古事記の邪馬台国 九州国産み考
肥の国の区分
昔の九州の地図を見て、未だにすっきりしないのが、肥の国の区分である。
肥の国だけが分断されている事に関して、誰も疑問に思わないのだろうか。
その明確な理由を知りたい。
ネットの意見としては 1.海を挟んだ一つの文化圏だった。 2.縄文海進で古代は海と陸が変化していた。などがある。
私も過去この問題を取り上げたことがあったが、その時は、島原半島と熊本は昔繋がっていて、火山の噴火で陸地が沈んだのかもしれない。又は熊本と島原が離れたと書いた。
今でもその可能性はあると思うのだが、なにせ証拠がないので想像の域を出ない。
肥国想像図 熊本と長崎が結合
http://artworks-inter.net/ebook/?p=607
グーグルマップで見ると、島原多比良と熊本長洲間は海底の様子が違う。
これを見るたび、古代つながっていた時代があったんじゃないかと思う。
弥生海退という現象があったとされている。
海面が現在の水準より2m程度下がり、海岸線が後退して沿岸部に低湿な平地が出現した。これを弥生小海退という。
http://suido-ishizue.jp/daichi/part2/01/02.html海岸線の後退に伴って陸地化した場所には沖積平野が形成され、また海が取り残されたところは、干潟や湖となっていきました。縄文時代の終わり頃から弥生時代の初め頃にかけて、こうした海退(海岸線の後退)はさらに進んだと考えられています。
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode03/nature01.html
これにより、つながったか、引き潮の時だけつながっているように見えたかの現象があったのだはないだろうか。
こればかりは、タイムマシンで古代にいかないと確認できないのか。
それとももっと科学が発達すればわかるのか。回答は未来に持ち越しである。
それなら、昔の文献に肥の国が分割されている理由がないかを探してみる。
古事記
古代の九州の地名は古事記に由来が書かれている。
改めて読み直したのだが、やはり不自然な部分がある。
筑紫島(つくしのしま):九州
胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
白日別(しらひわけ):筑紫国
豊日別(とよひわけ):豊国
建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ):肥国
建日別(たけひわけ):熊曽国
ウィキペディア
古事記の成立は8世紀初めである。この時すでに、九州は4つの地域に分かれていると認識していたといえる。
やはり不思議なのは肥の国の記述である。肥の国だけ名前が長いのだ。
建日向日豊久士比泥別とはなんだろうか。
ここに肥の国の謎があるような気がしてきた。
気になる点をあげてみる。
別
まず、九州と四国に別が付く地名がある。
四国の土佐を建依別(たけよりわけ)と言っている。
あと九州は全て別けが付いている。別とはなんだろうか。
天皇にもワケを称号にもつものが6名存在する。
景行天皇はオシロワケ(大足彦忍代別)
応神天皇はホムダワケ(誉田別、凡牟都和希)
履中天皇はイザホワケ(大兄去来穂別、大江之伊邪本和気)
反正天皇はミズハワケ(多遅比瑞歯別)
顕宗天皇はイワスワケ(袁祁之石巣別命)
天智天皇はヒラカスワケ(天命開別)
天皇は男系でその世代、一人しかなれないわけだが、天皇となれなかった皇子たちの地方領主としての称号がワケとある。
つまり、天皇家で天皇になれなくて地方へ出向き、その後事情があって天皇になった人たちの称号である。
つまり「別」とは地方という事らしい。
他にも、姓に別がついているものがある。
文字は違うが「和気清麻呂(わけのきよまろ)」などである。
辞書のブリタニカには本来5世紀前後の天皇,皇族の名につけられた尊称。この姓の氏族は皇別出身の伝承をもち,地名を氏とした国造が多いのが特色、とある。
