【ヘトマトの謎⑦(完結)】ついに解かれた奇祭の正体――「ピトゥ・ウマチー」からヘトマトへ、海人(うみびと)たちが遺した祈りの記憶
五島福江島の崎山地区と、沖縄県八重山郡竹富町の崎山。
これまで調査を重ねてきた二つの地域の間には、驚くほど多くの共通点が存在していた。
-
平家の落人伝説:本土各地に見られる伝説ではあるが、遥か南の沖縄・竹富島にまで平家の落武者「赤山王」の伝説が残されている(五島列島にも色濃く残る)。
-
十五夜祭(ジュングヤ)と綱引き:竹富町の祭りに大綱引きがあり、ヘトマトの構成行事にも綱引きが存在する。
-
複数の出し物による複合構成:十五夜祭も、長崎くんちやヘトマトと同様に、複数の独立した出し物が組み合わされた構造を持っている。
-
御嶽(オン)と鬼岳(おんだけ):竹富島には信仰の対象となる28か所の御嶽(オン)がある。下崎山地区の背後にも、地元で「オンダケ」と呼ばれる鬼岳がそびえ立っている。
-
冬から春にかけて回遊する鯨の海:2月・3月、沖縄近海には出産と子育てのために鯨が回遊してくる。生物学上、クジラとイルカは同じ鯨類であり(ハクジラ類の中で成体になっても体長4〜5メートル以下の種をイルカと呼ぶ)、沖縄では古くからイルカの追い込み漁が行われていた。島で生きる者にとって、鯨やイルカは生活を支える直接の漁の対象であった。五島福江島の崎山地区と、沖縄の竹富町崎山には、まったく同じ海の暮らしが存在していたのだ。
-
牛と鯨を巡る民話的一致:沖縄には「牛が泳いでいるうちに鯨になった」という民話が残る。牛と鯨は、どちらの島においても生活に決して欠かせない存在として同一視されていた。
沖縄の崎山(竹富町)は、琉球王国時代の17世紀、波照間島の島民を強制移住させて開拓された村である(2005年時点の人口は4人)。公的な歴史記録として、沖縄の崎山と五島福江島の崎山地区が直接結ばれていたという記述は見当たらない。
しかし、公的記録という直接の証拠はなくとも、これだけの状況証拠が揃えば、その結びつきの可能性は極めて高いと言わざるを得ない。
私の結論――「ヘトマト」はどこから来たのか
導き出された私の結論はこうだ。
五島の「ヘトマト」が島内で唯一無二の特殊な祭りとして存在した理由。それは、下崎山地区で自然発生したものではなく、遠い「沖縄の崎山」の記憶とリンクして人為的に創り上げられた祭りだからである。
一般にヘトマトは「牛の供養」とも言われているが、その根底にあったのは、まぎれもない「鯨(イルカ)の供養」であった。
かつて五島福江島の下崎山地区は、捕鯨によって莫大な富を得ていた時期があった。
しかし、捕鯨は一握りの力では決して成し遂げられない。巨大な獲物を仕留め、浜へ引き揚げるためには、大勢の人々の団結と協力が絶対条件となる。異なる集落や出自の人々が力を合わせるため、共同体を一つに結束させるための祭りがどうしても必要だったのだ。
この祭りを仕掛けたプロデューサーは、沖縄の崎山を熟知していた人物――あるいは、沖縄の崎山こそが生国(故郷)であった人物ではないだろうか。
祭りを作り上げるには、莫大な財力と広範な人脈を要する。その背景にあったのは、捕鯨によって巨額の富を動かしていた「組織捕鯨(鯨組)」の経済力だったのだ。
奇妙な行事の謎を解く――すべては「鯨漁」の再現だった
祭りは、鯨の到来への感謝と追悼を込めて踊られる「鯨踊り」からスタートしたはずだ。信仰心の篤い五島の人々にとって、命を奪った鯨への鎮魂の祭りはすんなりと受け入れられたに違いない。
そして祭りのプロデューサーは、鯨漁の一連のプロセスを大胆に翻案し、ヘトマトの演目として仕立て上げた。
一見すると脈絡がなく、突拍子もないと言われてきた各行事は、実はすべて「鯨漁の現場」と深く結びついていたのである。
