弥生人はいなかった-神と仏の共存

古代米の稲木干し

(写真 古代米の稲木干し)

大昔、私たちの祖先は大陸からやって来たと教えられた。

稲作という技術で日本の礎を作っていたという。

考古学という学問で縄文人がいて、その後、弥生人がいたと言う。

本当にそうなのだろうか。  

今色んな事がわかり、すこしづつ教科書の内容が変わってきている。

僕は科学者や学者ではないので、科学的根拠というのに乏しいかもしれない。

しかし、理解できない。

「それでも地球は回っている」ガリレオの心境だ。

弥生人が本当に大陸から大勢やってきたというのなら、言葉がなぜ大陸の言葉になっていないのだろうかというのが、最初の単純な疑問だ。

日本語は朝鮮語とも中国とも違う独立言語だ。

朝鮮半島と九州はとても近い。

お互いに影響を受けあうのは当然である。

しかし違う言語である。

言葉が定まっていない頃の話なら、大陸から日本にやってきたというのも理解できるし、当然だと思う。

しかし、弥生時代というのは国というものが出来かけていた時代である。

日本を根底から変えるような、大勢の人々がやってきたというのは、想像力が乏しすぎるのではないか。

こんな説が日本の定説だというのが不思議である。  

騎馬民族征服王朝説〔図録より〕 

騎馬民族征服王朝説〔図録より〕

東洋史学者の江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説。

この説を支持する専門家は少数派にとどまっているとされ、今日ではほとんど否定されている。

考古学者の田辺昭三氏は「この説はこれが提唱された時代の要請の中で生まれた産物であり・・」と述べている。

時代の要請とは、太平洋戦争で日本が負け、GHQが日本を支配していたときの話である。

アメリカが喜んでくれるようなモノを出すという風潮がある。日本の伝統を否定し、日の丸を否定し、皇室を否定する人たちがいまだにいる。

マッカーサー

いい悪いという話ならわかるが、歴史を否定するというのは、理解しがたい。  

よく天皇家の祖先が大陸系であるという話も多い。

しかしそんな事もあるだろうなというのが私の思いである。

私たちは神話や軍国時代の天皇崇拝を真に受けているわけではない。

日本国自体が混血国家である。

時代の流れの中で天皇家が生き延びてきた事は事実であり、純潔性を信じているわけではないのが一般的な考えだと思う。  

それと大陸人移民説とは違うのだ。  

ウィキペディアによると、

弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島外から北部九州に移住することによって始まったとされるとある。

なぜこんな考えが主流になったかというと、ある時期から日本では水田による稲作が始まり、鉄の生産技術が生まれているからだ。  

稲と鉄が、大陸移民説の最大の理由だ。  

私も、鉄の精製は今までの日本に無かったという説を頭から信じていた。

しかし、すばらしく独創的な土器を作る「縄文人」に鉄は作れなかったのであろうか。

銅よりも鉄の方が溶融点は高いが、銅は溶解しなければ製品とすることが出来ないのに対して、鉄は溶解しなくても、7~800度の熱度で可鍛鉄を得さえすれば、これを熱してはたたき、熱してはたたいて鍛造できるという。  

*鉄の抽出には、特定の送風装置を必要としない。 弥生式土器を焼成する程度の熱でよく、タタラ炉を築いて特殊な送風装置を設けなくても、野辺にて製錬することができたということであった。 http://jumgon.exblog.jp/i44/ 日本の鉄の歴史 ( 4 ) より引用

これなら、学者が想像している野蛮で土の中に住む「縄文人」でも出来る。

鉄が遺跡から出てきただけで、大陸移民説を唱えるのは早計である。

もちろん、古墳時代、帰化系技術者(韓鍛治)の渡来は歴史上の事実だ。

異論は無い。  

③4世紀後半より5世紀にかけて、帰化系技術者(韓鍛治)の渡来による技術革新と職業の分化によって、製鉄に専従する部民と、それを管掌する氏族をも生じる。

*古墳時代にはヤマトが大陸より多量の「鉄」を手に入れた。

http://jumgon.exblog.jp/i44/ 日本の鉄の歴史 ( 4 ) より引用

江戸時代と昭和の時代では、人種は違っていない。

しかし、江戸時代の風俗、文化、骨格と昭和のそれでは大きく違う。

もちろん、時間の長さが違うのは理解しているが、日本人の祖先論が多々ある中で、大陸移民説納得いかないのだ。

日本人の祖先についてユダヤ人説や宇宙人説も面白いと思うが、あまりにも科学的根拠が無いので除外する。  

顔かたちは、アジア人である。しかし言葉は違う。

中国語は「シナ・チベット語族」、韓国語や日本語は「アルタイ語族」と言われる。

しかし、「アルタイ語族」というくくりにしても諸説あり、意味は無いという説もある。

ちなみにアルタイ語という名前は、中央アジアのアルタイ山脈にちなみ命名されたものだ。

その「アルタイ語族」である韓国語だが、朝鮮半島にはさまざまな国家・民族部族とさまざまな言語があったことはわかっているが、それらがどのように合わさって今の韓国語になったのか、韓国語の成立は古い資料が無く、ほとんどわかっていないという。