なんとなく理解できる。天皇家に属するが、傍流ということだろう。この別の字でわかるのはここまでのようだ。
肥の国が分断されている理由
古事記は4つの国だと言っている。
しかし地図を見れば、肥の国の佐賀、長崎は福岡の筑紫とつながっているので、ここもも筑紫でいいはずだ。
もしくは、肥前を別にして5つに分けても不思議ではない。
ただこの事が書かれているのは地理の本ではなく古事記である。
古事記が編集された時代に、九州の地理が詳しくわかっていたわけではない。
更に神代の話である。4つの国にした理由があるはずだ。そこで九州の各地の呼び名の意味を考える。
九州の地名
白日別(しらひわけ):筑紫国
豊日別(とよひわけ):豊国
は北九州もしくは東九州ということで問題はないだろう。
だが、古名にある日向(宮崎)の名前がまずない。これはおかしい。
古事記には天孫降臨の瓊瓊杵尊の話や、神武東征の話があるので、日向を外すわけはないはずだ。
しかし時間軸で言えば、これは神武が誕生する大昔の国産みの話で、最初は4つだったよと言っているのだろう。
それなら、一つづつ考えてみる。
白日別
まず白日別(しらひわけ)筑紫国だ。
白日別の白日という言葉だが、現代用語の「白日(はくじつ)に下に晒す」等がある。
現代語の意味は、くもりのない太陽とか白昼だ。故事ことわざ辞典には『韓愈・崔群与書』に「青天白日は、奴隷も亦其の清明を知る」とあるのに基づく。ただ韓愈(かんゆ)は中国・唐中期を代表する文人だが768年生まれなので、白日という言葉は中国で昔から使われていたと思える。
しかし、この熟語を古事記の時代に使っているとは思えないので違う見方をしてみる。
白日別の日だが、直感として太陽の事と思われる。
天孫族の神話では太陽神は天照大御神だが、アマテラスの漢字には「日」という文字は入っていない。
という事は、古事記に書かれている「日」は大和の神様じゃない「日」という事になる。
微妙な言い回しだが、証拠はある。
古事記の神様たちだが、最初の五柱の神は、別天神(ことあまつかみ)と書いている。
その別天神は
天之御中主神(あめのみなかぬしの神)
高御産巣日神(たかみむすひの神)
神産巣日神(かむむすひの神)
この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)と成り、坐(い)まして、身を隠しき
とある。
この神様たちが、どうやって誕生したのか何も書いていない。つまりすでに存在していたとも言える。
この日本最初の神様の名前にある「産巣日神」の「日」という字は、神様だが太陽神天照を表しているはずがない。アマテラスよりずっと前の神様だからだ。
もっと根源的な「日」。大和以外の地をも照らす「日」だとも言える。
天照という文字を書いて、「アマテラス」と呼んでいるが、古代の神社にも天照という名称を持つ神社があるが、こちらは「アマテル」と読む。
京都府太秦の木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)の天照御魂がいい例である。
また長崎県対馬には天道伝説があり、神道の元になっていると言われている。だから「アマテル」神社がおおい。
この事からも、白日別など九州の神様に付いている日は、別の世界の神様という意味だ。
九州の地名にはこの「日別」が付いているのは、大和の支配下でない時代があったという事実を表しているのだ。
となれば白日別とは「白」で表すことが出来る王の領地(支配地)ということになる。
新羅(しらぎ)
一般的な解釈では、その時代の朝鮮半島の南部にあった新羅(しらぎ)の事を指すと言っている。
確かに新羅(しらぎ)は356年が実質上の建国年とも考えられていて時代も合うし、新羅は当初「斯蘆」(しろ)と言っていたので、白日別の白と合致する。
北九州が朝鮮半島の新羅の属国だとする言い張る朝鮮人学者もいるようだが、他の情勢から考えてもそのような事はない。
白日別は筑紫国を指している。筑紫国は倭人の支配国だが、その範囲が南朝鮮の地も含まれていると考えたほうが正解である。
