ、山の神神社に奉納する。

途中、娘たちをつかまえその上に乗せて胴上げなども行われる。

ヘトマト 撮影アートワークス

この行事は、神仏に加護をもとめて生業の発展・除災招福を祈願するもので、ハゴイタツキ・タマゲリ・綱引きなどに宮相撲などが数多くあり、御幣の捧持役が世襲化であったり、ワッカモンにより行われるなど由来・内容等が典型的なものであり重要である。

(一部抜粋)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E8%A6%81%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1

文化庁の登録内容に一つ発見があった。

相撲は、従来、正月14日に行われていたのが、昭和30年頃から、この日に統合されたものであるという内容である。

うむ。前回、他の地域のイベント神事をヘトマトは取り入れていると書いたが、相撲もやはり取り込まれていたということだ。

 

『崎山村郷土誌』(大正7年)に記載があり、古老たちの口承によれば明治20年代まで遡ることができるとある。

明治20年とは1887年である。

明治時代は、欧米列強の植民地化を免れる為に近代化を推進した時代であり、世界史的に見れば、日本の産業革命時代である。

やはり意外と新しい祭かも知れない。

飛鳥、室町時代までさかのぼれると、勝手に思い込んでいたのが空振りだった。

いや、ヘトマトの原型は古代からの文化が元になっていて、ヘトマトという形になったのは、比較的新しいのであろう。

 

長崎自体、大村純忠という殿様がキリシタンのために、新規造成して作り上げた街だからだ。

また、五島の福江市も明治22年の町村制施行により現在の市域にあたる各村が発足されている。村対抗行事があるという事は、当然、村という制度ができてからの話だからだ。

 

『崎山村郷土誌』だが、福江市の図書館にあるようだが、内容を知りたいと思う。

ただ、ここにヘトマトの由来が書かれているとは思われない。

ヘトマトは重要無形民俗文化財(国指定)である。とっくに調べられているに違いない

 

過去の福江島について調べてみる。

福江島の遣唐使は有名である。704年 山上憶良、最澄、空海とビックネームが出てくる。

福江はもともと「深江」と呼ばれていたものを「福江」に置き換えている。「深江」という名前が付くくらい、自然の良港だったのだ。

 

古代の文献では、長崎には土蜘蛛がいると言われ、五島には、隼人に似た白水郎達が住んでいたという。更に遡ると、古事記に「知訶島(ちかのしま)」と出て来るほど、有名な場所だった。

時代が進むにつれて、組織化が進んでくる。やはり、島の集まりなので、水軍が幅をきかせてくる。

ここからウィキペディアの抜粋となる。

いろいろな本を読んだが、ウィキペディアが一番簡潔にまとめていたので、引用させていただく。

松浦水軍の松浦党の勢力下に五島は入る事になる。

今まで五島にいた人々は、新勢力に組み伏せられていった。 壇ノ浦で敗北した平氏の残党が逃れてきたという伝説もある。

松浦党に属した宇久氏が鎌倉時代以降に勢力を伸ばし、宇久島から五島列島のほぼ全域を支配下に収める。

その後色々あったが 玉之浦納の反乱(1507年の宇久家お家騒動。クーデター) 倭寇(後期倭寇)頭目で貿易商人の王直が宇久氏の協力の下で活動 宇久氏は福江に本拠地を移し、名を五島氏と変え福江藩(五島藩)となった。

しかし、2代目にお家騒動がまたしても起こり、幕府の裁定で沈静し、これを機会に藩政を堅固にした。

その後も富江藩のトラブルがあるが、藩の財政は捕鯨で潤っている。

富江藩の財政は捕鯨で潤っている

この文章は、重要である。

ここで初めてが出てきたと思う。

文化庁の登録内容にも「この行事は、神仏に加護をもとめて生業の発展・除災招福を祈願するもの」と書かれている。

祭りの趣旨である生業の発展とは、漁業、特に捕鯨の発展のことだからだ。

 

五島に多く存在している念仏踊りが、なぜお盆の行事になったかと言えば、海の男達が沢山死んでいるからである。

他の地域のお盆の行事といえば、盆踊りがある。盆踊りは五穀豊穣を祈願していると言われている。つまり、農作物の生産を願う行事だ。

ところがが五島では、死者の霊を弔う念仏踊りが主流だ。それは五島が漁業の町だからである。

もし「ヘトマト」の行事が人為的に計画されるとしたら、村の生業が大きく作用したはずである。

つまり、「ヘトマト」は漁業と深いつながりがなくてはならないのだ。

 