ハングル文字の成立が15世紀半ばで、それ以前は意味だけを漢字で記していたので発音はどうだったのかは、ほんの少しだけしかわかっていない。  

弥生土器

弥生時代の定義となっている土器。

縄文土器とはちがう、新しい土器が見つかっており、縄文土器より、うすくて、かたい。

また色が褐色である。高温で土を焼ける技術が発達したため、このような、うすめの土器が作れるようになった。

縄目は無く、表面は なめらかである。このような土器の名を、最初に発見された場所の東京都 文京区弥生町から、この土器を弥生土器という。

弥生土器

また、弥生土器の発見される地層が、縄文土器の地層よりも新しい地層であることが多いことから、時代の順序が分かる。このころの時代を 弥生時代という。 

なぜ、土器の焼き方が進化したと考えないのだろうか。  

日本にはいろんな種類の陶器がある。有田焼、伊万里焼、唐津焼、備前焼、美濃焼、瀬戸焼。 時代とともに変化していった。

日本人が西洋の影響を受け、和服から洋服へと変わっていった。

それとどう違うのだろうか。

大和に住む人々は柔軟で、外国から色んなものを取り込むのがうまい。

それは大和人の遺伝子のなせる業ではないのか。  

稲作

弥生時代のもう一つの特徴である稲作について。  

1994年、縄文末期に属する岡山県総社市の南溝手遺跡の土器片中からプラント・オパール(イネ科植物の葉などの細胞成分)が発見され、さらに同県真庭市美甘(みかも)姫笹原の4500年前の土器にもプラントオパールが発見され、2005年には岡山県児島郡灘崎町の縄文時代前期(約6000年前)の地層から大量のプラントオパールが見つかり、少なくとも約3500年前からすでに陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていたとする学説が数多く発表され、また水稲である温帯ジャポニカについても縄文晩期には導入されていたともいわれ、現在では稲作開始時期自体が確定できない状態である。

また、縄文式土器から弥生式土器の移行をもって弥生時代への移行とすることもあるが、特に東日本では弥生式土器と縄文式土器の区分も不明確であり、編年の基準としては使いがたい。 ウィキペディア

  この事は早く教科書に取り込んでほしい。

日本人の元である倭族は、日本列島だけを住みかにしていたのではない。

朝鮮半島の半分を倭族が統治していた。  

日本書紀に六十五年秋七月、任那国、遣、蘇那葛叱知、令朝貢也。(任那国、ソナカシチを遣わして、朝貢す。)とある。任那(みなま)は、筑紫の北、海を渡る二千余里、シラギの西南にあると記されている。

任那

倭人の国の人は、日本にじっと閉じこもっていたのだろうか。

朝鮮半島に住処を広げていた一族である。

中国大陸にも当然旅立って行ったに違いない。  

縄文についてだが、すべての土器に縄の跡があったわけではない。  

いわゆる縄目文様は撚糸を土器表面に回転させてつけたもので、多様な模様が見られる。しかし実際には縄文を使わない施文法(例えば貝殻条痕文)や装飾技法も多く、これは土器型式によって様々である。

縄文土器は表面を凹ませたり粘土を付加することが基本で彩色による文様は少ない。

しかし、文様が変化に富み多く用いられ、装飾は時には容器としての実用性からかけ離れるほどに発達した。この特徴は、日本周辺の土器にはみられない。

弥生土器といわれているものは縄文土器にくらべて明るく褐色で、薄くて堅い。

これは野焼きで作る土器ではなく(表面が露出している)、弥生土器が藁や土をかぶせる焼成法を用いたことに由来する。

文様については、縄目(なわめ)、刻(きざみ)目、櫛で描いたような描(くしがき)文などを施している。

弥生土器の文様-その2-(群馬県では弥生時代の最後まで文様を残しており、その代表はクシでひっかいた線でえがく櫛描文(くしがきもん)と縄文です。)

弥生式土器にも縄文は付いていたのである。模様や形が極端に変わっているわけではない。 作り方、考え方が変化したと考えたほうが自然ではないか。

また弥生土器は同じような形のものをまとめてたくさん作るようになったため、シンプルで形のととのった実用的なものが多いのが特長である。

また弥生土器の初期のものは、へらで 幾何学的な文様をつけたものが多く、後期のものでは、文様がないものも多く見られる。  

この例はアールヌーボーとアールデコの変化とよく似ている。  

アール・ヌーヴォー(フランス語: Art Nouveau)は、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動。「新しい芸術」を意味する。

花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴。 第一次世界大戦を境に、装飾を否定する低コストなモダンデザインが普及するようになると、アール・デコへの移行が起きた。