本居宣長も、肥国(火国)とは、本来は肥後のことだけを指し、肥前はもともと筑紫地方に属していたのが、のちに肥国に編入されたのではないかと推測していた。
http://kojiki.ys-ray.com/1_3_1_kuniumi_2.html
さらに、九州の胴体は一つで、顔が4つあると擬人化して書いている。
となれば白日別の顔は朝鮮半島の「斯蘆」(しろ)国を向いている地域という意味ととったほうが自然だと思う。
豊日別(とよひわけ)
豊日別(とよひわけ):豊国
建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ):肥国
建日別(たけひわけ):熊曽国
と続くが肥国は特別なので後回しにする。
建日別(たけひわけ)は熊曽国であり、ヤマトタケルとかクマソタケルなどの健(タケル)の文字が使われているので、強力な戦士たちが住んでいた地域だとわかる。
問題は、豊日別(とよひわけ)と建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ)である。
豊の字は現在も使われている地名で、福岡県東部から大分あたりをいう豊前国(ぶぜん)豊後(ぶんご)である。
この豊の字の由来だが、豊後国風土記では、天皇に芋を献じたところ豊かな国だといい、豊国と名付けたという。この話はやはり逸話に過ぎないだろう。
他の人の見解
■建日向日豊久士比泥別は、勇猛で、太陽に向かう、太陽の光りが豊で、奇妙霊妙な力のある男、を表わす。
http://www.wdic.org/w/CUL/%E5%BB%BA%E6%97%A5%E5%90%91%E6%97%A5%E8%B1%8A%E4%B9%85%E5%A3%AB%E6%AF%94%E6%B3%A5%E5%88%A5■「建曰向日豊久士比泥別」の名は「建日 向日 豊奇曰 根別」の義にして「等しく天日により天日を以て国を称ヘたる中にも、この 「肥の国」はその名の基づく根本を示国名なるぞ」と云へるなり。
林兼明 神に関する古語の研究
http://jijijipunch.blogspot.jp/2015/01/blog-post_77.html■「火の国は、勇猛でもあり、朝日を拝む神聖な土地もあり、台与の力により神聖で神秘的な国でもある。」ことをしめしている。
http://ereki-westjapannavi.blogspot.jp/2011/07/blog-post.html■通説は、「建日・向日・久士比泥・別」と区切る。が宇摩説のように区切ると、建(族)、日向・日豊・クシヒ根・別(わけ)となって、全て宮崎と近郷の地名である。
https://ameblo.jp/yamato011/entry-11785675837.html
なるほど。「台与の力」の文には少し惹かれたが、文字を形容詞と捉えた人がほとんどである。しかし最後の説が一般的という。しかし肥の国が宮崎だったという説には納得がいかない。
共通するもの
白日、豊日、建日の3つの文字に共通するものはなんだろう。
例えば白日別だが、この白は新羅の前身の国を指している。
建日別は、建(たける)と言う人物もしくは役職の事を示している。
となれば、豊かだとか、白く光っているなどという形容詞を使っていたとは思えない。
その論法でいけば、豊日別の「豊」も個人名か役職、一族の事を述べていると考えても良い。
ここで、一つ思いついた。
別を持つ地名がもう一つあった。それは土佐の建依別(たけよりわけ)である。
建は武士もしくは勇者である。それなら「依」はなんだろうか。
土佐と豊国
地図で見ると、大分県と四国は近い。潮の流れでいうと黒潮という潮の道でつながっているといってもいい。
豊国は天孫降臨神話の出発点だといってもいい。
霧島神社(瓊々杵命)、青島神社(ニニギの息子の火遠理命)、鵜戸神社(ニニギの孫の鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズ)はとくに有名で日向三代と呼ばれている。