1. 酒樽の上の「羽根つき」――物見櫓と木を叩く合図
羽子板が打ち鳴らす「コーン、コーン」という高い音に着目してほしい。
沖合で鯨が発見され、浜近くへと追い込まれたなら、一刻の猶予もなく集落中の人間を総動員しなければならない。のんびり集まっている時間などないのだ。
ヘトマトにおいて、新婦が乗る「酒樽」とは海を見張る「物見櫓(ものみやぐら)」の象徴である。
男衆が総出で漁に出ている時、村に残っているのは子供や娘たちだけだ。沖に鯨の姿を認めた時、村に残った者が物見櫓に駆け上がり、木を打ち鳴らして急報を村中に知らせたはずだ(禅寺で時間を知らせるために打ち鳴らす木製の板「開版(かいばん)」と同じ仕組みである)。
男の子は少し大きくなれば親とともに船へ乗ってしまうため、知らせをもたらす大役は自ずと年頃の娘たちになったと考えられる。ここに、若い娘が樽の上に乗って羽根をつく必然的な理由があったのだ。
晴れ着の女性を主役に据えることで祭りを華やかに盛り上げつつ、その羽子板の乾いた打音を「鯨の到来を知らせる合図」として、祭りの開始を告げる演出にしたのである。

開版(かいばん) 萬福寺http://kotohurari.web.fc2.com/temple/manpuku01.html より
2. ヘグラ(煤)塗りと入れ墨――命を懸ける男たちの覚悟
顔や体にヘグラ(竈の煤)を塗りたくる習俗。これは魔除けであると同時に、過酷な海へ繰り出す男たちの切実な覚悟の表れでもあった。
五島列島にルーツを持つ漫才師・ロンドンブーツ1号2号の田村淳さんが、かつて自身の祖父について語っていたエピソードが非常に示唆に富んでいる。
「僕の祖父は五島列島で漁師をやっていました。祖父は刺青を入れていました…左腕に『田村』という刺青です。漁に出て沖で事故が起きて溺死した場合、水死体は誰だか判別できなくなるから刺青を入れたと話していました。仕事に対する覚悟の表れなんだと感動したのを覚えてます」(田村淳さんの発言より)
昔から海で生きる漁師たちにとって、入れ墨は魔除けであると同時に、万が一の海難時に自分が誰であるかを証明する唯一の標識(身元証明)であった。
体を黒く染め上げるヘグラは、過酷な海へ立ち向かう男たちの覚悟を象徴するとともに、竈の火を絶やさず、食の豊かさを守る祈りが込められていたのだろう。
3. 「玉蹴り」――遠浅の海での格闘と、神仏としての鯨
羽根つきに続いて行われる「玉蹴り」。かつては白浜海岸に潮水を溜めて泥沼を造り、その中で激しくわら玉を奪い合っていた。
この泥水の中でのもみ合いこそ、「浜近くに追い込まれた巨大な鯨と、男たちが遠浅の海で繰り広げた死闘」そのものの再現である。
網をかけられ、浅瀬に追い込まれた巨大な鯨を、男衆は締め込み(ふんどし)一つの姿で海に入り、あの手この手で弱らせようと肉弾戦を挑む。ヘグラを塗った男たちの黒い姿は、黒々とした鯨そのものに立ち向かう勇者たちの姿と重なる。
葛飾北斎が『富嶽百景』などで描いた「五島鯨突」の緊迫感が、そのままこの泥沼の玉蹴りに投影されているのだ。
鯨とわら玉では大きさが違いすぎると思われるかもしれないが、福岡・筥崎宮の「玉取祭(玉せせり)」を見ても分かるように、玉は仏教における「多宝如来」の宝珠に由来する。
前述した平戸・長泉寺の鯨供養塔にも、多宝如来の名が刻まれていた。鯨は単なる獲物ではなく、莫大な富をもたらす神仏(宝珠)そのものだったのだ。
ヘトマトの玉をよく観察してみてほしい。その玉には、しっかりと「尻尾」がついている。あれはただの球体ではなく、海を泳ぐ鯨(イルカ)そのものを模した神聖な獲物なのだ。
泥にまみれて玉を奪い合う勝者には、鯨に真っ向から立ち向かった「一番銛の勇者(羽差)」としての最高の賞賛が与えられたのである。
