長崎の原風景(1) 長崎火山

先ずは超古代の話から始める。

長崎火山

およそ百万年前、長崎火山(長崎市街地を囲む山)、行仙火山(長崎市東部から諫早市飯盛地区にかけて)、有喜火山(諫早市南部の橘湾沿岸)があった。

それらが活発な活動をして、現在の長崎地形を作ったのである。

長崎 オランダ坂

長崎市内で有名な石畳だが、これは安山岩で出来ており、石切場は、風頭山や、城の古址、岩原(現立山)の三ヶ所にあった。

安山岩は、火山のマグマが地表付近で急に冷えて固まると出来る岩石である。つまり火山活動があったので、長崎の石畳は作られたというわけである。

もう少し詳しく書く。下記の内容は長崎市のホームページ内にある地形・地質レポートをまとめたものである。

http://www.city.nagasaki.lg.jp/shimin/170000/175000/p004017_d/fil/09chikeichisitsu.pdf

今から約7万年前に最終氷期が到来した。最終氷期には、厚い氷河が形成され海面低下が起こった。そのために海面が今日より約 120m 低下したと考えられている。

その時期には五島・壱岐・対馬・天草などとは陸続きになり、動物・ヒトも歩いて往来でき、植物も陸続きで同じ種類が繁茂している。

最終氷期(1万年前に終了した氷期)には現在の長崎港、大村湾には海水はなかった。

日本の旧石器時代は 紀元前1万5千年頃から始まっており、縄文時代は紀元前1万2千年前と言われている。

という事は氷河期の終わり頃に、長崎に人が住み始めたのだ。

佐世保の泉福寺洞窟には、豆粒文土器が発見されて約1万2千年前に作られている。

泉福寺洞窟遺跡(せんぷくじどうくついせき)

しかし、同じ佐世保の福井洞窟では3万年以上前の石器が出土しており、旧石器時代の存在を示すものである。

福井洞窟(ふくいどうくつ)

縄文海進

陸地だった長崎港は古浦上川が出来て盛んに浸食され深い谷や川ができる。

約6000年前頃になると縄文海進と呼ばれる世界的に暖かい時代が到来して、両極の氷河が融け海面上昇が起こった。

それまでに出来ていた深い谷々が溺れて、長崎港、樺島港、野母港、形上湾、大村湾などの溺れ谷が形成される。

さらに牧島・樺島・端島・高島・香焼島・伊王島・沖ノ島・池島・母小島・大蟇島などの島も出来上がった。

深堀遺跡

長崎港にある深堀遺跡には、おそらくこの時期の遺跡と思われ、この遺跡には、古代の遺跡と共には同じ場所に中世から江戸時代までの埋蔵物もあったのだ。

という事は、長崎の海岸線が大きく変化しなかったという証拠になる。

縄文時代のあとは弥生時代である。

この時代の遺跡も長崎にはある。それが前方後円墳である。

東彼杵にはひさご塚

東彼杵 ひさご塚古墳

島原半島の守山大塚(もりやまおおつか)古墳

これらの古墳を見れば、弥生時代以降、大和朝廷の影響力が、長崎まで及んでいたという証である。

しかしこれらの遺跡の主が誰なのかは不明である。

中世の長崎

日本の歴史は、縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、南北朝、戦国、安土桃山、江戸と動いていく。