ニニギの息子の火遠理命、つまり山幸彦のお嫁さんは「豊玉姫」といい、鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズ)のお嫁さんは、豊玉姫の妹の「玉依姫」という。
大分、宮崎地方が「豊玉姫」の豊日別
黒潮でつながっている土佐が「玉依姫」の建依別
見事に繋がってしまった。
「豊玉姫」と「玉依姫」はなんと姉妹である。つまり一つの血の流れである。つまり天皇家は、人間になる前に「豊玉姫」の血筋と深く結ばれていたということだ。
玉依姫の名前は固有名詞ではなく霊(たま)の憑(よ)りつく巫女ということらしい。(京都の下鴨神社に祀られているのも玉依姫という)
古代の土佐も九州と同じ様に書かれている。
一身にして四面、即ち、伊豫を愛比売(えひめ)、讃岐を飯依比古(いいよりひこ)、阿波を大宜都比売(おおげつひめ)、土佐を建依別(たけよりわけ)と名付けた。
書き方は九州と同じだが、名前が明らかに違う。
伊豫を愛比売(えひめ)
阿波を大宜都比売(おおげつひめ)
讃岐を飯依比古(いいよりひこ)
で、姫と彦の個人名で国名をいっている。
ところが、土佐だけ建依別(たけよりわけ)で九州と一緒だ。
きっと土佐は九州の建日別の人たちが大勢住んでいたんだろう。
そして、その名前は建依(たけより)だという。これは玉依姫の「依」と建日別の「建」が合体したものと言える。
つまり、高知は熊襲、隼人の男性と玉依姫の子孫が治めていた場所ということにはならないだろうか。
そうなれば豊日別の「豊」は豊玉姫の「豊」であり、「豊」族が治めていた国が「豊国」となる。
これらの推理から、国名に余計な形容詞は使っていないはずだ。
その論理から建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ)を推理する。
建日向だが、白日別が擬人化で本拠地は北九州だけど新羅に向かっていると書いた。
そうすれば、建日向は建日(鹿児島、宮崎南部)に向かっているといえる。
もしくは、建(熊本の建)と日向(宮崎南部)を含むという事だろう。
しかし他の3つが、白日、豊日、建日と2文字で区切っているので建日向は建日(鹿児島、宮崎南部)に向かっていると取りたい。
向には敵対しているという意味も取れるので、そんな国ぐにの力関係を含めているとも思われる。
次のクシだが一般的な解釈では、クシは「奇し」と読み解かれており、不思議なとか霊力があるなどの意味とされている。
天孫降臨の話に「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)」と記述されている。
「くしふるたけ」は山だが、こんな使い方があるという事は、久士比泥も固有名詞と使われていると確信できる。
上代特殊仮名遣で謎を解く
久士比泥の「比」だが、泥の前に「比」が付いている。「ひ」の「どろ」、つまり干潟(ひがた)の事だ。
ただし、比べるの「比(ひ) 甲類」と干すの「干(ひ) 乙類」は違う。
なので同じ甲類の日と思われる。こうすると天日にあたっている泥とも取れる。
そんな時、久士比泥は泥炭ではないかと書いているページに出会った。
http://gownagownaguinkujira.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-e9c5.html
なるほど、そういう可能性もあると感じた。
結果、久士比泥は不思議な泥つまり有明海の不知火や干潟をさすとして間違いがないと思う。
残りの日豊はなんだろうか。
豊は豊国の事と言う推理もあるが、そうすれば「日」が一つ余る。
余計な形容詞は使わないという約束だと、この「日」が名詞だということになる。
魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の女王は、ご存知「卑弥呼」である。
この「卑弥呼」の「ヒ」は上代特殊仮名遣では、卑と書いても日と書いてもいい文字である。