4. 「綱引き」――巨体を浜へ引き揚げる総力戦
竹富島の十五夜祭にも見られた綱引き。
息絶えた巨大な鯨は、浜へ引き揚げなければ解体することができない。村人総出で鯨に太綱をかけ、声を掛け合って一斉に引き揚げた作業――あまりの重量に、近隣の浦では「牛を使って引かせた」という記録すら残っている。
この全員一致の引き揚げ作業こそが、祭りの「綱引き」へと昇華されたのだ。
5. 「大わらじ」――解体された肉の運搬、そして親子鯨の潮吹き
浜に引き揚げられた鯨は余すところなく解体され、巨大な肉の塊は藁(ワラ)のむしろに包まれて村へと運ばれていった。ここに「藁」が登場する。
そして、祭りの最高潮を飾るあの「大わらじ」。
隣の長手地区でも草履を奉納する神事はあるが、ヘトマトの大草履は大人数人が軽々と乗れる異様な巨大さを誇る。
さらに極めて重要なのは、「大草履の先端(つのまた)に、牛のためと称して小さな草履が必ず結びつけられている」という事実だ。
大わらじと、小さなわらじ。
これこそが、あの「紋九郎鯨の伝説」で語り継がれた「仲睦まじい親子鯨」の姿そのものではないだろうか。
大わらじの上に人を乗せ、天高く跳ね上げるあのダイナミックな所作――あれは海面から天へと噴き上がる「鯨の潮吹き」の姿と瓜二つである。
神事に女性を引っ張り出して胴上げするなど、日本の伝統的な神道儀礼ではおよそ考えられない破天荒さだ。これこそが、神道という枠組みを超えた「一大エンターテインメント・イベント」として観客を熱狂させるために仕組まれた演出であった証拠である。
捕鯨が時代の流れとともに衰退していくにつれ、鯨への祈りは、五島で最も大切に飼育されていた「牛」の祭りへと看板を変えていったのだろう。「牛が海へ逃げて鯨になった」という民話を持つ南島の世界観があれば、その移行は何の矛盾もなく自然に受け入れられたはずだ。
最後に奉納する
語源の到達点――「ピトゥ・ウマチー」から「ヘトマト」へ
そして、最大のミステリーであった「ヘトマト」という言葉の正体である。
沖縄において、鯨やイルカなどの鯨類を指す古語は「ピトゥ(pitu)」であった。
そして、琉球弧において最も神聖な祭祀・祈りの儀礼を指す言葉は「ウマチー(祭・折目)」である。
ピトゥ(鯨・イルカ) + ウマチー(祭礼) = 「ピトゥ・ウマチー」
これこそが、「ヘトマト」という音の真の原形であったのだ。
おそらく当初、公には決まった祭りの名称などなく、単に「鯨祭」と呼ばれていたのかもしれない。
しかし、この祭りをプロデュースした沖縄にルーツを持つ人物が、胸の奥でこの神事を「ピトゥ・ウマチー(鯨の祭り)」と密かに呼び習わしていた。その異国情緒を帯びた独特の響きが、祭りの強烈なインパクトとともに島民たちの間に浸透していったのではないか。
時代の変遷とともに、音は人々の口の中で擦れ合っていく。
「ピトゥ・ウマチー」 ➔ 「ピトマチ」 ➔ 「ヘトマト」
日本語の方言辞典をいくら探しても見つからなかったあの言葉は、南の海から黒潮に乗ってもたらされた、鯨と海民たちの祈りの言語だったのだ。
長崎の「おくんち」が、キリシタンを神道へ統合するために幕府の強力な意図のもとで創られたように、五島のヘトマトにも統治の影があったと考えられる。
五島では寛政9年(1797年)以降、大村藩から3,000人を超えるキリシタン農民が移住し、潜伏キリシタンとして過酷な環境を開拓していった。全員参加が義務付けられるような熱狂的な神事を仕掛けることは、隠れキリシタンをあぶり出し、地域の共同体へと融和させる政治的な側面をも併せ持っていたはずだ。一介の村祭りがこれほど長く頑なに守られてきた背景には、時の権力による後押しが存在したと見るのが自然だろう。