縄文の多様なアート作品とも言える様式から、大量生産のシンプルといえば聞こえはいいが、単純な大量生産を目的とした生活用品になっていった弥生土器。

よく似ているではないか。

アールヌーボーとアールデコは同じフランスで起こった様式の変化である。

けっして違う民族が作ったものではない。

アール・ヌーヴォーチェア

アール・ヌーヴォーチェア

アールデコ  グッドオークチェア

アールデコ  グッドオークチェア

縄文と弥生の土器の違いも同じように、生活の変化から起きてきたのではないか。

骨格の変化も弥生時代の存在の根拠になっている。

外国の学者が鎌倉武士の骨を調べたら、縄文系だったという記事があった。

よく私たちが目にする、縄文人と弥生人を比較する写真がある。

しかし、この写真が真っ赤な偽物だと証言しているブログがある。

ねずさんの ひとりごと

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2250.html 偽写真 

偽造(変造)写真

弥生時代という期間は存在すると思うが、弥生人はいなかった。

これが、常識的な答えだと思う。  

縄文時代に出現した文化。それは大陸の文化だ。

しかし異民族ではない。

大陸へ進出していた倭族たちの里帰りである。

彼らは稲作や鉄の製造、薄い土器の技術を持ち込んだのではない。

「仏」を持ち込んだのだ。   仏教が正式に日本史に載るのは538年とされている。

仏教誕生の地であるインドのネパールの釈迦によってはじめられた仏教が、シルクロードを経て中国に伝わったのは紀元前後の事。

日本の弥生時代は紀元前5世紀中頃と言われる。

しかしこの年代も不確実なのだ。

教科書のいうとおりの年代では、逆に正しい事が見えなくなってしまう。  

01.弥生始期の実年代はいつか ? http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_01suidenninasaku_no_jitunenndai.html

福岡空港南端に程近いところに、板付遺跡はある。1978年、縄文晩期の標準的な土器とされてきた突帯文土器の一種、夜臼(ゆうす)式土器だけが出土する層から立派な水田址が発掘された。

この発見は当時、「農耕」はすべて弥生時代(2300~1800年前)になってからはじまると信じられていた学界から大変な驚きをもって迎えられた。

その驚きも覚めやらぬ1980年、さらに古いと思われる2600年前の「日本最古の水田跡」が玄界灘にのぞむ唐津市菜畑で発見された。

上記のように、一つの発見で弥生時代というものが、どんどん昔になってしまうのだ。

今は、縄文時代と弥生時代の年代がころころ変わって行っている。

学者の人たちには罪はないが、あんまり鵜呑みには出来ない。  

大陸で仏教が広まっていく。

その考え方を持った大陸の倭族が、大陸の覇権争いなどで、日本国に戻ってきた。  

それが弥生時代の始まりである。

言葉は倭族だから問題はない。 多少大陸なまりはあるもののたいしたことはなかったのだ。  

それまでの日本の地には、神だけがあった。

神道というはっきりとした宗教ではない。

アミニズムである。 生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、

もしくは霊が宿っているという考え方だ。

漁や狩、農耕、すべてにわたり感謝と祈りで満ちていた。

その中に仏にすがる人々が混じってきたのだ。  

仏と神はまったく違う。

その道の専門家ならいくらでも議論が尽きないであろうが、その違いは日本人ならわかると思う。

仏はすがる。神には祈る。

仏陀の教えは形を変えながら、大陸に渡り、そして日本に来た。 仏の心は慈悲である。

そして人々は輪になる。  

6,000年前の縄文時代前期、地球規模の気候温暖化により氷河がとけ、海水面が10m 近く上昇し、海岸線が陸地の奥深く入り込んだ。

海退によって出現した湿地や沖積平野は初期の水田稲作にとって絶好の耕地となった。そして集落も台地上から平野部に進出するようになった。

 

縄文海進の時代 引用 民族学伝承ひろいあげ辞典

輪の心を持った倭の人々は、協力し合って稲作に精出す。

人々が協力し合う輪の心は、日本列島に広がっていく。

稲の生産高が豊かになり、集落が大きくなり、時代の流れを作った。

穀物が豊かになると、大量の土器が必要になる。  

そして、大量の薄くて硬い土器が作られる。

生活のための土器である。

装飾性は必要ではない。

それが弥生式土器である。  

仲間を持つ彼らは、顔立ちも個性的ではなくなった。

平たくなっていったのだ。

輪を持って尊しとなす。

個性的な顔立ちは輪を乱すからだ。

原始的な、いや自然発生的な共産制社会を持った。  

しかし、日本国には神の心を持った民もいる。

彼らは狩をし山へ入り海へ行き、自然とともに生きる。

個々の能力が大切にされ、みんなを引っ張る力となる。

そして自由な心が尊ばれる。

力強く、規律を重んじ、技と力の民となる。  

二つの民達は、交じり合っていった。

これが弥生時代に起こった。

大和民族の誕生である。

奇跡のような融合だが、大和民族は中国や朝鮮と別の道を歩みだしたのだ。  

その後「聖徳太子」が仏教を基にして律令国家を作った。

大陸から戻った「仏」の民達が礎となったのだ。

しかし、大和の民は神もまた大和の心である。  

それからの大和民族は試行錯誤を繰り返し、今日までいる。

お正月を祝い、お盆を家族で過ごし、神の元で結婚式を挙げ、仏の慈悲にすがり葬式を出す。  

神と仏。 今の私たちの生活が証拠である。

神仏習合

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