長崎もその流れに沿って、人の流れがあった。

大和朝廷が出来たといっても、日本の隅々まで支配するような強力な組織ではなかったので、地方には豪族が自然発生的に出来上がっていたと思われる。

しかし、長崎には平野がなく、伊佐早に少しとあるくらいなので、大きな勢力は出来にくかったと思われる。

なので、交易や漁業で生計を立てていたはずである。

中世の長崎は彼杵荘(そのきのしょう)と呼ばれていた。その時代から色んな人達が流れ込んできている。

また、中国大陸や朝鮮半島からやってきた帰化人達もいたと思われる。

いずれにせよ、長崎を地元として開墾に励み、自分たちの領土も確保していたようである。

鎌倉時代には、強力な武家政権が誕生した。

それにより、戦いの恩賞という形で長崎にやってきた武士たちも多かった。

戦国時代になると、現在の地名になっている大名たちが活躍している。

対馬に宗家、壱岐・松浦に松浦党、彼杵に大村家、高来に有馬家、さらに強大な佐賀の竜造寺家たちである。

しかし安土桃山、江戸時代と移っていく時に、長崎では一大事件が起こり、他国とはかなり違う歴史を歩み始めたのである。

それがキリシタン大名の誕生である。

長崎開港

長崎開港と呼ばれる記念日がある。

それによると、元亀2年(1571年)がその開港記念日と定められている。

「長崎の岬は、開港以前、寒村でした」と、色んなパンレットに書かれている解説である。

しかしこの解説は間違っている。上記のように、開港以前にも様々な活動があったからである。

開港以前の長崎は長崎市民でもほとんど話題にならない。しかし、それ以前にも長崎には様々な文化があり、人々は生き続けていたのだ。

古代の記録

今度は歴史書をめくってみる。

火国(ひのくに)と呼ばれた時代があった。九州の有明海を囲む、長崎、佐賀、熊本の事である。

そして続日本紀に肥後国の名前が登場する。

どの時点で火の国が、肥前、肥後、に分かれたのかはっきりわかっていないが、記録として残っているのは持統天皇10年(696年)までの、どの時点かである。

なぜ、肥前肥後に分かれたかもわかっていない。

火の国の名前の由来が、阿蘇山の火山のことなのか、有明海の干潟のことなのかもわかっていない。

火の国は広いので、その当時の大和族が肥前、肥後と国を強制的に分断したと思われる。

長崎は肥前の国だが、肥前の国府は佐賀県の佐賀市(旧大和町)にあった。

佐賀が中心だったのである。つまり、長崎は肥前の国の西の果てにある場所という事だったらしい。

私が興味があるのは、そんな時代の長崎である。

長崎が日本の歴史に全然記されていないかといえばそうではない。

あの古事記の国産みの話しに、大八州を生んだ後、更に「児島」「小豆島」「大島」「女島」「知訶島(ちかのしま)」「両児島(ふたごのしま)」を生むが、この中の知訶島が五島列島である。

「両児島(ふたごのしま)」についても、五島の南西に離れて浮かぶ男女群島のことであるとするのが通説である。このとおり結構重要な地域だったといえる。

その後にかかれた肥前国風土記にも、五島の海士は「容貌、隼人に似て、常に騎射を好み、その言語は俗人に異なれり」と記されている。

長崎よりも、五島のほうが重要だったのかもしれない。

肝心の長崎市内は出てこないが、島原の話は出てくる。

肥前風土記

景行天皇が巡幸された時、島原半島をみて、「あれは、島か、陸続きか、知りたい」と。
神大野宿祢(みわおほののすくね)に見せに行ったところ、人が迎えに来て、「僕者此山神名高來津座 聞天皇使之來 奉迎而巳 因曰高来郡」(私は此の山の神、名は高來津座(たかつくら)といいます。天皇のお使いが来られると聞いて、お迎えに来ました。)と申し、「因りて高来(たかく)の郡(こほり)と曰ふ。」

謎の姫もいた。

長崎県彼杵地域 浮穴沫媛という土蜘蛛がいたが、天皇の命に従わず大変無礼であった。そのためすぐに誅した。よってこの村を浮穴の郷という。

浮穴の郷がどこにあったかも不明である。

その前後にも、佐賀と長崎に土蜘蛛がいたので誅したと書いている。


古事記は712年。日本書紀は720年。肥前国風土記は740年前後。


その前の記録は当然無い。

不確かな言い伝えや、昔話でしかわからない時代。

この時代の長崎の事は、いろいろ考えても記録がない以上想像の域を出ない。

それから、長崎はどうなっていったのか。

それが知りたいのである。

長崎の原風景(2)

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