海人(うみびと)の血が解かせた謎
長い間、私はこの「ヘトマト」の謎を追い続けてきた。
様々な文献をめくり、現地を歩き、思索を重ねる中で、思いもよらぬ遠い南の海へとたどり着いてしまったという深い感慨がある。
私の家系は、代々船乗りであった。
父は五島の宇久島出身、母は長崎の出身であったが、母の実家もまた船乗りの家柄であった。
船乗りの家では、陸(おか)で暮らすサラリーマンのことを「陸人(おかびと)」と呼んでいた。船乗りは、海に生きる「海人(うみびと)」なのだ。
私の家系の男たちは、その多くが海で命を落としていった。父も、祖父も、海の事故で帰らぬ人となった。
母は、私を決して海へ行かせようとはしなかった。海で死なせたくないという一心だったのだろう。私は大学へ進み、やがてカメラマンという道を選んだ。
海の男たちが、天寿を全うすることは決して多くない。
命を奪うかもしれない過酷な海へ、それでも明日また漕ぎ出さなければならない。
だからこそ、彼らにはどうしても「祭り」が必要だったのだ。
神仏に生還を祈り、仲間と固く結束し、泥まみれになって笑い、酒を酌み交わして語り合う。そうして魂を奮い立たせて、再び荒海へと船を出していった。
沖縄も、五島も、海を生活の場としてきた者たちにとって、その魂のありようは驚くほど似通っている。船を自在に操り、潮を読んで東シナ海を行き交っていた海人たちにとって、五島と沖縄の海が繋がっていたとしても、何の不思議もない。
今回の「ヘトマトの謎」は、残された状況証拠と論理的な推理の積み重ねによって構築したひとつの仮説である。
もし私よりも知識の深い研究者や郷土史家がいるならば、ぜひこの仮説を検証し、確証を与えてほしいと願っている。
しかし、足元に残された数々の事実と、海に生きた先人たちの息遣いを辿ったこの推理の先にこそ、あの奇祭の真実の姿があると私は信じている。















初めまして、こんにちは。
地元の民話について検索し、辿り着きました。
とてもスッキリしたので、お礼を言わせてください。
ありがとうございます!!
「へトマト」の由来は私も大変気になってまして、15年前に地元で郷土史を読んでみたり研究者を訪ねたりしたのですが、
「たぶん、何かの略」という結論で行き詰まったままモヤモヤとしておりました。
「へトマトの謎」を1から順に読み進め、まさか沖縄に至るとはたまげました!
かなり吃驚しましたが、とても腑に落ちました。
五島の最も新しい祭で「福江まつり」がありますが、こちらは「町興しの為に、青森からねぶたを購入」した所から始まり、後々バラモンねぶたや紋九郎鯨ねぶた等を作っています。
私の子どもの頃はねぶたとハネトがメインだったような気がするのですが、いつからかソーラン節も加わってました…
今も演目を色々と取り入れて増やしているようです。
へトマトが始まった頃も、「鯨組を鼓舞して、村に潤いを!」と必死だったのでは…と思いました。
コメント有り難うございます。
何の物証もないながら、自分なりの結論に達し興奮したのを覚えています。
五島は古代とても重要な場所だったと確信しています。
共感していただく人がいて、とても嬉しく思います。
まずはお礼まで
はじめまして、じっくり読ませて頂きました。面白かったです。
「ヘトマト」は、1月16日が恒例でしたが、今となっては、日曜日開催となりまた。
1月に行う事から「やぶさめ」からの「的をいる」から、変形して「ヘトマト」になったなど、何かに書いてあったような!
竹富島との繋がり説も面白かったです。
ありがとうございました。
コメントありがとうございました。ヘトマトには2年前に行きました。外人さんたちも参加していていい祭りでした。五島はいろんな謎がたくさんある地域です。又行きたいと思います。