五島は大陸に近いが、島と言う事で、閉鎖的なお家騒動がよく起きる。島の元々の成り立ちが、海人たちである。海の男は気性が荒い事は周知の通り。漁師には武士とは違った肝の据わり方がある。

そして海の男を束ねるのは大変なのである。

 

「ヘトマト」が行われている場所は下崎山地区である。

位置関係は、福江と富江の中間である。この地区は昔捕鯨が盛んな地区で、「紋九郎鯨の伝説」というのが残っている。  

 

紋九郎鯨の伝説

宇久島の山田捕鯨組三代目紋九郎が、正月21日の夜、夢をみる。 親子クジラが泳いでいて、これからお参りに行くので捕ってくれるなと頼まれる。

翌日、夢で見た親子鯨が、下崎山の白浜沖で泳いでいて、鯨組の舟子たちが捕鯨に出たが、大勢の者が突風にあい遭難72人の死者を出した。

その供養搭が宇久島の西海岸にあり「七十二人様」と呼ばれている。

その後、正月の16日に下崎山で鯨踊りが行われていたという。

「ヘトマト」は、牛の祭と言われているが、この地区なら「鯨」が絡んでいても不思議ではない。

しかし、祭りには「鯨」は出てこない。あれほど盛んだったのに乱獲がたたり、鯨が捕れなくなって、現在は影も形もない。

 

「ヘトマト」の謎は、名称と祭内容のアンバランスさである。

しかし、なぜこの祭が生れたのかという由来にこそ、謎を解く鍵があるのだ。

「ヘトマト」を作ったのは、下崎山地区なのである。

この地区の成り立ちが重要だったのだ。

 

グーグルマップで見ると、福江地区とは離れており、鬼岳、火ノ岳、箕岳と山に囲まれている。

平地では畑や田んぼが多いのは、一目瞭然である。

「牛」が神格化されるほど、農業を営む住民にとっては大切な労働力だったのは、よく分る。

しかし、やっぱり海の恵みが最大だった。

「くじら一頭で七浦が潤う」と言われている。

それほど経済的効果が大きいのだ。

今から40年ほど前、高校生だった私は、父の実家の宇久島に夏休み遊びに行っていた。

その時にだされていたのは、冷凍された鯨の赤身の刺身だった。刺し身が食卓に出された時はまだ凍っている。しかし手皿に取り分けていく頃には溶け始め、冷たくてとても美味しかった事を覚えている。

五島の方には申し訳ないが、五島は牛ではなく、やはり鯨なのだ。  

 

鯨の供養

長崎県平戸市の長泉寺に鯨供養石造五重塔がある。1739年(元文4年)に小値賀島の鯨組である小田組と地域住民の寄進により建立され長崎県の有形民俗文化財に指定されている。

鯨踊り

鯨唄と同様に鯨の到来や感謝や追悼の意味を込めて踊られる。 長崎県新上五島町・有川町に元禄年間から伝わる「羽差踊り(はさおどり)」弁財天宮に奉納される神事であり、羽差とは銛打ちのことである。この時に演奏される鯨太鼓を「羽差太鼓」という。

この鯨踊りは「ヘトマト」の地、下崎山地区にも残っていた。

鯨突とは長崎県五島の魚目に伝わる漁法。

慶長11年(1606)頃、熊野の鯨突き漁が伝わり行われた。小舟で鯨を追いかけ銛で突き弱らせながら浅瀬に追い込む。

鯨の捕鯨は、やはり危険が伴うもので、紋九郎鯨の伝説のように、悲惨な事故も多かった。そして人がたくさんいる。

当然、組織捕鯨(鯨組)が出来上がる。

「千絵の海 五島鯨突」でも判るように、大集団で捕獲するのだ。

「千絵の海 五島鯨突」葛飾北斎画 1830年ごろ

千絵の海 五島鯨突 葛飾北斎画

1605年頃 五島藩では鯨組、10組を数え、年80頭の漁獲、宇久山内茂右衛門は大資本家に成長したとある。

鯨組、10組が何人かという記述はないが、紀州の和田頼元の鯨は「突き組を30人前後で1組」とある。 単純に計算すると300人である。

そうするとその関係者を含めると、鯨関係は3千人ほどにもふくれあがると思われる。

つまり、下崎山地区もその中の一部だったのだ。

 

「ヘトマト」の行事は、そんな中で生れたと推測した。

各地の行事を取り入れた理由は、大集団の意気を揚げる為であろう。更にその順番も、鯨組ならではの理由がある。  

 

「ヘトマト」と「鯨」

 

いままで、思いつかなかったが、新しい切り口だ。

しかし、調べていく内に、なんと「新発見」にたどり着いたのだ。

 

ヘトマトの謎-6へ続く

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