つまり「卑弥呼」と書いても「日弥呼」と書いても読みは同じだ。
しかし、同じ「ヒ」でも、「日」と書いている文字の読みを「肥」や「火」では表記しない。
「卑」と「日」は同じ音だったのだ。
邪馬台国の事を古事記は知っていたのか
記紀の中に邪馬台国の事が書いていないのは有名だが、新羅や中国の魏を知っているくらいだから、当然邪馬台国の事を知っていたはずである。
だが魏志倭人伝での名称「邪馬台国」という名前は知らなかったと思われる。中国の魏の国の記述だから当たり前である。
しかし、大和の国ができる前に、九州に一つの勢力があったことは認知している。
その勢力があった地域が大雑把に言うと豊国と肥国である。
でた! 邪馬台国
「卑弥呼」の「ヒ」と文字の中の「日」は同じ読みだということは前述した。
上代特殊仮名遣では卑、日でもいい読みである。
建日向日豊久士比泥を上記の意味から、もっと具体的に言い換えれば、
鹿児島(邪馬台国のライバル狗奴国)に向かい、卑弥呼とトヨ(邪馬台国の後継者)がいて、不思議な干潟がある場所と読める。
建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ)とは、古代王国があった事を指すのだ。
こうなると豊国も意味が変わる。
豊日別(とよひわけ)は、そのトヨ(邪馬台国の卑弥呼の子)の後継者達が移り住んだ場所という意味である。
古事記に書かれている瓊瓊杵尊の息子は火遠理命(=山幸彦)と言う。
このお嫁さんが豊玉姫命(トヨタマヒメ)である。
その子供が大和の初代天皇の神武である。
この物語の意義は深い。「豊」という文字は、伊勢神宮の外宮の神様が豊受大御神(とようけのおおみかみ)である。
つまり、「豊」の血は日本の神様の中心人物である。
そして豊国は邪馬台国のトヨの血筋を持つ一族の場所である。
古事記が編集された時代に肥の国が特別視されていことが、この長ったらしい名前で理解できる。
現代では、邪馬台国は筑紫だとかという説もあるが、細かな地域まで言っているのではない。
九州をざっくり分けると、南北には白日別という、朝鮮半島に関係している国と、建日別という武人たちが住んでいる場所があり、
東西には、古代王国があった不思議な場所(肥国)とそれに関係している大和の故郷の場所(豊日別)があったという事である。
ちなみに肥の国のひは卑弥呼のひではない。上代特殊仮名遣だと卑と肥では読みが違うからだ。
用法に従えば、肥の国は火の国である。
火の国が有明海を挟んで分割されている理由は、火山があった地域を火の国と呼んだのである。
阿蘇山と雲仙のある場所が火の国なのだ。
こう考えれば、肥の国が分断されている事も理解できる。
いや、古事記の時代では地続きだったと勘違いしている節もある。
古代の地図を見ればソッチのほうが正しいのではないだろうか。
上記の地図を見れば、九州は団子だったと思われていた。
国産み
古事記の国産みは、意外なところを重要視しているのがわかる。
1.淡路島
2.四国
3.隠岐島
4.九州
5.壱岐島(長崎県)
6.対馬(長崎県)
7.佐渡島
8.本州
これが大八島国(おおやしまのくに)といわれる国産みの順序である。
これは大和時代、記録が新しい方から書いていったと思われる。
その次に生んだのが
児島半島(岡山県)
小豆島 (瀬戸内海)
周防大島 (山口県)
姫島 (大分県)
知訶島(ちかのしま)五島列島(長崎県)
両児島(ふたごのしま)男女群島(長崎県)
これから感じることは、忘れちゃいけない長崎県(肥の国)だという事だ。
これは古事記に書かなくてはいけない事、大和の歴史に残さなくてはいけない事なのだ。
大和にしてみれば、古代の九州の事など言い伝えとしてしか残っていなかったはずだ。
邪馬台国とか卑弥呼とかは、中国大陸の巍の国の書物に書かれているだけで、大和人は知らなかったのだ。
しかし、言い伝えはわずかに残っていたはずである。
それが建日向日豊久士比泥別である。
反論は覚悟している。
しかし、自説を信じる。いや信じたいと思う。